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やっぱどうかしてた。あんなおまじないに頼るなんて。
そもそも、文面が怪しくない? 怪しいよ。何、心と体を切り分けるって。
「切り分けられちゃったけどさあ!」
走るアタシの足元に影は無い。だからアタシは走るんだ。寒いとかどうとか言ってられない。むしろ暑い。
それでも、影よりも先にあいつの家に行かなきゃ。
○ ○ ○
彼女だって、まさか本当にそんなオカルトめいたおまじないを心から信じている訳ではなかった。ただ、何かに縋って少しでも楽になるのならと軽い気持ちでそれを試しただけ。それがついさっきの出来事。
神妙な顔つきで天井灯を見つめながら、ミルクティーを二口飲んで。
甘い香りと共に少しだけ苦いと思えるそれを自らの気持ちと一緒に飲み下すと、じんとする熱さが胸の辺りに少しだけ留まって、溶けるように熱は消えていった。
手鏡を用意して、窓から差し込む月の光を映そうとするも、夜空に浮かんだ半月は西の空に傾いていて上手く鏡に映らない。
まるで嘲り笑うようなその月の形に、彼女は少し腹を立てた。全てお見通しだと言わんばかりの笑みを浮かべた半月を手鏡に映すために、彼女は窓を開けてようやっとそれを達成し、手鏡越しに半月を見て、窓枠に腰かけたまま、ゆっくりと瞬きをした。
瞬間。
ざあっと吹き込む夜風が窓につけられたカーテンを揺らし、机の上の筆記具やらノートを散らす。思わず部屋に数歩よろめき戻った彼女は、窓の反対側、自らの背後に静かな気配を感じた。
彼女の部屋の天井灯だけはまだ風の余韻で揺れていて、それに合わせるかのようにゆらりと仄暗い影がそこには立っていた。彼女から切り離されたそれは初めて得た自由を喜ぶかのように笑った。実際には影は真っ黒で表情なんか見えないけれども、彼女には確かに影が笑ったように見えた。
そしてそれはだんだんと色を帯びて、彼女と同じ姿を取った。鏡写しの、彼女の影。
あまりの出来事に彼女は圧倒され、後ずさって窓枠に手をついた。なおも無言でにじり寄ってくる影。非日常の出来事に心を支配され、影色の自分から視線を逸らすこともできない。
影が最後の一歩を踏み出すのと同時に、彼女は短く声を上げて目を閉じた。
彼女の横をするりと抜けて、影は夜へと躍り出た。
うっすらと目を開けた彼女が見たものは、軽やかに歩き去ってゆく影の姿だった。
天井灯の揺れが収まり、早鐘のようだった鼓動も収まってくると、彼女は少し落ち着いた。そして灯りにさらされる自分に影がない事を半ば他人事のように眺め、おまじないの内容をぽつりと呟くように思い返した。
――体と影を。
――本能と理性を。
――半分に切り分ける。
そして彼女は弾かれるように走り出す。
影に想いを伝えられては、今の関係が壊れてしまうかも知れない。確かに恋心を抱いてはいるが、それを勝手に伝えられるのはまた話が別だ。何の心の準備もできていないし、なんなら伝えるつもりもない。男子学生を困らせてしまうことになるのは良く分かっていたから。
だから彼女は走るのだ。
恋心を亡きものにするために。自らの恋の物語を秘しておくために。
半月が嘲り笑う夜の中へ、ただ走りだしたのだ。