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失敗はばれなければ良し。

途中から視点が変わります。今回はヒューバートの番です。

チキチキチキチキ、キィキキキィ


耳障りな音がどこかで響く。

この音が何なのかは解らないが、カッターナイフの刃を滑らす音に似ている。


みのりの図画工作などの授業は得意ではなかった。

決められた線の上をただまっすぐに切って貼って、

不細工な作品を作って何になるのだと言いたかった。


得意げに家に持って帰って飾っていた兄の工芸作品は、

「凄いね、頑張ったね」と褒めた母によって全て棚の奥に大事に仕舞いこまれ、

二度と日の目を見ることはなかった。それは何故か?


犬だよと渡された貯金箱は、地獄の番犬、いや、凶暴な鬼にしか見えなかった。

鳥だよと手渡されたメガネ置きは、どこをどう見ても悪魔崇拝の像のようだった。


そして、やはり血は争えないものだと思うのは、私の作品達。

それが何だとあてた人は誰もいなかった。

本当なら可愛いパンダ模して造られたはずの灰皿は、

潰れてへしゃげた目つきの悪い亀であった。


工作の授業は、参加して作ることに意義があるのだ。

出来た作品に優劣をつけ競わすなどもってのほかだ。


そう公言して自分を騙しながら得た成績表の数字は2だった。

やはり、工芸の世界も実力世界なのだと実感した。


それから、パンダになる筈だった亀の灰皿以外は、

学校から帰る途中で不幸な事故に会いすべて破棄されることになった。

主に、手が滑ったとか手が滑ったとか手が滑ったとかである。

何処かの有名な人曰く、

『事故はいつどこに潜んでいるか解らないもの』なのである。


亀の灰皿は父によってベランダの隅っこで活躍してるので、

それだけは廃棄、いや事故に合うことはなかった。

いつかタバコの灰で真っ黒に色付き正体を失くしてしまうだろうから、

まあいいことにした。



成人した兄は、かつての作品に出合った時、感慨深く喜ぶのだろうか。

私だったら絶対に喜ばない。むしろベランダから投げ捨てる。

芸術は爆発なのだろう。

どうせなら、本当に壊れてしまえと思うのだ。


チキチキチキチキ。


うん? さっきからなんだろうこの音。

みのりは米神に力を入れて、ゆっくりと重たい瞼を開いた。


瞼を開いてすぐに目に入ったのは、無骨な木の梁が交差している天井。

ああいった梁は居酒屋とか田舎建築っぽいので、

みのりの自宅であるマンションにはなじみがない。


「ここ、どこだ?」


改装を望む母の夢がかなったかと一瞬思うが、

それはありえないなと思い当たって目を彷徨わした。

マンションを改築したところで、あの梁はありえないだろう。


ああいった昔風な大きな梁は、改装自慢な某テレビ番組でよく見る。

あれは現在の母のお気に入りの番組なのだ。夕食時に良く放映されているが、

母の父にかける期待に満ちた視線が重いらしく、

それを見ると途端に父がしょっぱい顔をして食欲が無くなるのだ。


夕食のメニューがおでんやすき焼きの時には、

あえてその番組を選んでつける様にしている。


おでんの餅巾着はみのりの好物であり、すき焼きは野菜と豆腐が常に多いのだ。

だが、ケチな、いや節約第一な母はおでんセットの格安具材を買う為、

餅巾着は鍋には一つだけしか入っていないし、

すき焼きの肉は、特売の薄い牛肉400gのみ。


となれば話は簡単だ。世の中は弱肉強食なのだ。仕方ないだろう。

父のメタボ対策に大いに協力していると自負している。


そして何故おでんの思考が出てきたかというと、匂いがするからだ。

シチューの様な、煮しめの様な、トン汁の様な、雑多な煮込みの匂い。


そういえば腹が減った気がする。


みのりは、腹を押えながらむくりと起きた。

目に最初に映ったのは、窓から差し込む昼間の太陽の光。

確か二度寝し始めたのが夜明けだったので、

これは軽く4,5時間は寝ていたと思われる。


昨日は、山歩きをしたりカブトムシ攻防戦を繰り広げた揚句に鳥に追い回され、

偶然見つけた地下通路を通って着いた先で絶品のチェリーパイを堪能した。

直径40cmのパイ一皿をみのり一人で完食したのだ。

至極満足大層ご機嫌パラダイス天国ハワイの扉と言った感じで、

幸せ気分満喫で最後の一欠けらまで残さなかった。

そしてお土産のチェリーパイをもらう為にその晩はフェイの家に泊まって、

起きたら何故か誘拐されていたと。


UFOといい豚といい、この地方では誘拐がお家芸なのか。

もう一度情操教育からやり直した方がいいと断言する。


流石に、大概の事では動じないみのりも昨日は大層疲れていた。

豚村長のせいで睡眠の邪魔をされて、朝方に二度寝と相成った。

そのへんまでは、なんとなく覚えている。


足先や足裏が痛いのは昨日酷使しすぎたせいだ。

やはり、つっかけで山登りは無謀だったか。

だが、足に誰だか薬を塗ってくれたようで、すーすーして気持ち良い。

どこの誰かは解らないが随分とご親切様だ。

そのどこかの誰かに心の中で合掌した。


とりあえずは起きて様子を見ようとしたら、

白い布の塊が膝の上からごろんと滑って落ちた。


布の塊を拾うと、元はさらりとした手触りの質の良い生地だと言うことが解る。

だが、そうっと広げると、布の全体に絞り込むように皺が激しく波立っていた。

まるで絞り染めの布地の様にしわくちゃである。


ここで言及しておくが、みのりは寝相が余りよろしくない。

寝ている時に、大概は布団を捩じって抱き枕の様に抱えているらしい。

修学旅行中にみのりの寝相を見ていた友人の言によると、

親の仇のごとくに絞め技を繰り広げていたとかなんとか。


まあ、それはさすがに言い過ぎだろうとは思うが、

母は私に絶対に高い布団を使わせることが無かった。

高級羽根布団などはもってのほかで、いつもポリエステル素材の格安布団だ。

多少のごわつきは有るが、風も通さないし暖かい。

皺も適当に伸ばせばすぐ消えるので、納得はしている。


だが、この団子になった布は、もちろんポリエステルではないようだった。

手触りから裏打ち上等絹で外側高級舐めし皮だと思う。

値段にしたらおそらく虎の子一枚では足も手も出る最高級品。


それがこうもしわくちゃ団子に。


誰に糾弾されなくても、その犯人はみのりだという自覚はある。

起きた時の惨状から、自己分析くらいはできる。


とりあえず布をベッドの上にバサット広げてみて、おおよその形状を確認した。

一般的なシーツの類ではないようだった。


やや円錐状であろう布には金のピンブローチ、金の飾り紐があった。


それを見てみのりは思い出した。


今朝方、黒髪マッチョに、寒さ避け対策としてマントをもらった。

いや訂正、貸してもらったのだ。お蔭で大変暖かく良く眠れた。 

軽いのに暖かくて寒さを通さない。 ダウンコートも顔負けの防寒グッズだ。


寝ていたベッドに掛けられていたのは、木綿の薄手シーツ一枚。

このマントが無ければ、みのりの二度寝ライフは快適とは程遠かったに違いない。

実に寝心地、いや触り心地はよかったと記憶している。


人に物を借りたまま、それを今の今まですっかりさっぱり忘れていた。

人としてどうなのかと頭の何処かで常識みのりが囁くが、すっぱり無視する。

眠かったのだ。仕方ないではないか。


そして、覚えているのは、その時の金髪の差すような視線。

このマント、よほどいいものに違いないし、

私としては、二人の道ならぬ仲を邪魔する気はない。

痴情のもつれから面倒に巻き込まれたくないし、

定番ながらに馬に蹴られるのも嫌だ。


仕方ないので、マントをもらう計画は断念しようと思ったのだ。

そうだった。そう決めたのだ。

だが、今の惨状は言い訳が出来るだろうか。

常識みのりと冷静みのりが会話する。


常:いや、出来ない。

冷:出来ないな。


やっぱりそうか。


弁償してくれと言われても仕方ない状態にあることは否定できない。

もしみのりがマントの主人なら、このような形状にした犯人を吊し上げ、

もう一枚弁償しろと迫るところだ。


だが、みのりは弁償する金など一円も持ち合わせていない。

しかし、ここで面倒だからとこの惨状をこのままにトンずらすると、

あの金髪の執念深そうな視線が気になる。

おそらく何らかの手段でみのりの住所を調べ上げ、

弁償しろと忘れた時に不幸の手紙よろしくやってくるに違いない。

後々の捻じれて拗れた多大なる面倒は、みのりがもっとも避けて通りたいものだ。


ならばどうするか。


捻じり飴の様に巻かれた形状が明らかに解る皺。

反対にまわして同じように捩じってみたら、皺はもっとひどくなった。

右寄りの皺と左寄りの皺が同時に入って虎縞の様相である。


こういう皺伸ばしには、霧吹きで水を駆けて伸ばすと取れる。

そう思って見渡すと、ベッドサイドに小さな水差とコップがあった。

そして、みのりの持っていた荷物が、足元に纏めて置かれていた。


何とかできないだろうか。


みのりはとりあえず、ミニバックから昨日首にかけていた汗臭いタオルを取り出して、

水差の水を軽く浸して固く絞り、マントの内側から軽くポンポンと皺の上を叩いた。

しばらくしたら、じわっとマントが冷たくなり皺が微妙に伸びた。

外側も同じようにすると皺がうっすらしてきた。


これは、効果ありだ。


タオルの汚れが白いマントにちみっと移った気がするが、まあ気にしない。

皺よりも目立たないだろう。

男は細かいことに気にするなと言えば何とかなるだろう。


マントの皺伸ばしをしながら、タオルのしけった場所で序に自分の顔を拭う。

汗が乾いてごわごわになったタオルで擦った為、頬が赤くなったが仕方ない。

こちらもとりあえずはいいことにした。


みのりは、タオルを押し当てながら、マントの皺を伸ばし、

そしてプレス代わりにみのりの手のひらで温めて皺を取る。

広範囲の所はお尻や背中でパンダが転がる様に伸ばした。

人力プレスは意外に楽だ。


微妙に背中が濡れて寒い気がするが、みのりの体温で蒸発するはずだ。

今は夏だし昼間だ。すぐに乾くから問題ない。



だが、一か所首元の少し布が分厚い部分の皺が頑固であった。

何度タオルで叩いても皺が伸びる気配がない。頑固おやじにも程がある。


みのりは、もうすこしと思って水差の水を傾けたら、

水が思ったよりも勢いよく出て、マントの首元にぼとりと落ちた。


あっ、と口に出したが、それだけでは何の解決にもならない。

時すでに遅しと言うやつだ。


頑固な皺は伸びたが、今度は完全に濡れていた。ぐっしょりだ。

ここで水気を取る為に絞ると確実に更なる皺を形成するに違いない。


みのりは、考えた挙句にタオルで出来るだけ水分を取って、

後は濡れた部分を天日干しにして、

それでも乾かなければその時考えようと思った。


水が絞れないくらいには水気は取れたが、まだしっとり感は残る。

ベッドの上の日の当たるところに干して、全体的に湿気を取る。

部屋が何だか湿気くさい気がする。湿気取りが欲しい。


そうしてマントを干して部屋でひと息ついていたら、

部屋のドアがこんこんとノックされた。


「はい」


条件反射の様に応えると、声が返ってきた。


「オリ、起きていますか?」


この無駄に低いセクシーボイスは黒髪マッチョの声だ。

まだマントは生乾きなのに、持ち主が回収に来てしまった。

すこし焦ったが、手に持ってみたら太陽の熱でほんのり温かくて、

湿り気具合も着ていれば乾くぐらいではないかと希望、いや推測した。


「はい。どうぞ」


まあ、怒られたらその時はその時だ。

みのりが故意に濡らしたわけではない。

全ては偶然が引きおこした不幸な事故だったのだ。


とりあえず、みのりはベッドの横に立ち入室を促した。

天日干しの為、ベッドに広げてあるマントから意識を逸らせる目的もあったが、

仮にも命の恩人に対し、失礼があったらとか考えるのが面倒だからだ。

学校でも、目上の人を迎えるときはせめて立ちなさいと、

それが礼儀だと口を酸っぱくして言われていた。

とりあえず立っていれば問題はないだろう。


木のドアがゆっくりと開いて、その手にはホカホカと湯気が立つ小さな汁椀。

みのりの鼻がひくひくと動いた。


「食事を持ってきた。

 食べられるのなら、食べておいた方がいい」


差し出されたのは、芋とキャベツがちょろっと浮いたスープと黒いパン。

みのりのお腹が小さく、キューと鳴いた。

黒髪にももちろん聞こえたと思うが、聞こえないふりをしてくれた。

実に大人の対応だ。おじさんタバコを吸うだけある。


「有難うございます」


黒髪マッチョは大変丁寧で、大人で心配りが出来る男だ。

これなら男にも女にもモテモテに違いない。

金髪男と頑張れと心の中でエールを送った。


初めて食べた微妙に赤い汁に具が余りないスープは、お腹に染み渡った。

薄味野菜スープなのにコクがあって、喉に通るときにわずかに塩味が残る。

具が溶けてなくなったのかやけに少ないが、贅沢はいう物じゃない。

母の機嫌が悪い時に出てくる出汁なし具なし味噌汁に比べればご馳走だ。

そう思ってパンを取り、首を傾げた。


黒棒?


パンはカンカンと音が鳴りそうなくらいに固い。

スーパーハードなコーティングだ。

これを噛み切れる人間はネアンデルタール原人の称号を受けるに違いない。


首を傾げているみのりをみて、黒髪が苦笑した。


「それはスープに付けて柔らかくしてから食べる。

 君は、いや貴方は……やはり知らないのだな」


なるほど、バケットパンの固めだと思えばいいのか。


パンを割ろうと両手に力を入れようとしたら、黒髪がみのりの手の中から、

黒パンを強奪した。


「そのままでは硬くて、貴方の力では割れないだろう」


そういって黒パンを4つに割ってくれた。強奪したのではなかったのだ。

態々割ってくれるなんて、父親要素抜群だ。

黒髪はいいイクメンになれるであろう。

ちょっとだけ睨んでしまったことを心の中で謝った。


「いただきます」


両手を合わせて食事の前の挨拶。


割れたパンを受け取ってスープにつけて柔らかくして食べると、

ライ麦とふすま、稗や粟が混ざったような素朴な味がした。

自然派志向の16穀米ならぬ穀物パンというものだろう。


旨いとは言い難い物ではあるが健康には大変よろしそうだ。

みのりは、黙って一匙一匙掬い、ゆっくりと咀嚼し飲み込んだ。


黒髪マッチョは、暇なのか、はたまた人が食べている姿を見るのが趣味なのか、

みのりが食べている姿を部屋の隅の椅子に座ってじっと見つめていた。

まあ、見られていようがいまいが、味は変わらないからみのりは気にしない。


みのりは、ほどなく全部綺麗に皿の中身を食べつくして両手を合わした。


「ご馳走様でした」


ゆっくり食べるとスープと小さなパンでも腹は膨れる。

それに咀嚼回数が多いと満腹中枢を刺激するのである。

みのりのお腹はそれなりに満足感を覚えていた。


デザートに甘い物が欲しいところだが、それは隣村に戻って、

マリイにあのチェリーパイをもらうことでいいだろう。


黒髪が食べ終わった私に何か言おうとしたときに、

みのりの部屋のドアがノックされた。


「はい」


みのり応えるより先に黒髪が応えた。

顔をひょいと覗かしたのは、小さな少年だった。

5,6歳ぐらいだろうか、大きな茶色の目に、

顔いっぱいのそばかすが目立つ元気そうな子だった。


「ヒューバート様、レイナード神官様とカルザイ先生が呼んでるよ」


そういえば、黒髪マッチョはそんな名前だった。

黒髪マッチョは立ち上がって、少年の頭をくしゃっと大きな手で撫でた。

少年は嬉しそうに笑った。父親要素が高いイクメンの力を見た。


そして、ボウットしていたみのりの方を向いた。


「オリ、もう少し仕事が片付いたら隣村まで送っていく。

 貴方は、しばらくこの部屋で待っていてくれ」


「はい。く、ヒューバート様、食事を有難うございました。

 あ、それから、このマントも有難うございました」


みのりはこの時、黒髪マッチョと言いそうになったのを急いで訂正した。

命の恩人の名前を忘れたとかどこの鬼畜だと言われるのも癪だから、

タイミング的に丁度良かった。ナイスだ少年。


それに、お礼を言う序にマントも返しておくことにした。

ベッドの上のマントをささっとたたんで小さく纏める。

首元の濡れている部分は、心持ち見えない様に二つ折りにしてから渡す。


「ああ、もういいのか? 必要ならいつでも言ってくれ」


いや、金髪の目付きが怖いので遠慮する。

ヒューバートの大きな手にマントを返すと、

完全に社交辞令な言葉に、しっかりと断りの言葉を伝えた。


「いえ、大丈夫です。ヒューバート様、お気になさらず」


男の嫉妬は女よりも怖いと聞いている。

ここは、きっぱりはっきり断っておくのがいいだろう。

例え、マントをくれると言ったとしても。

マントは惜しいが、面倒事はとにかく避けたほうが無難である。


みのりの態度が良かったのか悪かったのか。

黒髪はみのりに苦笑した。


「オリ、私のことはヒューと呼んでくれ」


その目つきはやけに優しい。いや、生暖かい目と言っていいだろう。

ちっ、こいつには正式な名で呼ばれたくないぜというものか。

いやいや、そんな螺子曲がった悪意のようなものは感じられない。


ならば何故に省略呼び推奨?

いや、ただ単に長い名前が呼びにくいだろうという心使い。

まあ、日本人は何でも縮めるのが大好きだからな。

見た目外人の黒髪マッチョも日本人気質なのだろう。

ヒューと名前を縮めてほしいと言う事だろう。


「はい。ヒュー様、待っています」


確か、馬車の支度をしてくれると言った。

待つに決まっているではないか、もちろん。

山登りは昨日の今日だと面倒だ。


ヒューは、その場でマントを広げて肩からばさりとはおり、

ぱちんと肩のブローチで止めた。

実に一連の動作が映画の俳優の様な優雅な仕草である。


ひらりと風になびくマントが美々しく目に嬉しい光景である。

例え、マントの裾や端が寄れて皺が残っていようとも。

例え、じっと近くで見つめるとあちこちに微妙なシミがあるとしても。

他の人が見た感じ、ヒューの顔と体に目が行くはずだから、

誰もそこまで突っ込まないだろう。

後は、濡れているマントが早く乾くことを祈るばかりである。


一度振り返ったので、気づかれたかとドキリとしたが、

何も言ってこないのでよしということで、この件は終わりにした。


ヒューになるべく太陽の下で日光浴してくれと、

みのりは去りゆく背中にそっと願を掛けた。


失敗はばれなければよいのである。





**********




教会に着いてすぐに、レイナードは緊急を要する患者の元に走った。

レイナードは、名残惜しそうにその腕に抱いていた少女の黒髪を撫でてから、

ヒューバートの手に渡した。

眠る少女をヒューバートが責任もって受け取り、奥の仮眠室にそっと寝かした。


自分のマントに包まれて健やかに眠る少女は、よほど眠りが深いのか、

大勢の人間が行き来する教会を突っ切っても目が覚めなかった。

その顔は、頬に赤みを帯びた健やかで無垢な少女の寝顔。


その顔を見て思わず比較する。

初めて少女を見た時の光景と。


朝間近の薄闇の中で、小さな灯りの彩られた少女の顔は、恐怖で震えていた。

自分の倍以上も大きな猛獣のような醜い男にいきなり浚われ、

刃物で脅され、殺される恐ろしさの中で男に強姦目的で襲われたのだ。


前王時代の腐った貴族達が、時折、狩りと称して、

民に無体を働いていたと聞いたことがある。

だが、国の粛清も終わり、馬鹿な貴族連中があらかた処分されたのに、

未だこの辺境では残っていたのだろう。実に忌々しい現実だ。


あの時の光景を思い出すだけで、腸が螺子くれるほどに腹が立つ。

年端もいかない少女に抵抗できない様に縄で縛った挙句に、

刃物で脅して行為に及ぼうとするなど、人間のクズだ、男の出来損ないだ。


使用人たちの言では、これが初めてではないらしい。

これは、しっかり余罪を調べてそれ相応の処分をするべきだろうと思う。

そうしたら、村長の後釜は違う家から出すこともできるかもしれない。


捕えた村長の事はともかく、酷い衝撃を受けたであろう彼女は、

明らかに庇護を必要とする様子だった。

青白い顔にふらつく足取りはショックを隠し切れない。

だが、男性に襲われたことがトラウマになっているのか、

助け出した後も我々に警戒心を抱いて距離を取る。

その様子は背中の毛を逆立てて警戒している小さな小動物に見えた。


だから、その手をしっかりと握って俺達は、いや俺は敵じゃないと伝えた。

緊張と恐れから冷たくなっていた小さな細い指が、

ヒューバートの手の中で少しずつ暖かな体温を取り戻していた。


更に、寒さに震える体にヒューバートのマントを被せて、

俺が守ってやるから安心しろと言ったつもりだった。

そしてそれは成功したようだった。

マントに包まれながら、彼女はふにゃりと嬉しそうに微笑んだ。


レイナードの視線が、痛い程に刺さるが問題ない。

昔馴染みな間柄だ。本気で怒ったとてすぐに壊れる様な仲ではない。

それにヒューバートと彼女が可笑しな関係になるなどありえない。

ヒューバートの好みはしっかりとした分別のある大人の女性だ。

それを考えても明らかに彼と彼女は年が離れすぎていた。

だから、肩を軽くすくめるだけでレイナードの視線に応える。



ただ気になるのは、訳の分からない微かな感情。

彼女の微笑が自分に向けられた時、可憐な花が咲いたようだと思った。




レイナードは彼女をヒューバートに渡すときに、

しっかり癒しの聖句を唱えて、手脚首に残る痛々しい傷跡を直していた。

あの時にちらりと見えた、手首と足首にのこる傷後。

赤く腫れて皮膚が破れて血が滲んでいた。

襲われたことを思い出す傷が消えてほっとした。

だが、うっすらと残っていたヒューバートと手を繋いでいた指の跡も、

綺麗に消えてしまった。それがすこし残念だった。


奥のベッドに寝かせた時に履いていた靴を脱がせた。

少女の足にはあわないと思われるほどに大きめの不格好な靴。

それを見て、改めて少女の服装に目を向けた。

着ているのは部屋着に近い薄い服。

家にいて休んでいた時に、突如誘拐犯に襲撃されたのかもしれない。


靴の中から出てきた少女の足の裏や指が赤く腫れあがって、

白い柔らかな足に豆や切り傷が多く出来ていた。

誘拐された時に逃げようと、慣れない靴で逃げたのかもしれない。


そう思ったらあの村長に更に大きな怒りを覚えた。

あんな細くて小さな少女が、抵抗らしい抵抗など出来る筈がない。

村長の言い分では従者が浚ってきたと言っていたが、

おそらく一人で追ったのではあるまい。


幼気な少女を大人が狩りで獲物を捕らえる様に囲んで追うのだ。

どんなに怖かったことか。

それでも抵抗し必死で逃げたのだろう。だから、あのような足に。


すうすうと寝息を立てる少女、オリ。

その規則正しい眠りの奥には、傷つきながらも立ち向かった辛い記憶をおしこめているに違いない。


ヒューバートは腰に付けた皮袋の中から傷薬の軟膏を取り出して、

小さな足にゆっくりと塗り付けた。

桜貝のように小さな爪先に至るまで、しっかりと優しく塗る。


「う、あっいた……はっ……ん」


時折、傷跡に軟膏が浸みて痛いのか、びくびくと足を揺らし、

痛みゆえにか悩ましい声をあげる。

閉じられて開かない瞼に、眉に寄せる微かな皺に、さらりと流れる黒髪に、

心臓がどくりと音をたて、大きく跳ねた。


だが、その感情をすぐに打ち消す。

まだこんな幼気な少女だ。この感情は気のせいだ。

それに、彼女のことはレイナードも、いやレイナードが甚く気に入っている。

去り際に見せた恋情を隠さない熱い視線から良くわかる。


首を何度か降って、深呼吸を繰り返して感情を押さえつけた。


無防備に眠る少女が今、ヒューバートの手の中に居る。

その吐息が心を騒がすが、意図して別な感情で満たす。


アトラスの慈悲を持って、良い夢を送りたまえ」


聖句の一句を告げて部屋を出た。


このままここにいたら間違いが起きるかもしれない。

そんな可笑しな予感が頭を過ったのもあるが、

力仕事が必要なときなどに、男手が居るからだ。

今、教会には病人が溢れている。だが、患者以外には、男手はいない。

流行病とのことで、ここには誰も近づかないからだ。


聖布を纏った神官か医者、聖騎士ならば、

神の加護で病にはかからないとされている。

よって、数少ない貴重な戦力として医者の手伝いをしていた。


一緒にこの村に来たレイナードは聖神官であるがゆえに、患者に付きっ切りである。

本来なら、ヒューバートも同じように患者の様子を第一に考え、

無茶をするレイナードの補助をしなければいけない。


だが何故か、何をしていても奥で寝ているオリのことが気になった。


夢の中で泣いてはいまいか。

恐ろしい思いをしたのだ。怖い夢に震えているのではないか。

夢の中で助けを求めて叫んでいるのではないだろうか。


ふと視線の先はレイナードと絡むことに気が付いた。

おそらくレイナードも自分の視線に気が付いただろう。

何の気なしに、つい目をそらしてしまった。


食事の支度が出来たと聞いたときに、

世話人の年配の女性が持っていこうかと言ってくれたが断った。

オリの様子が見たかったからだ。


レイナードの視線を感じながらも、手が空かないレイナードに代わって、

オリの寝ている奥の部屋へと赴いた。


ノックすると起きていたようでしっかりとした返事が返ってきた。

部屋に入るとベッドには寝ていないで、ベッドの脇で立っていた。

その表情は凛として引き締まり、なにかしら決意すら感じられる。

明らかに、一般庶民とは違う。


頭の端にあった予測が固まっていく。

肌の柔らかさ。労働を知らない手足にしっかりとした言葉使い。

そして、伸ばされた姿勢の良さに、物怖じしない態度。

おそらくオリは貴族階級の女性だ。


そう思い立った途端に、

頭の中のどこかが、ひやっと冷めた気がした。


「食事を持ってきた。

 食べれるなら食べた方がいい」


貴族の箱入り娘なら、こんな粗末な食事は食べられないと言うだろう。

貴族はやわらかい白パンと豪勢な料理に慣れているからだ。

自分の周りにいるお高く留まっている貴族の女性達を思い出した。


彼の我儘な姉妹はまだましな部類だが、

貴族の女性の大凡が高飛車で気位が高く扱いずらいうえに、

すぐ人を値踏みするような目で見るのだ。


戦に行かず、税金を苦しむ民から吸い上げ、のうのうと暮らしているくせに、

人殺しだの地位がどうのと戦場で戦ってきた騎士を蔑む阿呆な化粧烏だ。

ヒューバートは反吐が出る程彼等が嫌いであった。


だが、唯さえも貧富の差が激しく、この教会に集まるのは貧乏な民達。

病が蔓延している貧しいこの村ではこれが精一杯の食事なのだ。

そんな民を蔑み文句をいうなら、食べなくてもいい。


そう思いながら吐き出すように言ったら、

オリからは文句も蔑みも一切なかった。

それどころか、礼儀正しく食事の祈りをささげ、

粗末な食事を一口ずつゆっくりと味わうように食べていく。


ヒューバートもここ数日同じものを食べているが、決して美味い物ではない。

小麦は使われておらず、雑穀ばかりを練りこんだパンは硬いだけで、

味はなくぼそぼそとしていて苦みもあり、砂の様な舌触りがする。

スープは野菜の屑が煮込まれた粗末な物。


だが、オリは何も言わなかった。

その顔は淡々とした無表情で、

逆に聖堂に祭られている聖女の様な清貧な美しさを見た気がした。

清らかな彼女の横顔から、ヒューバートは目が離せなくなっていた。


そして、彼女は全て食べ終わって感謝の言葉を述べる。

その瞳に浮かぶのは満足そうな光。

その態度から導き出される答えは、

彼女は他の貴族令嬢とは全く違うと言う事だった。


おそらく彼女は知っているのだろう。

戦時中であった3年前まで、今食べた粗末な食事すらとれない民が、

多く居たと言うことを。

食べる物がある有難さを知っているからこそ、

感謝して食べることが、今を生きている者の義務であることを。


本当にそうなのかと聞きたくてたまらないが、ぐっと我慢した。

もし、そうだと言われたら、もう止まらないのが解っていたからだ。


心の中の騒めきがどんどん大きくなる。

駄目だ、何も考えるなと頭の中で何度も否定するが、

昨日見た彼女の笑顔や、彼女の寝顔、いろんな彼女の顔が思い出されて、

止まらなくなった。

本人を前に、もう一度見たいと懇願しそうになるところだった。


この村の教会の世話役の息子であるニコルが呼びに来た時には、

正直助かったと思った位だ。

立ち去ろうとするヒューバートに、オリは丁寧に礼を言いマントを返してきた。


自分のマントが彼女を包んでいるのは大層満足感があったので、

あっさりと返されたのは聊かがっかりした。


これでもレイナード程ではないが、女性にはそれなりにモテる方だ。

聖騎士という職業や地位もそうだが、容姿や立ち振る舞いにそれなりに自負もある。

だが、彼女はそのようなヒューバートの見かけや地位には頓着が無いのだろう。

あっさりとマントを返し、更に大丈夫だと強いひとみでにこっと笑った。


心が酷く揺さぶられる。

彼女は、特別なのだと心が応える。


そんなオリの強いひとみに映るのは自分でありたいと、心が叫んだ。

レイナードではなく、俺を。 俺だけを見てほしい。


「私のことは、ヒューと呼んでくれ」


レイナードをレイ様と呼んでいたのを聞いていた。

俺もヒューバート様などと他人行儀ではなく、ヒューと呼んでほしかった。


オリは頷いて応えてくれた。


「はい。ヒュー様。待っています」


待っている。俺を。

その言葉に、顔に頬に耳に熱が集まるのを感じた。

耳先が熱く痺れ苦しいほどだ。

その言葉が、何よりも誰よりも嬉しかった。


だが、彼女の表情を見ると、ヒューバートが期待するほどに特別な感情は込められていないのを感じた。

おそらく、ここで待っていろと言った返事なのだろう。

だが、そうと解っていても赤面する顔が止められなかった。


顔を隠すようにマントを受け取り何時もの様に羽織ると、

ふわりとオリの香りがした。微かに香るチェリーの香。


そして、首元に感じるのはしっとりと濡れた跡。


オリを振り返ったら、かすかに目や頬が赤くなっていた。

やはり気丈に振舞っているが怖かったのだろう。


襲われたのを思い出し、ここで怖くて泣いていたのだ。

年頃の気立てのよい、人の気持ちが解る優しい娘だ。

我々に気を使わせまいと一人で泣いていたのだろう。


人に知られまいと虚勢を張る様子が、いじらしくて可愛くて、

抱きしめて抱きつぶして、俺に縋りつけと言いたかった。

彼女をもう幼い少女と誤魔化すことは出来なくなっていた。


女性にこんな気持ちになったのは初めてだった。


オリと分かれ、前を向いて歩くうちに、レイナードに対する遠慮は消えた。


オリが欲しい。

彼女をレイナードにも、誰にも渡したくない。


カツカツと靴音を響かせながら廊下を歩いていくうちに、

ヒューバートは、どうやって彼女の心を自分に向かせるか、

それを考えはじめていた。




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