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 美術室から戻ってみると、教室にはまだ十人ほどの生徒達が残っていた。三つほどのグループに別れ、他愛ない会話を繰り返しては、時々水を打ったように静かになる事を繰り返している。その時は決まって、彼らは窓の外に広がる夜のような雨の景色を見つめていた。


 彼方が入って来た事に気付いて、数人が目を向けた。しかし、その視線もすぐ窓へと戻る。


「すごい雨だねぇ」

「あたし、お母さんが車で迎えにきてくれるから、アミちゃん達も送ってくよ」

「本当に!? それすごく助かる、ありがとうッ」


 残っていた女子生徒三人が、そう切り出して話を再会した。


 そんな中、彼方は椅子に腰かけて鞄に荷物を詰め始めた。椅子と机に腰かけていた四人の男子生徒の一人が、羨ましそうに彼女達を見やった。


「あーあ、女子はいいよなぁ。俺らなんて『歩いて帰って来い!』の一言だもんなぁ」


 そううんざりしたように呟いた。すると、机に座っていた男子生徒が、教壇で日直日誌をつける二人のクラスメイトから、彼へと視線を移して「でもさ」と言って八重歯を覗かせて笑った。


「雨の日って、俺は好きだよ。晴ればっかりじゃつまらねぇし、たまには濡れて帰るのも悪くないだろ?」

「お前はほとんど鞄に何も入ってねぇからじゃんッ」


 長身の男子生徒が呆れたように言って、やりとりを聞いていた生徒達が笑い出す。

 雨の日が良いといった男子生徒は、全く共感を得られない友人達を前に唇を尖らせた。「それもあるけどさぁ」と反論しかけて、ふと、唯一笑っていない彼方を目に留めた。


「なぁ江島。お前は雨、好き?」


 そのまま躊躇なく話しかけた男子生徒の視線の先を、教室に残っていた生徒達が見やった。


 彼方は、ぼんやりとした様子で顔を上げて彼らの視線を受け止めた。それから、問われている内容を少し遅れて理解したところで、荷物を入れ終わった鞄に触れたまま窓の向こうへ目を向けた。


 二学年生の教室は二階にあり、そこからは色も大きさも違う傘が、正門へと向かって流れていくのが見えた。


 薄暗いせいで、傘の下から覗く足は、激しい雨の前に霞んでしまっていた。まるで窓の向こうに非現実的な光景が広がっているようにも思えて、彼方はそっと目を細めた。


 機械的に流れていく傘、かさ、カサ。


 窓に叩きつける雨音が、普段聞き慣れている校内の音を全て消し去ってしまう。ほとんど色も失せた窓からの光景は、見つめていると、どこまでも落ちていきそうな仄暗さを感じた。



「…………雨は、多分、あまり好きじゃない」



 気付くと彼方は、そう口にしていた。


 それを聞き届けた別の男子生徒が、彼方に質問した少年へ茶化すようにこう言った。


「あいつ本とか持ってるから、当然だって」

「むぅ……。やっぱり本とかノートとか濡れるから? だから好きじゃないのか?」


 机に座っている少年は、諦めきれないように再び訊く。


 また、教室内に湿った静けさが広がり、窓を叩く雨の音ばかりが続いた。他に話す話題もなくなってしまっていた教室の生徒達の視線が、机の上の男子生徒と彼方に集まる。


 彼方は、いつものように真っ直ぐ背筋を伸ばして、ただ窓の方を見つめていた。静けさが広がるような、透き通る穏やかさとも悲しみともとれない目と表情だった。

 ふっ、と彼方の唇が僅かに開閉した。


 声が出ているのかいなのか分からない。よく聞こえなくて、机に腰かけている男子生徒が「なんて言ったんだ?」ときょとんと口にして首を捻る。


 その直後、彼方はすくっと立ち上がっていた。やや乱暴な手付きで鞄を取ると、困惑する生徒達が背中から声を掛けてくるのも構わず、そのまま足早に歩き出して教室を出た。



『景色が――人が、隠れてかすんで、よく見えないから』



 つい先程、自分の口から囁かれこぼれ落ちた言葉だった。だから多分、雨は好きじゃないのだと、そんな自分自身の答えが信じられないでいる。


 胸の中がひどくざわついた。一呼吸ずつさえ重苦しくなり、足元が沈んでいくような錯覚に襲われて心臓がドクドクした。訳も分からず焦燥感に襲われて、背筋が冷たくなる。


 歩きながら無理やり背負った鞄の感触や、急くように履き換えた靴の感触もおぼろげだった。彼方は傘を差してすぐ、苦しさから逃れるようにただひたすら足早に歩き続けた。少しの段差で足がもつれそうになり、何度か傘を落としたせいで頭から雨に濡れてしまう。


 またしても傘を落としてしまった時、彼方は一度足を止めた。深呼吸をしながら、手に持った傘の濡れた冷たさと、頭から頬につたっていく雨水の生温かさを感じていた。それを深く噛み締め考えたところで、自分が雨空の下に立っている強い実感が込み上げた。


 どうしてか、ひどく疲れを感じた。見えなくなった学校を思い浮かべて、あそこであった事も現実なのかどうか考えたたものの、すぐにやめてただただゆっくりと家に向かった。


 帰宅してみると、まだ午後も早い時間だというのに両親が揃っていた。


 どちらも自分の会社を経営しているので、時間にはゆとりがあるもののタイミングが合うのも珍しい。母は朝からのんびりしているようで、そこに『お手伝いさん』の姿はかった。


「今日は、家政婦さんはきてないの?」

「ひどい雨だからお休みにしてもらったのよ。先にシャワーで温まってらっしゃい」


 午後に少し会社に顔を出す予定があるのか、ぴしゃりと言った母は綺麗な衣服に身を包んでいた。着替えは準備してあるからと促されるがまま、彼方は風呂へ入った。出てくると「風邪をひくといけないからすぐに乾かしなさい」とドライヤーを渡されてしまう。


 いつもの皮肉な返答の一つも出てこなくて、彼方は「うん」と力なく答えてそれを受け取った。ぼんやりとした様子で丁寧に髪を乾かしていると、濃い化粧をした母の整った顔から、強さが薄れてどこか大人しげで自信のない表情になった。


「この子、どうしたのかしら……」

「風邪を引いたんじゃないか?」


 リビングのソファで経済紙を広げていた父が、いつもある眉間の皺を薄くしてそう心配した。彼方と良く似た顔をした彼のハンサムな表情は、普段よりもやや柔らかく変化する。


「俺の方でみておくから、何か身体が温まりそうな物を出してもらえないか?」


 父はそう言って、反論もせず素直にキッチンへと向かう母を見送る。それから、ドライヤーを終えた彼方へ目を戻した。


「どこか痛いところや、気分が悪いといったところはないか?」

「ううん、特にないよ」

「そうか……。とりあえず、こっちにきて座りなさい」


 そう告げてすぐ、自分の息子が素直にソファに座ったのを見て、父はいよいよ心配になったような顔をした。そわそわと落ち着かない様子で「少し待っていなさい。確か、薬があの辺に……」と言いながら立ち上がり、薬がしまわれている棚へ探しに向かった。


 どうやら、雨のせいで体調がすぐれないと誤解されたらしい。しばらく身体を温かくされた後、早い時間だというのに、消化の良い夕食メニューが母によって組み立てられた。


 食後、早々に自室のベッドで休まされた。心配症でもなかったはずなのに、両親がいつもの言い争いもせず揃って何度も様子をみにきた。母が色のついた長い爪で丁寧に毛布を彼方にかぶせ、男性にしては細い指で父が優しく彼の頭を撫でたりした。


 こんな事をする人たちじゃないのに、とぼんやりと両親を見つめて思った。でも頭に置かれた手の温もりに、何も言えないでいた。


 母がベッドに腰を降ろして、ポン、ポン、とゆっくりとした調子で宥めるリズムをひどく懐かしく感じた。体調不良などでもなく、ましてや眠気も全くなかったというのに、父の暖かい大きな手と、毛布越しに感じる母の手が心地よくて、段々と瞼は重くなっていった。


 目に映る光景が、薄暗い室内に霞んでいく。


 不意に一瞬、幼い頃同じようにされた記憶が脳裏に蘇った。きらきらと着飾った若い母と、どの角度から見ても美男子な父が、心配するようにこちらを覗き込んでいる映像が重なった。



――流行り風邪らしい。大丈夫、心配はいらないよ。父さんも母さんも、お前のそばについているから。

――朝起きたら、きっと良くなっているわ。眠れないなら、母さんが子守り歌をうたってあげるから……



 彼方は眠りに呑まれる直前、幼い頃に忘れてしまっていた当時の父と母の優しい微笑みを、瞼の裏に見た気がした。不思議な安堵が身体中に広がり、同時にひどく切なくなった。


 手放してはいけない『大事な思い出』のはずだった。それを幼い頃の自分が、苦しさや辛い記憶と一緒くたに『興味がないから』と目をそらし、頭の片隅に追いやってフタをしていたのだと気付いた。


 そのまま強い眠りに想いの言葉は呑み込まれ、彼方の意識は闇へと落ちていった。

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