#010 「久遠野中枢AI・反応停止」
午前十一時三十二分。
それは、何の前触れもなく訪れた。最初に異変へ気付いたのは、美弥だった。図書室の閲覧端末を操作していた指が止まる。
「……あれ?」
画面が動かない。スクロールも。検索も。何も反応しない。カーソルだけが静止していた。
「フリーズ?」
首を傾げる。
その瞬間だった。館内の照明が一度だけ揺れた。チカッ。小さな明滅。そして静寂が訪れる。
図書室の空気が妙に重かった。ページをめくる音も。
椅子を引く音も。どこか遠く聞こえる。まるで世界そのものに薄い膜が掛かったようだった。
同時刻。教室では想太が窓の外を眺めていた。チャイムが鳴りかける。だが最後まで鳴らない。途中で途切れる。
「……ん?」
数人が顔を上げる。誰かが天井を見る。誰かが端末を確認する。違和感だけが残った。
同時刻。要は情報端末のログを確認していた。画面が止まる。通信状態を示すアイコンが消える。
再接続。失敗。再接続。失敗。
「そんなはず……」
思わず呟く。久遠野のネットワークが完全停止するなどあり得ない。少なくとも、今まで一度もなかった。
同時刻。いちかは窓際で空を見上げていた。風が止まる。校庭の木々が動きを失う。葉が宙で静止したように見えた。
ほんの一瞬。だが確かに。世界が息を止めた。
同時刻。隼人は廊下を歩いていた。足音が消える。自分の足音だけではない。周囲の音が急に遠ざかった。
反射的に振り向く。誰もいない。いや。いたはずなのに。妙な感覚だけが残る。
そして。はるなは屋上にいた。風が吹いていた。空は青い。いつも通りの久遠野。
それなのに。胸の奥がざわつく。昨日。ノートに残っていた言葉。
【観測】
理由は分からない。だが、なぜか思い出していた。
「……ともり?」
呼びかける。返事はない。いつもなら即座に返ってくるはずだった。
静寂。風も止まる。空気が重くなる。そして。
世界から音が消えた。鳥の声も。木々のざわめきも。遠くの車の音も。何も聞こえない。完全な静寂。
はるなは息を呑んだ。視界の端で何かが揺れた気がした。だが見えない。何もない。ただ。世界だけが止まっている。
どれくらい経ったのだろう。一秒。十秒。三分。時間の感覚が失われていく。
そして。風が戻った。鳥が鳴く。遠くでチャイムが鳴る。世界が再び動き出す。久遠野が息を吹き返した。
「……え?」
はるなは時計を見る。
午前十一時三十五分。
三分。三分だけ過ぎていた。だが、その三分間に何があったのか思い出せない。奇妙な感覚だけが残っている。胸の奥に。何か大切なものを見たような感覚だけが。
放課後。六人は偶然顔を合わせた。
「なんか今日変じゃなかった?」
美弥が最初に口を開く。
「端末止まった」
「俺のも」
要が頷く。
「ログが飛んでる」
「チャイムもおかしかった」
想太が言う。
いちかも小さく頷いた。
「私も変だった」
「何か静かだったよな」
隼人が眉をひそめる。
「一瞬だけ世界が止まったみたいな感じだ」
その言葉に、誰も笑わなかった。むしろ全員が黙り込む。同じことを考えていたからだ。
「……やっぱり?」
美弥が呟く。
「私だけじゃなかったんだ」
「気のせいじゃないな」
要は腕を組んだ。
「少なくとも六人が同じ違和感を覚えてる」
想太がはるなを見る。
「はるなは?」
はるなは少しだけ考えた。説明はできない。理由も分からない。だが、ひとつだけ確かなことがあった。
「私も」
静かに答える。
「何かあったと思う」
夕暮れの光が窓から差し込む。誰も言葉を続けなかった。久遠野はいつも通りだった。校庭には生徒たちの声が響き、風が木々を揺らしている。
それでも。六人は理解していた。今日の午前十一時三十二分。あの瞬間。
何かが起きていた。そして、それは偶然ではない。まだ誰も、その理由を知らないだけだった。




