第6話 悪魔人形
旧暦388年、春 聖教国家、シュトラ。
アルとジュドは、宿屋ノックスの二階へ上がった。
一階の食堂から離れると、人の声は少し遠くなる。
階段を上がった先には、客室がいくつか並んでいた。ジュドはそのうちの一室の扉を開け、アルを中へ入れる。
部屋は広くない。
寝台が一つ。
古い机が一つ。
窓際には、簡素な椅子が置かれている。
ジュドは扉を閉めると、すぐにアルを見た。
「それで?」
声は低い。
「心当たりって何だ?」
アルはすぐには答えなかった。
北西の旧街道。
人だけが襲われる。
荷を奪うわけでもなく、馬を食うわけでもない。攻撃は正面からではなく、背後や側面から。敵の姿をまともに見た者は少ない。
それらの話を聞いた時、アルの中に浮かんだものがあった。
できれば、違っていてほしい。
そう思う程度には、厄介な相手だった。
「悪魔人形かもしれない」
アルは短く言った。
ジュドの眉がわずかに動く。
「悪魔人形」
「ああ」
「悪魔戦役の話で聞く、あれか」
「知っているのか?」
「詳しくはない。酒場の噂か、年寄りから聞いた話くらいだ」
ジュドは机に手を置いた。
「それが、旧街道にいるかもしれないってことか」
「確定ではないが」
アルは即座に答えた。
「ただ、話を聞く限り、可能性は高い。」
「アル、お前は、その悪魔人形を見たことがあるのか?」
アルは少しだけ沈黙した。
ここで黙りすぎれば、逆に疑われる。
だが、話しすぎれば、自分の正体に近づかれる。
アルは言葉を選んだ。
「戦ったことはある」
ジュドの目が細くなる。
「勝ったのか」
「いや、生き残っただけだ」
アルはそれだけ答えた。
ジュドはしばらくアルを見ていた。
聞きたいことはあるはずだった。
どこで戦ったのか。
いつ戦ったのか。
なぜ、そんなものを知っているのか。
だが、ジュドはそれらを一度飲み込んだ。
「危険か?」
「危険だ」
アルの返事は早かった。
「獣や盗賊を相手にするつもりで行けば、死者が出る」
「皆にも話すべきか?」
「話すべきだ」
アルは頷く。
「ただし、俺が戦ったことまでは言わないでくれ」
「なぜだ?」
「説明できないことが増える」
ジュドは短く息を吐いた。
「……分かった。下では、悪魔人形の可能性が高いとだけ話す」
「ああ」
「ただ、依頼に関わる危険は隠すな」
「分かっている」
アルは頷いた。
「そのために、ジュド、お前を呼んだ」
「ならいい」
ジュドは扉へ向かった。
そこで一度だけ振り返る。
「アル」
「何だ」
「今は詳しく聞かない。だが、お前が何を知っているのか、いつか聞くことになる」
「その時が来たらな」
「来るだろうな」
ジュドはそう言って、扉を開けた。
階下から、リッカの声がかすかに聞こえる。続いて、ガルネの低い声。ダインが何かを言い返し、フィリアが小さくなだめている。
その声を聞きながら、アルは階段へ向かった。まだ、あの者たちに話せることは少ない。だが、何も知らせずに旧街道へ向かわせるわけにはいかなかった。
一階へ戻ると、灰鷹の五人が一斉にこちらを見た。
リッカは椅子の背にもたれたまま、少しだけ眉を上げる。
「戻ってきた」
「何か分かったんですか?」
ダインがすぐに身を乗り出した。
ミリアがそれを目で制する。
ジュドは席へ戻らず、立ったまま全員を見た。
「旧街道の相手は、悪魔人形の可能性が高い」
食堂の一角が、静かになった。
それを言ったのは、アルではない。
ジュドだった。
だからこそ、誰もすぐには茶化せなかった。
「悪魔人形?」
ガルネが低く呟く。
「悪魔戦役のやつか」
「断定はできない」
ジュドはすぐに言った。
「だが、アルの話を聞く限り、その可能性は考えておいた方がいい。少なくとも、獣や盗賊のつもりで旧街道へ入るのは危険だ」
ミリアがアルを見た。
「アルは、そう判断したのね」
「ああ」
アルは短く答えた。
それ以上は言わなかった。
ジュドも、アルに詳しく話させるつもりはないようだった。
「依頼は調査として受ける」
ジュドは続けた。
「原因排除は現地判断だ。相手が何か分からないうちに、倒す約束はしない」
「それなら、報酬は調査分の金貨一枚だけで受けるってこと?」
リッカが依頼書へ視線を落とす。
「そうだ。追加の金貨四枚は、原因を排除できた場合だけだ。無理に取りに行くな」
「金は欲しいけど、死んだら使えない、ってやつね」
「ああ」
ジュドは頷いた。
「そういうことだ」
ダインが小さく手を上げる。
「悪魔戦役って何ですか?」
ガルネが呆れたように見る。
「お前、名前くらい聞いたことあるだろ」
「名前くらいはありますよ。でも、詳しくは知らないです。五十年くらい前の話でしょう」
「六十年な、まあ、俺も詳しいわけじゃないけどな」
ガルネは頭を掻いた。
「昔、このあたりにあった王国が悪魔人形ってのを使って、戦争を仕掛けたって話だ。暗黒戦争って呼び方もあるが、今は悪魔戦役って呼ぶことの方が多いみたいだな」
「ボードイン王国ね。兄さんは、暗黒戦争の方が当時の呼び方に近いって言ってた」
リッカがぽつりと言った。
「その頃は、その王国、ボードイン王国だけじゃなくて、他の国も対抗するために何でもやったって。だから、暗黒戦争って呼ばれたんだって」
「リッカの兄さんって、そういう話も知ってたんですね」
フィリアが感心したように言う。
リッカは少しだけ口を尖らせた。
「変なことばっかり詳しかったからね。お金の使い方にも口うるさかったし」
「今、それは関係あるのか?」
ガルネが言うと、リッカは目を細める。
「あるよ。危険な依頼ほど、報酬と準備をちゃんと見ろって言われてた」
「それは正しいな」
「でしょ」
リッカは少しだけ得意そうにしたが、すぐに表情を戻した。
「でも、悪魔人形って本当に残ってるものなの? 戦役の時にほとんど壊されたって聞いたけど」
「俺もそう聞いたな」
ガルネが腕を組む。
「各地で悪魔人形が壊されて、ボードイン王国もいつの間にか戦争を続けられなくなった。そのまま終わったのか、終わらされたのかは、よく分からないけどな」
「うやむやですね」
フィリアが困ったように言った。
「六十年も前の話だ。しかも、まともな記録がどれだけ残ってるかも分からない」
ガルネは肩をすくめる。
「酒場で聞く話なんて、だいたい尾ひれがついてる」
「アルミドの悪魔も、その頃の話ですよね」
フィリアが言った。
その名が出た瞬間、アルの指先がわずかに動いた。誰も気づかないほど、小さな動きだった。
「アルミドの悪魔?」
ダインがまた首を傾げる。
「それも知らないの?」
「名前は聞いたことありますって。でも、何をした人なのかはよく知らないです」
「私も詳しくはありません。ただ……悪魔人形にかこつけて、人形だけでなく人間まで大量に殺した人だと聞いたことがあります」
フィリアは眉を寄せた。
「本当なら、ひどい話です」
アルは何も言わなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ冷えた。
「大殺人者って話も聞くな」
ガルネが続ける。
「アルミドはボードイン王国の土地だったはずだが、国境に近かった。その後、正式に攻撃されて、今はもうまともな町としては残ってないって話だ。廃墟同然だとか、荒れ地だとか、そんな話ばかりだ」
「悪魔戦役に、悪魔人形に、アルミドの悪魔」
フィリアは小さく息を吐いた。
「名前だけ聞くと、全部つながっているように聞こえます」
「実際、そういう話にしてるやつも多いだろうな」
ガルネはそう言って、アルを見た。
「アルは、その悪魔人形に心当たりがあるんだよな」
「ああ」
アルは短く答えた。
だが、それ以上は言わなかった。
アルミドの悪魔。
また、その名が出た。自分の知らない六十年の間に、その名は悪魔人形の噂と結びついているらしい。
守るために剣を取ったはずの場所で。いつの間に、自分は人を殺した側の話に置かれていたのか。
フィリアの言葉に悪意がないことは分かっている。 だからこそ、何も言えなかった。
胸の奥に、小さな痛みだけが残った。
「アルさん?」
フィリアの声で、アルは意識を戻した。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
アルは頷く。
「少し、考えていただけだ」
ジュドがその様子を見ていたが、何も聞かなかった。代わりに、話を戻す。
「重要なのは、旧街道の相手が悪魔人形の可能性が高いってことだ」
その言葉で、全員の表情が引き締まった。
ダインが喉を鳴らす。
「本当に、そんなものが残っているんですか」
「分からない」
答えたのはジュドだった。
「だから、確かめる必要がある」
「そ、調査するのも仕事だよ、ダイン」
リッカが少しだけからかうように言う。
「わかってますよ!」
「もし違ったら?」
ミリアが尋ねる。
「違うなら、それでいい。別の原因を探す」
ジュドは言った。
「ただ、悪魔人形だった場合に備えて動く」
「その場合は?」
リッカが聞いた。
ジュドはアルを見る。
アルは少しだけ沈黙した。
皆に詳しい話をするには、まだ早い。
現物を見てもいない。
数も分からない。
状態も分からない。
何より、自分がそれを詳しく知っている理由を説明できない。
「近づき方を間違えるな」
アルはそれだけ言った。
「普通の相手ではない。見つけても、勝手に動くな。まずは排除より、調査を優先する」
ジュドが頷く。
「俺も同じ考えだ。まずは調査だ。原因排除は現地判断にする」
「追加の金貨四枚は、無理して取りに行くなってことですね」
リッカが確認する。
「そうだ」
ジュドは頷いた。
「金は欲しい。だが、死んだら使えない」
「それ、兄さんにも言われたことある」
リッカは少しだけ苦笑した。
「じゃあ、今回はちゃんと覚えておく」
「頼む」
ジュドは短く答えた。
ダインが拳を握る。
「俺は何をすればいいですか」
「まず勝手に前に出るな」
ミリアがすぐに言った。
ダインは言葉に詰まる。
「まだ何も言ってないんですけど」
「言う前に分かるわ」
「ひどくないですか」
「ひどくないわ。必要な注意よ」
ガルネが低く笑った。
「ダイン、お前はアルにいいところ見せようとして突っ込むなよ」
「しませんって」
「本当か?」
「……できるだけ」
「そこは言い切れ」
リッカが呆れた声を出す。
少しだけ空気が緩んだ。
だが、その軽さは長く続かなかった。
悪魔人形。
悪魔戦役。
六十年前の戦争。
それらは、酒場の噂として聞く分には遠い。だが今、それが北西の旧街道にいるかもしれないと言われれば、遠い話では済まなくなる。
フィリアが静かに口を開いた。
「もし、本当に悪魔人形だったら……倒れた人たちは、まだそこにいるのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
それを確かめるために行く。
そう言えば簡単だ。
だが、その場所に何が残っているのかは、まだ誰にも分からない。
「行ってみなければ分からない」
アルは言った。
「だが、無理に遺体や遺品を回収しようとすれば、こちらが危険になる。優先順位を間違えるな」
「はい」
フィリアは小さく頷いた。
ジュドは全員の顔を順に見た。
「準備をする。ラザには、調査として受けると伝える。原因排除は現地で判断する。いいな」
ミリアが頷く。
「分かったわ」
「契約条件は、私がもう一度確認する」
リッカも表情を引き締める。
「遺体や遺品の回収は別途相談、でいいよね」
「ああ。無理な約束はしない」
「分かった」
ガルネは椅子から立ち上がった。
「武器の手入れをしておく」
「俺もやります」
ダインも続こうとする。
だが、ミリアに視線で止められた。
「まず落ち着きなさい」
「はい」
フィリアは小さく息を吸った。
「薬も確認します」
灰鷹が動き始める。それぞれの役目を考え、準備を始めようとしている。
その様子を見ながら、アルは黙っていた。
本当に、悪魔人形なのだろうか。 六十年前に戦場で見たもの。人を襲うために作られ、壊され、失われたはずのもの。
それが今、北西の旧街道に現れたというのか。
思い違いであればいい。
別の何かであればいい。
だが、ラザの話を思い返すほど、その可能性は消えなかった。
人だけを襲う。
姿を見せず、背後や側面から仕掛ける。
倒れた者を残し、荷には執着しない。
まるで、ただ人間を攻撃するためだけに動いているように。
アルは、窓の外へ目を向けた。
六十年前に終わったはずのものが、今もどこかで動いているのだとしたら。自分の知らない六十年の間に、いったい何が残り、何が歪み、何が消えずにいたのか。
北西の旧街道へ行けば、その答えの一端を見ることになる。
アルは静かに息を吐いた。
まだ、何も決まったわけではない。
それでも、胸の奥には一つの疑問が残っていた。
本当に、あの悪魔人形なのだろうか。
もしそうなら、なぜ今になって動き出したのか。




