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あいつの家だ。
さんざん走ってきたせいで、胸が苦しい。そう、走ってきたから苦しいんだ。
まるで心臓が自分のものではないみたいに跳ねている。
全速力で夜の街を駆け抜けたアタシは、あえて深い呼吸を繰り返して落ち着こうと努力した。塊になった白い息をいくつか吐き出してから、睨みつけるようにあいつの家の窓を見る。
平気で掃除の当番をさぼったり、先生からの頼まれごとにアタシを巻き込んだり、試験前になるとアタシのノートをこっそり持っていこうとしたりする、いつもやりたい放題してくれる、黙っていれば格好イイあいつの家。
いつも影ながら苦労していたのは誰だと思ってるんだ。
「ほんと、どうしてアタシはあいつの事なんか……」
それ以上は口にしなかった。アタシのちっぽけなプライドがかろうじてできる、最後の抵抗がそれだった。半ば無理やりその言葉を喉奥に押し込んで、街灯の下で一つ、息を呑んだ。アタシの影は、やっぱり無い。
そして夜空を仰げば、半分だけの月がぽっかりと、全てお見通しだとでも言わんばかりに浮かんでいる。
どこだ。アタシの影は。
あいつに彼女ができたことで好きだった事に気がついたなんてどうして言える? そんな安っぽいドラマのような脚本は例え誰が許してもアタシ自身が許さない。影の首根っこ掴まえて、この秘密は何が何でも墓場まで抱えて持っていく。
待てよ、実はもう影の方が先に着いていて、まさかとは思うけど家の中に入っていたりなんかしないだろうか。考えただけでぞっとする。確かめる方法は何かないか。
「おい」
「へひゃあっ」
いつの間にか玄関が開いていて、中からあいつが靴をはいてこちらに向かって歩いてきた。パーカーの上にジャケットをもぞもぞと着込みながら歩いてくる彼を見て、また急に鼓動が速くなるが、きっとこれは驚かされたからだ。そういうことにしておこう。ついでにさっき上げてしまった奇声は鳥の鳴き声か何かだと思ってほしい。
「い、いきなり声かけないでよ」
「いきなり来たのはそっちだろ。何か用か」
なるほど、この反応は影に会っていないと見える。刑吏よ、メロスは間に合った。間に合ったぞ。するとつまり影は間もなくここに現れるはずだ。
「あ、ノート持ってきてくれたとか?」
「……え、何?」
辺りを見回すのに気を割いていたせいで彼の話が聞き取れなかった。彼はそのままけろりと笑って、もう一度アタシに向かって言った。
「ノートだよ。テスト用のノート。
いつも貸してくれるだろ」
「人の鞄からこっそり持ち出すのは誰よ。
あれは貸すとか借りるとか言わないでしょう」
それに、今回はテスト用のノートをそもそも作れていない。この一週間、机に向かっては唸って突っ伏する日々が続いたし、授業中も全く集中できなかった。
「見やすくて好きなんだけどなあ、あのノート。
頼むよ、この通り、お願いします!」
「た、たまには自分で頑張ればいいでしょ」
ドキリとした。会話の中に潜む何気ない一言がこんなにもアタシを動揺させるなんて卑怯だ。
ああ、もう。来るんなら早く来なさいよアタシ。
「今回はヤバいんだって、俺」
「あのね。やばいのは授業に集中してないからでしょ」
「そんなことねえよ。真面目だぜ俺」
「はい、嘘。あんた、授業中たまにニヤけてるもの」
どうせ、彼女に作ってもらったお弁当の中身でも想像してたんだ。そう思うと、少し胸がチクリとした。彼は何故かムキになって反論してくる。
「なんでそんな事分かるんだよ。
お前こそ授業に集中しろよな」
分かるわよ。でも、いつの間にかあんたを目で追ってるなんて、絶対に言えない。そしてずっと見てたから授業のノートが取れなかったってことも内緒だ。
いい、あんたのせいなんだからね。言わないけど、そうなんだから。
「ってか、顔、赤くねえ? 風邪か?」
「――ッ! 走ってきたからよ!
いや、その、ちが、なんでもないッ!」
もお、変な所で鋭い事に腹が立つ。そうだ。こういうヤツなんだ。掃除をさぼって友達の相談を聞いたり、先生からの用事を済ませたら「うへへ、ほとんどあいつがやってくれました」とか平気で言うようなヤツだ。ノートの件だけは擁護できないけど。
だから、きっと後輩とやらを泣かせるような真似はしない。こいつは、皆が思ってるよりマジメで。つまり、そういうヤツなんだ。そんなこと、昔から知ってるのに。
「どうしてなのよ」
「は?」
目の前で、心底きょとんとした顔をする彼の姿を見て、アタシは何だか無性に悲しかった。
「あんたが悪いのよ! 何にも、なんっにも気づかないから!」
頭のどこかで、何かが急速に加熱されて灼き切れた。
奥底にしまっていたものが溢れ出して、もう止まらなかった。止まれなかった。
「気が付いたら目で追っかけてるし、ノートも作れなかった!
あんたが優しいのは、よく知ってるから、どうしていいのか……」
目の前で戸惑うあいつをそっちのけにして、アタシの想いは堰を切ったように溢れ出した。
「でも、気づいちゃったんだからしょうがないじゃない!
アタシは、あんたが好きなんだって……」
アタシの視界が滲む。
困惑するあいつの顔がどんどんぼやけて、そして頬に一筋、暖かいものを感じた。





