12
翌日の土曜日、彼方は午前七時に目を覚ました。
窓はカーテンが仕切られていて、向こうには薄暗さかあるようだった。まだ夜なのだろうかと錯覚しそうになったものの、カーテンを開いた先に重々しい曇天を見て、時計の時刻が間違っていない事を知った。
一階に降りようとした時、茶色い包みが壁に立てかけられているのが目に留まって、動きを止めた。急に足から力が抜けるのを感じて、ふらりとそのままベッドに腰かけた。
「――…………ああ、そうか。君は――」
言い掛けて、不意に昨日、彼女の担任である秋山と話した事が思い出された。今日、彼が絵を取りに来る事になっているのだ。
「そうか。そうだった」
自身に言い聞かせるように口にして、どうにか立ち上がる。けれどどうしてか、足はいつものように動いてくれなかった。寝起きで感覚が鈍いのか、裸足で床を踏みしめているはずなのにその踏み心地は曖昧で、ゆっくり慎重に歩かなければバランスを崩してしまいそうだった。
どうにか足に力を入れて、絵が入っている包みに歩み寄った。それを取ろうと手を伸ばし掛けた彼方は、自分の指がわずかに震えているのを見た。
困惑に顔を顰めて、自分の震える手を見つめた。なぜか心音まで乱れ始め、急に息苦しさを感じた。思わず動悸する胸元を押さえ、冷静さを取り戻すように深呼吸を繰り返した。
何をそんな動揺しているのだ。自分は恵と交わした約束を守り、この絵を秋山伝いで彼女に渡すだけだろうに……彼方は、心の中で自分にそう言い聞かせた。
――『時間はかかるかもしれない、でもきっと良くなる』
ますます息苦しさを感じた時、不意に、昨日の小野の言葉が脳裏に再生された。それはあなたの願望だろう、希望論じゃないか……そう感じた気持ちがまで蘇った彼方は、ぐっと胸が詰まって大きく息を吸い込むと――止まっていた手を動かして包んだ絵を取った。
一階に降りると、出社準備を整えた父と母がいた。
「あら、彼方。もう体調は大丈夫そう?」
「うん。ちっとも平気だ」
「その大きな荷物は何? この前から描いていた絵かしら」
「今日、先生に渡す」
彼方は詳細を言わなかった。尋ねてきた母の向こうで、父が「そういえば顧問の小野先生が、今年も担任だったな」と渡す相手を誤解してそう口にしていた。
いつもの調子で三人の朝食が始まった。もっぱら母がきつい印象のある声で仕事に関連する事を話し、父が適当に相槌を打って興味のある話題だけ尋ね返す。テレビからは、音量が小さくされた土曜日の朝のニュース番組が流れていた。
まるで分刻みのスケジュールを設けているみたいに、両親の食事はかなり早く終わる。父はきっかり八時前に家を出て、母も八時に自身が経営している美容会社へと出かけていった。
一人残された彼方は、残りの料理を味も分からぬままのろのろと胃に詰めた。満腹を不快に感じながら食卓の上を片付け、それから一人ぼんやりとテレビを眺める。見慣れたニュース番組は、今日の天気と運勢を伝えたあといつものニュース放送を始めた。
事件事故で誰々が亡くなった。どこどこの県で自殺した高校生の遺族が、学校側を相手に裁判を起こした。そんなニュースが流れ、彼方はテレビ画面の中で涙する人々の顔を眺めた。
漠然と死について考えた。喪失感、悲壮感。それでも変わらず生活は続いていく。誰にでも死は訪れ、誰もが死に関り、毎日何十何百という死が続いていく。
思い返せば、彼方は祖父が亡くなった時も、彼らのようにして涙する事はなかった。涙する母に不思議に思って「どうして泣いているの」と幼心で尋ねたのを思い出す。
――『知って、理解して、受け止めているからよ』
当時、そう答えてきた母の言葉が、彼方の頭を何度も行き来した。
悲しむ人々の中に共通してあるものを探そうとすると、言葉にならない答えが胸の奥底から顔を出そうとして、すぐにまたぼやけてしまう。よく耳にするような『相手の立場になって考える』を試してみたものの、遠いどこかで起こっている事のようにも思えた。
「…………きっと僕は、もう彼女とは会えないのだろう」
無意識に、そんな言葉が彼方の口からこぼれ落ちた。テレビの音ばかりがある室内に上がった自分の声を耳にして、自分が何かを悟って諦めている事に気付いた。
その時に脳裏に過ぎっていたのは、昨日恵の話をした際の小野と秋山の顔だった。ゆっくりとした動きでリモコンを手に取り、テレビの電源を落とした。
直後、どこまでも静かな無音が室内を満たした。彼方は耳鳴りのような痛い沈黙を聞きながら、椅子の上に膝を引き寄せ、真っ暗になったテレビ画面をぼんやりと眺めた。
そこには、食卓の椅子に体育座りをして小さくなっている自分の姿が映っていた。
昨日の先生達の話を思い返して、ただひたすら冷静に考える。
一般的に知られている治療成功率から言えば、恵は高い確率で助からない。手術がいいように進めば、病院で治療を続けながらの延命が少し叶う。そして僅かな可能性で、奇跡のような事が起こりでもしたのなら、退院も叶ってまた走れるようになって残りの人生を……――。
彼方は、自分が大人びた少年だと自覚していた。知り合いの死は初めてではない。それでも恵の事は遠い世界のどこかの話のようで、大きく深呼吸をしたら心が沈んでいった。
その後しばらくして、秋山の訪問があった。
「呼び鈴を押して、もし君以外の人が出てきたらどうしようかと緊張してしまった。小野先生からも話は聞いていたけど、うん、びっくりするくらい大きな家だ」
門扉をくぐり、少し距離がある玄関までやってきた彼が、ぎこちない笑みを浮かべてそう言った。家の場所は、担任の小野に聞いたらしい。
「元気がないんじゃないかと、心配したよ」
「別に。――これ、僕が描いた絵が入っています」
言いながら、彼方は少し大きなその包みを手渡した。そのまま「じゃあ宜しくお願いします」別れ言葉を続け、玄関を締めようとするのを見て秋山が慌てて止めた。
「ちょッ、ちょっと待ってくれ江嶋」
閉められようとしていた玄関を、ガシリと手で押さえた。
一体なんだろうと顰め面で見つめ返して見せたら、彼が「そこは通常運転なんだなぁ」と呆けたように呟いた。包まれた絵を脇に挟んで持つと、持ってきていた鞄から可愛らしく包装された物を取り出した。
そのまま差し出された彼方は、それを受け取ってから、力が抜けた顔を問うように上げた。その視線を受け止めた秋山は、絵の包みを手に抱え持ち直すと少し困ったように笑った。
「実は、今日の午前中にでも手術が始まるらしいと、昨夜に急ぎ知らせを受けてね。ここへくる前に彼女の両親から、君に渡しておいてくれと例の物を受け取っていたんだ」
「そう、ですか」
うまく相槌を打てなくて、どこか疲労感が窺える顔に無理やり陽気な雰囲気を浮かべている秋山を見つめた。彼は絵の包みを見下ろすと「大丈夫、手術はうまくいく」と、まるで自分に言い聞かせるように続ける。しかし、その表情は数秒で曇って――
「手術、うまくいくといいなぁ」
受け取った絵の包みを見下ろしたままの秋山の顔が、ふっと素の表情を滲ませて悲しげに歪んだ。引っくり返るように声はかすれていて、語尾が震えて言葉が途切れた。
その様子を見ていた彼方は、受け取った可愛らしい桃色の包みを持った指先に締めつけられるような痛みを感じ、もう一つそこに心臓があるのではないかと錯覚した。それに連動するかのように胸の辺りもきゅうっと痛くなって、息苦しくてらしくなく少し取り乱した。
「先生、やめてよ」
思わず後ずさりしながら、そんな声を上げていた。しかし吐息まじりのその思いは、続く秋山の「ごめんな、江嶋」と言う、今にも泣きそうな大人の男の声にかき消された。
「俺は、何も出来ない自分が悔しいよ。勉強を教えて、話をするくらいしか出来ない。彼女は覚悟も心構えもあって、せいいっぱいの希望と勇気を持って臨んでいるのに、俺は彼女の無事を信じて待つ事も苦しくてたまらない」
思わずといった様子で、普段学校で使っている「僕」ではなく、「俺」と口にする秋山は印象が少し違っていた。それが気取らない本来の彼なのだろうと察した彼方は、ああ、と思った。
――『嗚呼、ただただ人間らしさがそこにはあるのだ』
画家の誰かが、そう本に書いていた一節を思い出した。
その途端、得体の知れないモノが内側から溢れ出てこようとした。痛いほど胸が打ち震える感覚と、喉元までせり上がった感情的な言葉に恐怖を感じて、彼方は一歩後ろにさがっていた。
「お願い、もう帰って」
泣き顔に涙を堪えた秋山から距離を取り、咄嗟にそう言葉を掛けていた。
苦しそうな顔をした秋山に見つめ返され、ますます訳の分からないモノが身体の内側を暴れ出す。その息苦しさにくしゃりと眉を寄せると、顔を横に振ってこう続けた。
「先生の話を聞いていると、ひどく苦しくなるばかりだ。僕は何も聞きたくない。彼女みたいに、僕に分からない事ばかり言わないで――」
「江嶋、目と耳をそらすんじゃない。お前はもうとっくに、俺が言っている事も分かっているはずだ」
今にも泣き出しそうな顔で、秋山が叱り付けるうに彼方の言葉を遮った。
「宇津見恵は、いつだってお前を志にしていた。それなのに、お前が頑張る宇津見さんを諦めてどうするんだ。彼女はまだ死んでいないんだ。生きて、生きようと頑張っているんだぞ」
まるで自分に言い聞かせるかのようだった。訳も分からず立ち尽くす彼方を見下ろし、彼は教師としての表情を浮かべて「いいかい、江嶋」と柔らかな声色で続ける。
「たとえ長期延命の生存率が数%であると言われても、彼女は諦めなかった。だから俺も、二組の皆も、信じて待つと決めたんだ。彼女の苦痛や頑張りを思うと、それがわずかな可能性だと分かっているからこそ苦しい……。でも俺たちは、それを信じなくちゃいけないんだ」
――知っている。僕はいつからか、そんな事なんてとっくに気付いていたんだ。
――知らないよ、僕には分からない。僕はいつも、それが理解出来ずにいるんだから。
二つの相反する想いが、そう身の内から声を上げる。ぐっとこらえるように唇を引き結んだら、気付いた秋山が詫びるように気配の強さを潜めた。
「多分、彼女の手術前には間に合うと思う。ちゃんと渡してくるからな」
そう言い残して踵を返し、そのまま遠ざかっていく秋山の背中を見送った。しばらくしてからようやく家に入って玄関の鍵を締めたものの、自分の部屋に上がる気も起きなかった。
足を引きずるようにしてリビングへと入ると、縁側の大窓を開けて腰かける。広々とした庭には美しい松の木だけでなく、色取り取りの花のプランターも置かれてあった。頭上の空には低い雲が広がり、大雨だった昨日を思わせる湿った空気が鼻腔を掠めた。
縁側のすぐ下に置かれているスリッパに、のそのそと足を入れた。受け取ったその包みは、書籍ほどの大きさをしていて、女の子らしい桃色の可愛らしい紙袋だった。
それを膝の上に置いたところで、見慣れない丸い字で『江嶋彼方君へ』と書かれている事に気付いた。
丁寧に包みを開けてみると、まず中から出てきたのは、きちんと表紙も作られた単行本サイズのアルバム本だった。それから、その後ろに真っ白で題名もない、正方形サイズの本が重ね置かれていた。それはページ数が非常に少ない薄い本で、そこには黄色い付箋が張り付けられてあった。
『元々作る予定だった写真集とは別に、特別に二冊作ってもらいました。一つは私がもらうけど、もう一冊は彼方君に渡します。それが、私からの【交換用の作品】です』
可愛らしい丸字で、そう書かれてあった。




