第二十話 『フレア・アクセサリ』下
雨が止み、晴れ間が覗く。
草木に滴る水滴が陽光を反射し、辺りに輝かしい景色が広がる。
山道の斜面をうろつく魔突猪の体に、小さな刃物がぶつけられた。
魔突猪は刃物が飛んできた方向に体を向けると、洞窟から外に出たステア・ドーマを視界に捉える。
ステアは雄叫びを上げ、洞窟へ走り出す。
「来い!!」
魔突猪は足を振り上げ、叫び声を上げ、ステアへ突進していく。
ステアが洞窟に入り、魔突猪も彼に続く。
しかし、ここで魔突猪に異変が起こる。
ステアが罠として作った入り口付近のくぼみに片足を取られ、魔突猪は体勢を崩した。
濡れた地面に加え、洞窟は下るようなわずかな傾斜。
図体ギリギリの大きさの洞窟に魔突猪は滑り込んでいった。
ステアは洞窟の端を疾走しながら、声を響かせる。
「外すなよ!!」
ステアに念押しされ、魔突猪を待ち構えるのは、魔術学校生フレア・アクセサリ。
普段から持ち歩いている両親が作った髪飾りを願掛けかの如く全て装着し、魔突猪の眉間に左手を向ける。
『魔突猪のウザさは針金みたいな硬さの大量の体毛だ。普通に斬っても刃が通らない。普段なら《火球》が使える魔術士で丸焼きにするのが定石だが……今はあいにくの雨。丸焼き作戦は無理だな。ただ、普段と違う点が一つ。フレア、お前の《火槍》だ。話を聞いた感じだと、《火球》以上の圧倒的な一点突破の火力。一発でいい。あいつの眉間に《火槍》を当てれば、燃え広がらずともその部分の体毛は焼け落ちるはずだ。あとは俺が奴の眉間目掛けて剣を突き刺す。殺せるかどうかは運だな。俺、非力だし』
これがステアによる大まかな魔突猪討伐の作戦。
ここでフレアがステアに求めた要望は二点。
一つ目は、的の絞り込み。
二つ目は、《火槍》発動までの時間確保かつ術式を維持できる一瞬の間に魔突猪を誘導すること。
的の絞り込みは洞窟という狭い空間に魔突猪を誘い込み、体勢を崩させて一直線に滑らせることで達成。
《火槍》発動までにかかる時間は約十秒。発動可能状態を維持する時間は一秒に満たない。これを過ぎれば最初から仕切り直さなければならず、動く的に対してフレア自身の狙いの精度は決して高くない。このため、高速かつ一点集中の《火槍》は扱いにくい魔術とフレアは認識していた。これに対し、ステアは雄叫びを合図として十秒後には魔突猪を洞窟の入り口に誘導することに成功する。
あとは照準を定め、《火槍》を魔突猪の眉間に放ち、洞窟側面の崩れたようにできた穴に逃げ込み、ステアに後を任せる。
ここまでのお膳立てをされて今更逃げ出すことはできない。
体毛を焼くだけに限らず、その身を貫かせてステアに止めなど刺させない。
現実的でないが、それだけの意気で魔術を放つ。
せめて魂だけでも彼に負けないように。
「《火槍》!!」
魂からの叫びと同時に、洞窟を瞬時に高温まで引き上げた槍は狙い通り魔突猪の眉間に命中。体毛がきれいに焼け落ちる。
しかし、フレアにはここまでが限界だった。
気力が全て抜け落ちたかのように体が全く動かず、滑り続ける大質量から逃れることができない。
そもそも実戦経験のない学生。
その初戦が身の丈にまるで合わない暴威の化身。
一度は為す術なく立ち尽くすだけだったその威容を真っ向から受け止め、文字通り一矢報いただけでも彼女の精神の異常性を物語っている。
それでも、彼女の心中は諦念で満たされていた。
走馬灯のように頭に浮かぶ両親の顔。貴賤を問わない常連客の面々。学友たち。そして――
憎たらしく恨めしく忌々しいステア・ドーマの顔が目の前に現れ、体が洞窟側面の横穴に向けて放り投げられた。
何とか捉えられた視界には、フレアをかばったことで滑る魔突猪に追いつかれ、その巨体を真正面に受け止めて洞窟の奥に押し込まれていくステアの姿があった。
作戦のしわ寄せの代償はステアが払うことになった。
魔突猪は止まることなく、滑ったときの速度を維持しながら洞窟の最奥に激突。
ステアは腰回りを壁と魔突猪に押し潰される。
ステアにとってはこれまでもこれからも、これに勝るものはないだろうと思えるほどの激痛。
腰から下の感覚がない気がする。
しかし、ステアの意識は薄れるどころか口角を吊り上げ、その目はさらに迫力を増す。
「くっっっそ……締まらねえなああああ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝!!!」
ステアは大音声をまき散らしながら、魔突猪の眉間に剣を突き立てる。脳天を貫かれた魔突猪も絶叫する。
『獣』と『化物』の叫び声が洞窟内に轟く。
吠え、叫び、怒鳴り、金切り声を上げる。
絶叫、悲鳴、雄叫び、怒号、奇声、叫喚が空気を震わせる。
横穴から身を乗り出したフレアからは魔突猪の背部しか見えなかったが、ステアの叫びはまるで目の前にいるかのようにその存在を錯覚させた。
いつしか涙が彼女の頬を伝うが、本人は気づいてすらいない。
フレアはこの様子を呆然と眺めていただけだったが、視界の端には魔突猪の後ろ脚が動く様子が映った。
完全に立ち上がれば、魔突猪の体勢が立て直されてしまう。
そうなれば、いま雄叫びを上げているステアはどうなってしまうのか。
魔突猪の自重のみで押し潰されている状態が、奴の脚力も含めた力で潰されてしまう。
姿は見えずとも、現時点でステアが重傷であることは明らか。
もう一撃でも食らえば……
脳内が別の恐怖に支配される。
またしても自分の不甲斐なさで、今度は死なせてしまうのか。
ありえない。
「嫌い」の一言すら伝えられないなんて。
気付けばフレアは左手を魔突猪に向けていた。
初めは空気が抜けたように、しかし次第に音を成し、最後は彼らと張り合うほどに吠える。
「……ぅ……そう……カソウ……《火槍》。《火槍》。《火槍》。《火槍》! 《火槍》! 《火槍》!! 《火槍》!! 《火槍火槍火槍火槍火槍》!!!」
連呼したところで魔術の発動に何ら影響はない。
しかし、魔術の発動間隔は次第に短くなり、《火槍》を何発も魔突猪の臀部に打ち込んだ。
フレア本人ですら何発打ったか分からない。
《火槍》を発動するだけの魔力を使い果たしたことにより、叫んだところで何も起こらないことに気づいて初めて魔突猪の状態を見た。
下半身がえぐれたようになり、視界に映る大部分が焼けただれたようになっている。
意識して空気を吸い込むと、肉の焦げた臭いがし、肺が焼けるようにひりつき、むせかえるようだった。
洞窟に響くのは、自分の咳込んだ音だけになっていた。
フレアは現実感のない光景に呆然としていたが、か細い声が鼓膜に届く。
「たすけてくれぇぇ……」
フレアは我に返り、魔突猪の肉片を踏むことすら気にせず声の発生源に走り出す。
洞窟の幅いっぱいに広がった魔獣の死骸と壁面との隙間に何とか潜り込み、ステアを見つけた。彼は腰辺りを魔突猪の大きな鼻と壁の間に挟まれている。
前傾姿勢で死骸に寄りかかり、吊り上げた口角から血を流してぐったりとしている。虚ろな瞳で目を細めているが、彼の両手は今も死骸の脳天に突き刺さった剣を握りしめていた。
「ねえ、ステア! ねえってば! 勝ったんだよ! 死なないで!」
フレアは必死に語りかけながらステアの体を引き、挟まっている状態から解放したが、ステアは倒れたまま起き上がらない。
その様子にフレアは青ざめたが、ステアは小声ながらも変わらぬ調子で口を動かす。
「うるさいなぁ……しなせたくないなら……大人と……あと、空気……」
フレアは彼の様子に毒気を抜かれ、冷静になった。
洞窟の入り口に向かい、なるべく平らな地面に指で送風機能の魔術陣を描き、残り僅かな魔力を注ぎ込む。このとき初めて書き損じも、図形が乱れることもなく一筆で陣を描けた。陣術の発動には一分ほど時間がかかったが、悲観することなく斜面を駆け登り、討伐隊との合流を目指した。
奇しくも、二人の捜索のために戻って来ていた討伐隊と合流。事態の簡潔な説明をし、討伐隊を洞窟まで誘導。その後は魔突猪の死骸の解体をその場で行い、ステアを救助。
二人は王都への帰還を果たした。
~~~
激闘から二週間。
治療院の寝台の上、ステアは体育座りをしながら呆然と窓を眺めている。
本来の角兎の間引き任務は無事に終了。
魔突猪の討伐は見舞いに来てくれた組合職員に仔細を報告。
その際、フレア・アクセサリの尽力と偵察部隊の怠慢を強調した。
魔突猪の討伐による臨時報酬としてそれなりの大金が渡されたが、組織の適切な再編費用として使うよう跳ね返した。
負傷に関して、前衛的な現代美術かの如く大腿骨とその周辺が砕けていたらしい。現時点では治癒魔術によって足を折り曲げられる程度には回復。一ヶ月を目処に稼業に復帰できそうだった。
もっとも、下半身不随が確実という担当医の所見を裏切ったらしく、ステアは人外かの如く扱われていた。
ステアがこれほどの大怪我を回避できる可能性について当時を振り返って思案を巡らせていたところ、看護師から一通の手紙を手渡された。
差出人不明。看護師曰く、オレンジ髪の女性から渡すように言われたと。
封もされていないたった一枚の手紙を読む。
『ステア・ドーマ殿へ。
この度は非常事態から救っていただき、感謝申し上げます。
貴方のおかげで自分がいかに未熟で浅ましい子供であったかと痛感しました。
私は強くなります。
この出来事が私にとって一番の恥だったと誇りに思えるように。
世界で一番嫌いな貴方を好きになれるように。
ご健勝をお祈り申し上げます。
いつか貴方が冒険者として必要とされない日まで』
文体を含めて、めちゃくちゃな内容だ。冒頭の内容からフレアが差出人だと推測できるが、字面に対して、とても感謝の念が含まれている文面じゃない。宣戦布告かのような意図すらあり得る。ステアの雇用の機会が奪われることを祈っていそうだ。
ステアからすればここまで言われるようなことをした覚えはなく、疑問符を浮かべるばかり。
彼にとって、この手紙は『そういう人』もいるのか、という世の中の広さを体感するものに留まった。
~~~
時はあの事件から次年度に移り、場所はヒカネ魔術学校の校長室。
二等魔術士フレア・アクセサリは【才焔】の異名を持つ一等魔術士ロゼ・クリスタと対面している。魔術学校を無事、好成績で卒業した彼女の進路は【才焔】の魔衛士である。
「アタシの魔衛士になる条件――『教員としてこの学校に常駐する』ってわけだけど……その目、先生になる気はサラサラなさそうね」
ロゼは自身の魔衛士となる募集要項を明らかに無視した態度を取るフレアに目を細める。呆れているわけだが、過去の自分を顧みて若気の至りへの理解はしているつもりだ。下手な圧をかけてこの募集要項で初めてやってきた教員候補を逃したくはない。
こういう場合は明確な実力行使が手っ取り早く、ボコした後に大人の余裕を見せつければ大人しくなるはず。相手がただの小娘であればそうするつもりだった。しかし、フレアの目は若気を微塵も感じさせない、鬼気迫る感覚を味合わせてくる。
まるで――
ロゼのたしなめるような発言に対し、フレアは答えた。
「お仕事ですし、教員として精一杯働かせていただくつもりです。その代わりではありませんが、私を弟子として鍛えていただきたいのです」
高位の魔術士にとって後進の育成は義務に近い役割であり、ロゼ自身それを拒絶する特別な理由はない。
しかし、恐れ多くも新社会人程度の魔術士が自分から頼み込むなど、魔術士の間では度を越した無礼に当たる。これに腹を立てるほど狭量ではないが、ロゼにとってはフレアをそうまでさせる理由が非常に重要だった。
「弟子になって、強くなるか、できることが増えるか……いずれにせよ成長はできるでしょうけど、そうまでしてやり遂げたいことでもあるの?」
ロゼの問いに対し、フレアは宣言する。
「私は、強くなりたいです。何者であっても私を揺らがせることなどできない……力が欲しいです」
フレア・アクセサリはこの時、身の丈に合わない果てなき道のりの一歩目を踏み出した。




