更に悪化聖女への道
黒髪マッチョのヒューと子供は、なにやら楽しそうに出て行った。
子供がヒューを見上げる視線は、嬉しさ満載のキッラキラ視線。
昨日ちらりと見た戦後の白黒テレビであれば、
『ギブミーチョコレイト』と字幕が入りそうな感じだ。
あれは、後でお菓子なりと強請るに違いない。
子供の嬉しそうな顔に、イクメン希望な本能が刺激されたのかもしれない。
出ていく時に見えたヒューの横顔は、なにかしらの決意を感じた。
この子の親になろうとか、そんな感じに見えた。
みのりの関係のないところで頑張ってくれと心のなかでエールを送った。
そして、バタンと閉まる扉。
ここに居るのはみのりだけ。
部屋をぐるりと見渡しても、狭い部屋にはベッドが二つ椅子が一つあるだけの、
本当に何もない部屋でした。ビジネスホテルの格安素泊まり部屋って感じだ。
教会と言うのは清貧がモットーらしいから、
日本のおもてなしに換算されるそれなりの設備を求めるのは酷と言うものだ。
まあ、もともとみのりは場所がどこであろうと寝れる性質だ。
満員電車の中だろうが、授業中だろうが問題ない。
横になって寝る為の設備があれば、文句は無くはないが我慢できる範囲だ。
そして、窓から入ってくる燦々と降り注ぐ太陽の暖かい光。
ベッドの上に座ると、ぽかぽかと暖かいシーツと枕。
なるほど。とみのりは手を打った。
今晩、カブトムシを収穫するつもりなら、
ここで昼寝をしておくべきという啓示なのかもしれない。
そう思ったみのりは、寝るには明るすぎる光を遮るため、
カーテンを半分引くためにいそいそと立ち上がり、
たまたまであるが窓の外に視線を動かした。
そこで、みのりは目を見張った。
「ん? んん? あ、あれは!」
窓の外は中庭の様になっており、
沢山の枝が木漏れ日を造るように木が重なっていた。
白樺の幹が目に優しく、大きな葉が風でそよぎ、
葉擦れの音がさわさわとして、大変気持ち良さげな庭だ。
木々の間を縫う様に伸びている小さな小道は、思わず先に進みたくなる。
その風景は、まるで一枚の美しい風景絵画のようだ。
だが、みのりが注目し声を上げた理由は、その美しい風景に見惚れたのではない。
もとより、そのような美に酔いしれる高尚な趣味は持ち合わせていないみのりである。
それは庭の中央にあった。
みのりは、それが確かかどうか確かめる為に、
両手で輪を作り望遠鏡をのぞくようにして、庭中央に焦点を合わした。
本当に望遠鏡の様な能力を発動するわけではないが、
気持ちこうすると見えているような気になるものだ。
それは兎も角、そこには、周りの白樺の木とは違う、
茶けた幹のしっかりと根を張った木があった。
焦点がピタッと木の上で二股に分かれたヘタを軸に、
ぶら下がっている実に美味しそうな赤い実に止まる。
「やはりそうか!素晴らしい!」
艶々とした赤黒い実がここぞとばかりに鈴生りになっていた。
間違うことなくあれはチェリーだ。
日本のサクランボとは少し違うブラックチェリーと言われるビング種の実だ。
甘みが強く酸味が少ない。口の中でプチっと割れる皮が包むのは瑞々しい果肉。
桜の品種なのに、花がなっても実がならない桜とは違って、
大量に美味しい実がなる断然お得な木。
桜桃と言われる日本さくらんぼよりも微妙に果肉が多いのが特徴だ。
また、この品種は日持ちがしてチェリーパイにも大変向いている。
そして、ここが重要。
昨日マリイが作ったチェリーパイはこのブラックチェリーを使用していた。
あれは、天上の美酒にも勝る絶品スイーツ。
あのチェリーパイを旨いと言わない人間がいれば、みのりは胸倉をつかんで言うだろう。
それならお前の分を私によこせと。
みのりの頭の中で、欲望みのりがにょっきり現れた。
それをとどめるのは、僅かばかりある良心みのりだ。
欲:誰が管理しているのかはわからないが、あれだけあるのだ。
私が貰っても誰も咎めないのではないか?
良:黙って取ったら泥棒だ。
ここは話をして分けてもらえばいいのでは?
欲:なに、カラスが取って言ったと言えば、問題なかろう。
どちらにしても木の上の方は取れないのだから、
全部取るわけではないし。
良:いや、木の上を取るなら解るが下なら烏のせいにするのは無理がある。
欲:なら下半分ならどうだ。
半分でもチェリーパイ3枚は造れよう。
良:3枚。それはそれは食べごたえがありそうだが、しかし……。
欲:そもそも隣村は食べるのも困る程の貧乏をしている人がいただろう。
良:ああ。そういえば、蕪やら芋やらを断った時、ほっとした顔をしていたな。
欲:つまり、マリイやフェイの家も貧乏かもしれない。
そんな家族に山盛のチェリーパイを土産に作ってくれと言うのは、
少々気が引けるだろう。
良:そうだな。もうないと言われれば諦めるしかない。
山盛を諦めて1枚で遠慮する羽目になるかもしれない気がするな。
欲:だが、あれを持って帰れば堂々とこれでパイを作ってくれと言えるだろう。
それに、あれだけ実ったチェリーだ。チェリー自身もそれを望んでいるぞ。
良:ぐっ、確かに。チェリーが呼んでいる気がするが、それとこれとは……。
欲:まずは、様子見だ。近くまで行ってその呼び声を確めて見ようではないか。
良:まあ、近くに行くだけならいいだろう。
欲:そうだ。チェリーの呼び声を無視するなど、
チェリーパイ大好き一人者としての名がすたる。
良:その通りだ。良く言った。
とりあえずの保留意見が決まった。
まずは、見聞というか、現物を見てからの判断をと言うことになったようだ。
窓ガラス越しに見える艶々の赤い実は、
ピカピカと輝きながら日の光をはじいて、実に初々しい限りだ。
チェリーの初成りの呼び声が、美味しいよ~とみのりを呼んでいた。
その部屋の窓は当然のごとく嵌め殺し。
つまり、木枠が埋め込んでいる形で、サッシ窓ではない。
流石教会。古びた木枠が恨めしい。
ならば、廊下から誰にも見られない様にそっと中庭に出てみよう。
みのりは、一応言い訳に使えるであろう空のスープ皿を持ち、
何かあった時にすぐ逃げられるように全ての荷物を装備して廊下に出た。
廊下の突き当りには二つの木の扉。
右に向いているのがおそらく中庭への扉。
真正面にあるのが、ヒューたちが向かった扉だと推測する。
足音を立てない様に、早足で素早く扉に身を寄せた。
そして扉のノブに手を掛けてどちらのドアも鍵がかかっていないことを確認した。
というか、鍵は内鍵のみ、それもこちらからつっかえ棒の様に横に棒を動かして、
鍵をする時代遅れの旧式も旧式と言わんばかりの扉だった。
世界遺産に登録が出来そうなくらいに古い扉だ。
みのりは、壊さない様にそっと扉を5cmほど開けて中の様子を見た。
金髪のレイと黒髪のヒューと髪の毛がバーコードのひょろメガネのオジサンが、
そこで患者と思われる寝ている相手に治療を施しているように見えた。
バーコードは白衣を着ていることから医者だと思われる。
その周りには、うんうんと唸っている患者達。
その患者の腹の上には、当然のごとくに踏ん張り反っているシ虫がいる。
相変わらず気持ちの悪い紫と黒と黄色のシ虫だ。
微妙に色や形が違うような気がするが、シ虫のファッションに興味はない。
みのりの怒りは収まっているため、シ虫に対し特に何の感情もわかない。
やはり、一晩寝ると通常運転に戻る物である。
例え、シ虫が笑って患者を突いていようと、
笑いながら尻をかいていようと、今のみのりにはどこ吹く風である。
そもそも、レイやヒューやバーコードが直そうと頑張っているのだ。
真剣な顔に、額に汗する労働。それを邪魔するものじゃない。
彼等には彼等の正義があり、仕事に誇りがあるかもしれない。
新参者がでしゃばるとよいことにはならないのが社会の常識である。
うむ。そうだ。
面倒事には首を突っ込みたくないと言うのが本音だが、
ここはほっとくのが正解だろうと頷いた。
そして突き当りの扉を閉めて、中庭に続く扉を開けた。
中庭には、気持ちいい風が、……吹いてはいなかった。残念ながら。
窓越しに見た感じは軽井沢か高原の小道という素敵風景だったのに、
鼻に肌に届く空気はどんよりどよどよで生暖かい。
そして腐ったリンゴの様な香りが漂ってきていた。
みのりは顔を顰めた。
もしや、みのりのチェリーが腐ってきているのではないか。
嫌な予感がしてチェリーの木に向かって走った。
木の根元には、収穫されて腐りかけた、
いや半分以上腐ったチェリーが乗ったワゴン。
そして、そのワゴンから木に手を伸ばそうと跳ねているシ虫が数匹いた。
誰だ。あんなところに腐った実が入ったワゴンを放置した奴は。
犯罪級の悪辣さに思わず顔を顰める。
そのシ虫達は、今までにみのりが見たシ虫よりも数倍大きかった。
大きさで言うと秋田犬の成犬位ある。それが4体、いや5体か。
それがキチキチキチと歯を慣らしながら、ワゴンの上を飛び跳ねて、
今にもみのりのチェリーの木の実を取ろうとしていたのだ。
そうか、みのりが目を覚ました時に聞こえたのは、コイツの声だったのか。
いやな目覚まし音だ。
そしてみのりは、はたと気が付いて愕然とした。
あんな秋田犬程に大きなシ虫達にチェリーを食べられたら、
残りは微々たるものに有るに違いない。
奴らの様子を見るに艶々チェリーに甚くご執心だ。
奴らか思うまま食べたら、みのりのチェリーパイ3枚分に足らなくなるではないか。
みのりは即座に決意した。
アイツらを何とかしないとみのりのチェリーが危ない。
先程のチェリーの呼び声はみのりに助けを呼ぶ声だったのだ。
シ虫を退治してくれという叫び声に違いない。
みのりはそう解釈した。
それならば、まずは急いで観察し対策を練らねば。
みのりはチェリーの木から2mほど離れた白樺の幹の脇に身を顰め、じっと観察した。
シ虫の大きさは、フェイ達に付いていた物の10倍(大袈裟)の大きさだ。
そして、顔は相変わらず憎たらしいが、隣村のシ虫のように細身では無く、
どちらかというと寸胴タイプの顔真ん丸だ。
この村の村長ゆえか、シ虫は豚鼻であった。
そして、一番の違う特徴として、腕(足?)が10本あった。
つまり、シ虫百足バージョンだ。ここでシ百足と命名する。
百足は、基本地を木を這いよじ登る虫だ。
よって、大きな体がジャンプしても重いのでジャンプ力が足らない。
だから、今もってチェリーに届いていない。
その腕をもって幹をよじ登れば簡単なのに、
おそらく頭が豚なので気が付いていないのだろう。
ここは、シ百足が気が付く前に、さくっと退治すべきだろう。
みのりは肩から下げた虫かごに手をやった。
そこにはコロンと転がる毒飴。大きさはコーラ飴。
それをじっと見て思った。
シ百足のあの大きさに対し、この飴は小さすぎるのではないかと。
飴とシ百足を比べたら一目瞭然だ。
せめてちくわ位の大きさでないと毒が効かないのではないか。
あのシ百足は、みのりが振り回して目を廻せる大きさではないし、
そもそも百足は三半規管がどうのこうのという問題ではない。
足を切っても胴を切っても問題なく再生するのが百足だ。
みのりが捕まえたところで手足を切り離して離脱することが可能だ。
百足を再起不能にするには、
頭を潰すか首関節の部分を潰すしか手はないのだ。
だが、百足は凶暴でチキチキチキと鳴らしている牙は大変厄介だった。
牙が垂らす紫色の毒液がジュッっと腐ったチェリーの上に落ちてるし。
唾液だと思うが、シ虫のそれより断然威力がありそうだ。
大変気持ち悪い色をしている。。
正直、とっても、いや絶対に触りたくない。
だが、チェリーを諦めるわけにはいかない。
どうするか。
みのりは、脳内ブレインを総動員して考えた。
冷静みのり、欲望みのり、良心みのり、怒りみのり、動揺みのり、
出てきたみのりはいろいろ揃って5人だ。
いまならミノリンジャーが出来てもおかしくない顔ぶれだ。
まあ、すべてがみのりの脳内なので、他人に見せられないのが残念だが。
冷:諸君、ここは建設的な意見を求む。さあ、意見をじゃんじゃん出してくれ
欲:何かで気を散らしているうちに台座のワゴンを蹴倒すのでは。
良:ワゴンを蹴倒しても、解決にならないだろう。
這い上ってきたらどうするのだ。
動:そうだな、豚顔だけあって執念深そうだ。
怒:だが、チェリーは守られなければならない。
欲:そうだそうだ!
良:ならどうすればいいか、もっと考えろ!
冷:そうだ!毒が小さすぎて効かないのであれば、数を増やしてはどうだ?
良:数を増やすとは?
動:毒飴を他から採取すると言う事か。どこから?
欲:そうか、解った。隣の大部屋に寝ている患者達からシ虫を採取して、
それを使うと言う事か。
冷:その通り。我ながらいい考えだ。
怒:しかし、飴を溜めると言うことは使わないと言う事。
つまり、腕が痛いではないか。手首が腱鞘炎になったらどうする。
欲:では、チェリーパイの叫びを無視するのか。あってはならんだろう。
良:だが、腱鞘炎になったら後のカブトムシ捕獲作戦にも影響が及ぶ。
冷:それもそうだ。 え~他に方法がないのか?
動:あ、この飴って熔けないのかな。
良:熔ける?溶かしてどうするのだ?
冷:解った。溶かして毒液を作って毒液の中にシ虫を漬けると言う事か。
良:そういえば、最初は廻して悶絶したところで、
籠に放り込むだけで飴になったから、毒液は少量でもシ虫程度なら問題ないかも。
籠の中に容器を置いて、飴に成りきる前に次から次へと放り込めば、
より沢山の毒液が出来るかもしれない。
欲:小よく大を制すと言うではないか。 妥当かもしれない。
冷:うむ。まずは熔けるかどうか手元の飴で検証しよう。
みのりは籠の中に器を置いて、中に飴を転がしてペットボトルの水を掛けた。
そして、熔けろ熔けろと念力を送る。だが、全く溶けない。
飴を溶かすには熱となにか媒介が必要だった気がする。
媒介にするための何かでみのりが思いつくのは水あめの代わりの蜂蜜である。
確か籠の中に小瓶ごと入れっぱなしになっているはずだ。
みのりは、少しだけ黄金色の蜂蜜を器の中に溶かした。
そうするとあら不思議。
元がシ虫の毒飴がどろりとした紫と黒のマーブル液体に溶けた。
ちなみに液体はじゅうっと音を立てている。
器が溶けそうなくらいに強力な毒液だ。
これなら何とかなるやもしれない。
まずは実験に勤しまねば。
そう思ってみのりは踵を返した
そして、大部屋へと続く扉をそうっと開けた。
レイもヒューもバーコード医師もいなかった。
大部屋の向こうの玄関付近で馬の嘶く声がする。
そして、幾人かの人々の声がしている。
三人共その対応に一時この場所を離れているのかもしれない。
絶好の実験タイミングだ。
さあ、最初の犠牲虫はどれだ。
まずは、一番手前で白目で泡を吹いていた男性に注目した。
腹の上で踊るシ虫。しかしながら、このシ虫、百足バージョンと微妙に混ざっている。
手足が六本に豚鼻尻尾有。だが、細見でレゲイっぽい。
肩と首を廻しながらくねくねと踊っている。
キチイキチイ、チイ。
スローダンスがお得意のようだ。
「チ?」
尻尾を掴んで毒液風呂の籠に問答無用で放り込んだ。
白目をむいていた男性は、行き成りのことで意識をガクッと失っている。
「チュン」
シ百足は、雀の鳴き声の様な声を上げ、毒液の中に頭から突っ込んだ。
そして、同じく毒液の中でぶくぶく沈んだ。
うむ。親分退治の為、みのりのチェリーパイの為だ。
アデイオス。 シ百足小版よ、迷わず成仏しろ。
そして、二度と生まれ変わるな、みのりの周りに。
大変迷惑だからな。
実験は成功だ。
毒液は少し揺らすと、紫具合が少し深まった。実にいい感じだ。
ここは、さくっと邪魔が入らない内にもっと沢山採取と行こう。
隣りのベッドは金の美しい長い髪の若い女性だ。
ミニシ百足は、女性の胸の上で金の髪を自分の頭の上に乗せ、
キチイキチイチチチ、ウチゥとニタニタ笑いながら、
嬉しそうにばっさばっさと頭を揺らしていた。
ラックOの物まねか。今のCMは確か栗毛だったはずだが。
そのシ百足は、手が4本、足が2本ですらりとした寸胴。
ナイスバディと言えないのがスーパーモデルと比べられない一番の原因だ。
だが、そんな楽天的なシ百足にもみのりは容赦しない。
金髪女性は痛みにずっと涙を流し続けているし、
みのりは、チェリーパイの為に非道になると決めたのだ。
脚を掬い上げて有無を言わせずドボンと毒液の中にイン。
「キュイ~」
モデルになりたかったかもしれないシ百足の辞世の句だ。意味は知らない。
みのりは、さくさくとシ百足小型版を採取していく。
紫の毒液はどんどんその毒性を強めているらしく、色は黒々としてきた。
ぼこぼこと熱してないのに泡を吹いている。
時折浮かぶ黄色の斑点の様な物は百足の目玉だろうか。
其れもどんどん溶けてマーブルに色を添える。
実に順調だった。
痛みが無くなった患者の幾人かがこちらをじっと見ていたが、
みのりはまったく気にせず採取を続けていく。
シ百足に警戒されることなくささっと行動するのが成功の秘訣なのだ。
時間を置くといいことなど一つもない。
そして大部屋50人は居たであろうか。
一番祭壇に近い場所のフカフカのベッドに寝ていた、
小さな子供についていたシ百足を最後に全て採取し終わった。
毒液は、器一杯に出来てみのりに使われるのを待っていた。
黒紫に銀と黄色は微妙にマーブルで、ぼこぼこ湧いている。
非常に毒々しいが予定通りだ。これならば秋田犬サイズでも仕留められる。
みのりに声を掛けようとしていた治った人たちをすべて無視して、
さっさと中庭に行くべく大部屋を後にした。
急いでみのりのチェリーを助けなければならないのだ。
みのりは邪魔が入らない様に、しんばり棒を扉に施した。
これで、みのりがチェリーを採取しようとしても誰も邪魔はしないだろう。
それから、何か毒液を入れる物と手元を見たが、
リサイクル推奨の薄いぺこぺこペットボトルでは心許無い。
そこで、そういえば枕元に水差しがあったはずと思い出した。
部屋にとって返し、水差しの水をペットボトルに移すと、
籠の中から毒液をそっと取り出した。
手に当たると大変危険だと予測できるので、
鞄の中のタオルの端を掴んでそうっと水差に毒液を移していく。
水差一杯の量の毒液が用意できた。
ドンドンドンと誰かがカギを掛けた内扉を叩いていた。
「聖女様、どちらにいらっしゃるのですか」
「聖女様、ここをお開け下さい」
助かった患者であろう数人が扉を叩いている様だ。
重要文化財並の古い扉だぞ。
壊すと怒られるかもしれないだろう。原因であるみのりが。
だから叩くのをやめてほしい。
「皆さんは、そこで大人しくしていてください。
私にはまだやらなくてはいけないことがあるのです」
そういうと、彼等の追撃は止んだ。やれやれだ。
と思っていたら、トントンと軽いノックの音がした。
振り返って見たら、レイとヒューだった。
「オリ、ここを開けてください」
「オリ、まずは話をしよう。俺が君の力に成るから」
「私も貴方の力になります。ですから、ここを開けてください」
シ百足をやっつけて、チェリーを採取の本番はこれからなのだ。
邪魔はさせない。
「レイ様、ヒュー様、原因は元から断たないといけません。
私は行きます。危ないですから、貴方達はそこにいてください」
シ百足秋田犬版を退治しに行くのだ。
毒液を盛大に奴らの頭からまき散らし、シ百足大型版を排除するのだ。
彼等に邪魔をされたら、責任が取れないことになるかもしれないだろう。
どうしてくれるのだと言われたら、それはそれで、大変面倒だ。
だから、大人しく見ていろ。
そして、チェリーを無事にゲットするのだ。
みのりはチェリー採取のためのシーツをベッドから引っぺがし、
意気揚々と中庭に向かった。
********
ララは1週間前からずっとお腹が抉れるように痛かった。
何が原因かは解らない。
当初、聖神官様と治癒術師様が治癒の光を与えてくださり、
お医者様が手を尽くして高価なお薬を飲ませたりとしてくださって、
痛みが1時期に比べ、多少収まったかに見えたが、それは錯覚だった。
一夜明けたら、鈍い痛みは激しい腹痛へと取って返し、
刺すようなそれでいて切りつけるような痛みに変わった。
それは細かい波が打ち付ける様な通常の腹痛とは違って、
常に胃が、胸が、悲鳴を上げ続ける様な感覚だ。
金髪の長い髪を振り乱しなから、ララは痛みに止まらない涙を流し続けていたが、
不意に、その痛みが消えたのに気が付いた。
ララの目は、涙で出来た塩分で睫が固まっていたが、
ゆっくりと瞼をあげると見たことのない黒髪の少女が立っていた。
少女は、ぼんやり見つめるララをそのままに、隣のベッドに移動する。
ララは、ゆっくりと上半身を起こし、少女がすることを見ていた。
少女は眉間に皺を寄せながら、何かを必死で念じているように見えた。
真剣なまなざしで痛み苦しむ患者の腹部に手を当てて一瞬で手を離し体を捻る。
薬を与えているのかとも思ったが、少女の手には何もない。
だが、患者の顔を見たら、その僅かな一瞬で痛みが去っているのが解った。
一人、また一人と、助かった村人が時おかずして不思議な顔で起き上がった。
ララの様に。そして、ララと同じく、黒髪の少女を見つけ目を瞠る。
「聖女様だ」
誰かがぽつりと言った。
「ああ、聖女様に違いない」
ララもその言葉を受けて、ベッドから滑り降りて膝をついた。
「聖女様が、我等を助けにいらしたのだ」
ララは、真剣に人を助けようとする少女の真摯な横顔に、天啓を見た気がした。
「アトラス神が聖女を私達を御救いになる為にお使わしになったのね」
ララの言葉に、皆が黙って頷き、ララと同じように床に膝をついた。
聖女である少女は、こちらを見向きもせず、
ただ淡々と痛みに苦悩する患者に立ち向かう。
ただ手を翳しているようにしか見えないが、患者の体から病が消えるのが解る。
聖女の力と言うものを見たことが無いので、そうだとは言えないが、
苦しむ患者からしてみれば劇的な変化である。
優しい言葉を掛けるわけでもない。
手を取って痛みを和らげるでもない。
笑顔で患者を励ますでもない。
過去、聖女候補と呼ばれる女性達がこの世にあらわれることがあったが、
彼等の多くは力ではなく、心で民と寄り添うことを主としていて、
その力は微々たるものだったと記録にはある。
だが、目の前の聖女は圧倒的な力を携えているように見えた。
人知を超えた神の御業に等しい行為。
少女は何も言葉を発しない。
だが、その姿に神々しさを感じた。
人とは思えない、世界の理を越えた存在に圧倒された気がした。
気が付けばララは、心からの感謝を、そして生涯の信仰を、
目の前の聖女に捧げたいと思うようになっていた。
「私、一生、貴方を信じ続けます」
ララの言葉に、多くの村人が同じように祈りをささげているのを見た。
少女が一番奥の村長の息子の治療を終えて振り返った。
何か言うのかと身構えたが、少女は自分が助けた患者を見渡すこともなく、
ただまっすぐに視線を戸口の様に向けた。
そしてそのまま、すたすたと歩いてこちらにくる。
多くの人を助けたのに、何の言葉も発さないのか。
誰しもが感謝の言葉を述べようと、彼女の威光を讃えようとしたのに、
彼女は厳しい顔を崩さすまっすぐに中央の道を進み、
あっさりと出て行ってしまった。
医者や治癒術師ですら、立ち止まって言葉を受け、
最後に治療費の話をするのに、彼女は何も求めることはしなかった。
それどころか、礼の言葉すら受け取らずに出ていくなんて。
何と、高潔で潔癖な素晴らしき聖女なのか。
誰しもが、聖書に描かれていた理想の聖女を見た気がして、
気が付けば床に額ずいて祈りをささげていた。
患者の幾人かが、聖女の跡を追う為に扉を開けようとしたが、
扉は内鍵がかかっているらしく開かなかった。
彼女が錠を降ろしたことを知った。
「聖女様、どうかここをお開け下さい」
幾人かが扉を叩いたが、聖女様は開けては下さらなかった。
その時、聖神官様と聖騎士様、お医者様が帰ってきて、
我々の姿をみて目を瞠った。
「貴方達、これは一体……、何があったのです?」
聖神官様の言葉に、ララが一番に答えた。
「聖女様が現れたのです。
私達を助けるために聖女様が力を振るわれたのです」
ララの言葉に、村人達も答える。
「素晴らしいお力でした。
苦しむ我等をその力で御救い下さったのです。
ですので、ほら、皆、このように回復いたしました」
「聖女様の奇跡の力です」
「ああ、なんて素晴らしい」
医者がメガネをずりあげながら患者であった村人の様子を窺う。
「は? ま、まて、一体何の話をしておるんじゃ。
病は去ったと言うのか? 一体なぜ? どうやって?
いやそれより聖女とは誰の事じゃ」
ララは自分のことの様に聖女を褒め称える。
「聖女様は黒髪黒目の天上の神に讃えられるほどに美しい少女です。
どこから来られたのが、そのお力がどういった物なのかはわかりませんが、
聖女様は確かに私達を御救い下さいました」
聖神官様と聖騎士様が、揃って声を上げた。
「オリが?」「オリのことですか?」
聖女様はオリ様と仰るのですね。
ララは心の中でオリ様、素晴らしき我が聖女よと賛美した。
隣村のマルフォイが横から声を出した。
彼はララの叔父でもあった。フェイは従弟だ。
「聖女様はミ・オリ様と仰るのだ。
彼女は私の村でも同じように苦しむ患者を無償で助けて下さった。
その力もお心の広さも、我々凡人では計り知れない程尊い方だ」
その彼の言葉に、ララを含め聖女に傾倒し始めた人々の目が、
恍惚と輝き始めた。
だが、反対に聖神官様と聖騎士様は焦ったように言葉を発した。
「オリは、彼女はどこに。
これだけの人を癒したのです。魔力切れを起こし倒れておるやも」
「そうだ、今すぐに彼女の手当を」
全員が彼女の行先を目線で告げる。
聖騎士様と聖神官様は扉を開けようと声を掛けたが、
中から帰ってきたのは聖女様の凛とした声。
「レイ様、ヒュー様、原因は元から断たないといけません。
私は行きます。危ないですから、貴方達はそこにいてください」
ドンドンドンと、二人の扉を叩く音が一層激しくなる。
それをマルフォイが止めた。
「病の元がオリ様には見えていらっしゃるのです。
ここにいろと言われたからには、ここでじっと待っていなくては」
二人は、マルフォイに食って掛かる。
「しかし、危険だと言うのでしょう」
「彼女を守る為に、我等は傍に居た方が」
その二人の肩をマルフォイが宥める様に叩いた。
「信じて待つ。それが我らに出来る唯一のことなのです。
お若い二人には解らないことかもしれませんが、
それは致し方ないことです。
ここで待てと言われたのです。このまま、我らと一緒に待ちましょう」
扉の前で立ち尽くす人々を前に、誰かが叫んだ。
「おい、聖女様、中庭に出て行かれたぞ。
中央の神桃の木に向かってる」
ここからでは中庭にはいけない。
行ける方法は、外からぐるっと回るか、
扉の向うにある中庭へ続く扉を通るしかないのだ。
聖神官様と聖騎士様は一斉に踵を返した。
「聖神官様、聖騎士様、オリ様がここで待てと……」
マルフォイの咎める様な声に、二人の反論が風に乗って聞こえた。
「何と言われようとも、ここで、ただ待つなんて出来るわけないでしょう。」
「彼女を傷つける全てから、私は彼女を守る」
二人は風の様に出口から出て行った。




