最終話
彼方は、まるで割れ物でも扱うかのように二冊を置いた。まずは彼女が夏休み当初から、ずっと作ると意気込んでいた写真集を手に取った。
『私の宝物/著:宇津見恵』
そうタイトルがデザインされた表紙には、校舎の窓から撮られた青空の写真がプリントされてあった。彼方はゆっくりと指先を滑らせて、ページをめくり一枚一枚を見ていった。
写真は、家族との物から始まっていた。赤ちゃんの恵を優しげな顔で抱く女性と、名が描かれた紙を嬉しそうに見せている男性。それを筆頭に、恵の今に至るまでの写真が並んでいたかと思うと、続いては彼女が撮ったらしい地元の風景写真のページになった。
見覚えのある道や商店街、交差点や住宅街の風景。
そこには多くの人々の姿が写し出されていた。好奇心旺盛で表情豊かな子供たちが、自らカメラに写り込んでいる写真もあった。散歩している女性がはにかむ写真からは、恵が「一枚撮ってもいいですか?」と言った直後、勝手にシャッターを切る姿を容易に想像させた。
彼方は、一枚一枚の写真を、目に焼き付けていくように丁寧に見ていった。写っている全ての人は表情豊かで、特に『中学校』部分からの写真はその印象が一際強かった。
そこには、見慣れた生徒達もたびたびいて、誰もが弾けんばかりの喜びや真剣な表情を映し出されていた。授業中に撮った写真なのか、椅子に座った生徒が後ろを振り返る奥で、写真に向かって注意を促しているような担任教師、秋山の姿が撮られたものもあった。
彼方の口元に、ほんのりと笑みが浮かんだ。彼女が撮る写真は、どれもこれも活き活きとして元気があった。中学をテーマとした部分は、他のテーマ部分よりも多くページ数があてられていて、様々な天気の下で撮られていた。
その中でも、とある雨の日を集めた一ページが特に目を引いた。
統一性のない色と形の傘を並べ、モデルのポーズを取る女生徒たちの写真。すぐ下には、五人の男子生徒がふざけて同じポーズを取った写真もあった。雨模様の渡り廊下を背景に「ん?」と振り返った教頭の横から、小野がひょいっとカメラの方を見て笑っている一枚もある。
その一瞬一瞬が切り取られたような写真ばかりだった。恵自身が映っている写真も沢山あって、誰かにお願いしたのか、たまにアングルが近過ぎるか斜めになってしまっている。それでも、いきいきと恵や少年少女が写っている事に変わりはなかった。
何ページ目かをめくった時、不意に彼方の手が止まった。
それは恵のピースだけが大きく入った美術室内を撮影した写真で、ピースの奥で、絵を描いている彼方が写っていた。
次の写真では、怪訝そうに目を向けた彼の姿があった。自分で撮ったのか、アップの恵の笑顔の向こうで黙々と絵を描く姿が写されてもいる。特に目を引く構図でもなく、どこにでもあるような見慣れたいつもの光景に、彼方はチラリと眉根を寄せていた。
「せっかくの写真集だろうに……。どうして、こんなものを選んだんだ」
やれやれと言わんばかりに呟こうとしたのに、声には力がなかった。震えそうになるのを自覚して、口をつぐんで押し黙った。
夏休みが始まって少ししてから、終わるまでの日々の写真を一枚ずつじっくり見ていく。そして最後のページを開いた。
そこには、見開きいっぱいに引き伸ばされたとある写真があった。どうやら美術室の外から窓越しに盗み撮りでもしたらしい。アングルは少し斜めで、撮影者の指が写り込んでいた。
大きなテーブルに写真の山を作った恵が「にしししし」と笑い、その斜め向かいで彼方が呆れたように、それでもどことなく悪くもなさそうな顔をして唇を引き上げている。そんな光景が写し出されたページの右下には、『撮影協力、秋山先生』と印字されてあった。
「写真部顧問のくせに、写真もろくに撮れていないじゃないか」
いつもの皮肉を言ってやったつもりだった。でも言葉が喉元につっかかり、ほとんど掠れた吐息しか出てくれなくて、彼方は悟ったように口閉じてしまっていた。静かに本を閉じて、裏表紙にあるひどく青い空を見下ろしたまま、しばらくゆっくりと大きく呼吸を繰り返した。
どのくらいそうしていただうか。ふと、雨がぽつりぽつりと降り出した事に気付いて、ようやく重い腰を上げて縁側から移動した。
窓を閉めて、大窓沿いのすぐそばのフローリングに腰を降ろした。桃色の包装紙と見終わった本を脇にどけて、なんの表記さえもない真っ白で薄い本を膝の上に置く。
どこが裏で表なのか探してすぐ、手書きの小さな字があるのに気付いた。正方形の本の隅にひっそり、少し崩れた丸字で『私と彼』、『撮影者/宇津見恵』、『撮影協力/秋山先生と小野先生』と書かれていた。
本当につい最近、彼女が書いたのだろう。ほとんど上下にぶれた字にそっと触れた時、彼方の手の指先はわずかに震えてしまっていた。
深呼吸をしてから表紙を開いた。右のページには、キャンバスに筆を向けたまま、美術室の入り口のカメラを怪訝そうに見やる彼方の写真が載っていた。左側のページは真っ白で、そこにはぎこちなく歪んだ手書きの一文があった。
『あなたは面白いくらい捻くれ者だった』
ドクドクと打つ心音で指先が震えそうになった。そのままページをめくってみると、続いて絵を描く彼方を正面から撮影した写真があった。また左の空白に、震える字で言葉が添えてある。
『ドキドキしたけど、上手く自然に話しかけられて嬉しかった』
その次のページを捲ると、真っ白な見開きに『彼と私』と大きく印字されていた。
あとは写真ばかりが続いた。ページいっぱいに写真が伸ばされていて、キャンバスの前に腰かけたまま窓の向こうを見つめる彼方と、絵を挟んで窓側に立ち尽くす恵の後ろ姿。写真の山が出来たテーブルを挟んで向かい合う、少し不機嫌な彼方と得意げに胸を張る恵。
その次のページでは、カメラに近寄って面白そうにポーズを決める恵がいた。その隣のページに、アップで撮られた彼方が不機嫌そうにカメラに向かって手を伸ばしている一枚もあった。
「――ああ、あの時のものだな」
それを見た彼方は、そう思い返して静かに呟いた。彼女がよく美術室に訪れるようになってから、ある日遠慮もなく至近距離で唐突にシャッターを切った。あの時、自分はそれにうんざりして、近い距離で恵が構えたカメラのレンズを手で遮ろうとしたのだ。
もう終わるのではないだろうか。本はそう感じてしまうほどに薄くて、彼方は一ページずつゆっくりめくっていった。
真っ直ぐ正面を見据えて絵を描いている彼方。野球部の写真を撮る恵の後ろ姿を、ばっちり押さえた指入りの秋山撮影の写真――。
写真が積み上げられたテーブルから、唐突に向けられたカメラにきょとんとした恵と、今にも「あ?」声を上げそうな怪訝面の自分。その写真を見て、彼方は小野にそうやって一度撮られた事を思い出した。
次のページには「にしししし」と笑って、自分のカメラを手に持ってポーズを問っている恵と、小馬鹿にするように笑った彼方が収まっていた。そこには、またしても秋山の大きな指が写り込んでいる。
「あの先生は、指ばっかりだな」
どうやったら、いつもそんな風に指入りで撮れるのだろうか。
もはや一種の個性的な撮影才能なのではなかろうか。そう可笑しく感じて口にしたつもりだったのに、彼方の声は小さく掠れて震えてしまっていた。
そして、とうとう写真のページは人物紹介一覧へと移った。
そこには先生の秋山と小野、生徒の恵と彼方が一人ずつ写った四枚の写真が載せられていた。崩れた丸字で『写真部&美術部、仲良し!』とマジックで大きく書かれていて、すぐ下に『彼方君へ』と続いた言葉が、最後のページをめくるように促していた。
これが、この本の最後のページになるのだろう。
そう考えた途端、彼方はめくりかけた指先の動きを止めていた。名残惜しむようにページを戻り、再度見直した。けれど向き合わなければならないように、また元のページに戻ってしまっていた。
視界が薄暗い。ふと、そう気付いて顔を上げた。
直後、今まで聞こえて来ないでいた音が、一気に彼方の耳へ流れ込んできた。窓の外は、昨日と同じような豪雨の風景に塗り替わっていた。降り注ぐ雨は、一直線に落下して庭の緑や土を抉るように叩いている。
「…………ひどい雨だ」
彼方は、そんな独り言を呟いた。昨日より少しだけ明るい印象のある灰色の雨空は、降り注ぐ雨で視界を遮るかのようにして、近くのプランターの花すらよく見えない大雨だ。
「……先の向こうも、何も見えない」
膝の上で広げた本の、最後のページへ進めないまま庭の方を見つめていた。見慣れたはずの庭はすっかり風景を変え、彼の家の中と外の世界を切り離してしまっているかのようだった。
あの花は、散ってしまわないだろうか。
そんな事を想った彼方は、胸が静かに締めつけられるような痛みを覚えて目を落とした。本を支えている左手も、本の上に置いている右手も、まるで心臓と繋がっているかのような同じ痛みを感じていた。
開いたページに写る四人を眺めた。乾いた目が痛むようにして目を細めると、浅く息を吸い込んでから、彼はゆっくりと最後のページを開いた。
そこには、写真のない見開きページが待っていた。右側に、崩れた丸字で文字が書き綴られてあった。
彼方は一瞬、呼吸する事も忘れて小さく目を見開いた。その字を食い入るように見つめ、読み進め、次第に目を細めて、――くしゃりと鼻と目尻に悲痛な皺を寄せた。
『彼方君へ
前に私が彼らを好きで、それでいてすごく興味を持っているって言ったよね?
でもね、やっぱりはじめから、私にとってあなたが一番だったような気がするの。
先生たちに無理を言って、あなたと過ごせた短い時間、すごく楽しかった。
夢のような一時をありがとう。
ここにいればいいって言われた時、すごく嬉しかったよ。
これからも隣にいられれば、どんなにいいだろうかって想像した。
私はきっと、はじめて見た時から、あなたがずっと好きだったのだと思う。
宇津見 恵より』
彼方は床に座り込んだまま、全身の力が抜けていくのを感じた。それとは逆に胸の内側に熱いモノが巻き起こって、息を呑むようにして溢れ出しそうになる想いを押し込む。心臓や肺だけでなく、熱くなった目からも何かが溢れそうになって曇天の雨空を見上げていた。
ああ、僕もひどく人が好きで、僕は彼らの事をもっと知りたいのだ。
押さえきれない熱が胸の内側で膨らみ続け、前触れもなく彼の視界は滲んだ。そう言葉として喉元に出かけたのに、実際に出てきたのは情けなく震えた己の泣き声だけだった。
彼は空を見上げたまま、大声で泣き出した。滲んだ灰色の視界に映る雨さえも愛おしく感じて、胸が震えるままに想いのたけをぶつけて、嗚咽を上げ、本を抱きしめた。
好きだ、好きだ。僕は君の事も、もっと知りたかったのだ。
彼方は、外に響く雨音に遮られた室内で、好きだ、好きだ、もっと君のそばにいて君を知りたかったのだと、ただただ泣きじゃくりながら叫んだ。生まれて初めて、大人びた少年の印象を打ち砕くように表情を歪め、ただの子供のようにみっともなく泣いた。
泣いても泣いても涙は止まらず、もう想いすら言葉には出来なくなって咽び泣く。
君が好きだ、人が好きだ。
でも僕は、きっと君の事を一番に知りたかったのだと思う。
僕は知らなかったのだ。こんなにも命あるものが愛おしいなんて、ただただ子供だった捻くれ者で鈍い僕には、ここにくるまで気付けないでいたのだ。
泣き続ける彼方の泣き声をかき消すように、雨はまた一段と強くなった。彼方の声は次第に小さくなり、力尽きたように項垂れた時には、その口からは小さな嗚咽ばかりが続いた。
不意に、まるで恵自身が告げるかのように、彼が知っている彼女の声が本の一文を脳裏に綴った。ただ涙ばかりが頬を伝う中、彼方は顔を上げて窓の向こうを見やった。
――私はきっと、はじめて見た時から、あなたがずっと好きだったのだと思う。
彼方は、本の中にあったメッセージを思い返した。溢れ続ける涙を止める術も知らないまま、そっと静かに目を閉じる。
「…………僕はきっと、君と居ても嫌じゃなくなっていた日から、とっくに君の事を好きになっていたのだと思う」
口に出されたその言葉は、震えながらそれでもひどく優しげな声色で、涙と一緒になって本の上に零れ落ちていった。




