第7話:試運転
王都の外縁を囲む高い石壁を抜け、なだらかな傾斜を描く草地へと足を踏み入れる。
吹き抜ける風にはどこか青臭い土の匂いが混じり、現実世界のコンクリートに満ちた空気とは異質な、手つかずの自然が広がっていた。遠くに見える木立の影が、午後の陽光を受けて穏やかに揺れている。
だが、その牧歌的な景観の裏側で、浩之の視界にはしっかりとこの世界の「仕様」がノイズのように張り付いていた。
(……このあたりなら、密度は低いな)
浩之はレイアを連れて丘陵地帯の小道を登っていく。
背後を歩く少女は、未だに自分の腰ほどもある青銅の剣の柄に手をかけたまま、おずおずと辺りを窺っていた。一歩踏み出すごとに、革製のブーツが草を踏む乾いた音が小さく響く。
「あの、ヒロユキさん……本当にこんなところで大丈夫なの? さっきの街の近くよりは静かみたいだけど……」
「静かなのには理由がある。ここは王都のすぐ外側、いわゆる初心者向けの狩り場だ。強力な魔物は寄り付かないはずだが……」
歩みを止め、浩之は前方の草むらに目を細めた。
生い茂る雑草の隙間から、ぽよん、ぽよん、と不気味な水音を立てながら、ぷるぷるの水色をした半透明の体躯が跳ねて近づいてくる。
――スライム。
ゲームの定番であり、最も弱い雑魚モンスターの筆頭だ。作品によっては物理無効などやっかいなやつもいるが、このゲームでは雑魚だ。
その頭上には、赤字で小さく[レベル1]の文字が浮かび上がっている。
「ほら、さっそくお出ましだ」
「ひっ……!」
スライムの姿を認めた瞬間、レイアは反射的に後ろへ飛び退き、腰の剣を引き抜いた。
だが、その双眸には明らかな恐怖の色が宿っており、構えた剣先が小刻みに震えている。重心は後ろに流れ、いつ体勢を崩してもおかしくない危うい立ち姿だった。
(――待てよ)
ふと、浩之は脳裏に浮かぶレイアのステータス、あるいはこの世界の一般的な初期値を脳内であらためて計算し、小さく眉をひそめた。
HP:20前後
MP:0
膂力:10前後
俊敏:6前後
耐久:6前後
知略:7前後
幸運:7前後
レトロRPGの王道的な初期バランスを思えば、レベル1の勇者のスペックはだいたいこの程度のはずだ。
素のスペックがこれだけあれば、最弱の雑魚であるスライム1匹の物理攻撃などカスダメージで済むし、初期装備の青銅の剣で十分に一撃圏内だ。本来であれば、タイマンで負ける要素など微塵もない。
「……おい」
しゃがみ込んで青い顔をしているレイアを見下ろし、浩之は低い声で問いかけた。
「お前、本当に自分のステータスを確認したのか? レベル1の初期値なら、スライム一匹相手にここまでボロボロになるはずがないんだが」
「だから、ステータスなんて見えないって言ったでしょ……! 何それ、そんなに私のが弱いの……? それに、いつも外に出ると何匹にも囲まれて、どうしようもなかったんだよ……!」
半泣きになりながら抗議してくる少女の様子を見る限り、彼女が嘘をついているわけではなさそうだった。
見えないのか、あるいは「見せる機能」すらこの世界の住人には制限されているのか。
(いや、問題はそこじゃない……)
浩之は草むらの向こうに目を凝らした。
先ほどから一匹だと思っていたスライムの影が、雑草の隙間から次々と這い出している。ぽよん、ぽよん、と不気味な水音を立てながら、ぬらぬらとした半透明の体躯が周囲を取り囲むように群れをなしてきた。
一匹、二匹、三匹――数えていくうちに、視界の中でその数は確実に増えていく。
(……五匹まではまだ安全圏だ。だが、六匹を超えたあたりから包囲攻撃の判定が変わり、物理的な処理落ちや手数の差で事故が起き始める。そして七匹から八匹の群れともなれば、レベル1の初期装備では完全に処理しきれず、普通に押し潰されて死ぬ)
この世界のバランス調整は、プレイヤーにタイマンを前提とした親切設計などしていなかった。
一歩街の外に出た瞬間から、群れによる数の暴力が容赦なく襲いかかる仕組みになっているらしい。
「レイ、下がれ」
浩之は低い声で告げ、背後にいる少女の肩を片手で制した。
「え……?」
「一匹や二匹ならともかく、あの数だ。お前のその非力な初期ステータスとソロ縛りの仕様じゃ、突っ込んだ瞬間に一巻の終わりだな」
草むらの向こうでうごめくスライムの群れは、すでに七匹に達しようとしていた。
本来の勇者なら絶望して地面を這いずり回るしかない数の暴力に対し、浩之は静かに自身のステータス画面を脳裏に思い浮かべる。
[クラス:一般市民(初期)]
[膂力:5(80)]
[俊敏:4(70)]
実効値で言えば、今の彼の身体に宿っている補正値は、レベル1の勇者など比ぶべくもないほどの規格外だ。
ゲームの仕様がどうあろうと、目の前にある理不尽な物量を力ずくでねじ伏せるだけの数値は揃っている。
「……さて。ついでだ、少し雑魚の掃除でもさせてもらうか」
不敵に笑い、浩之は踏み込んだ。
――次の瞬間、視界の景色が歪んだ。
隠しパラメータ『俊敏:70』の補正が、現実の筋肉と神経反射を一気に加速させる。
足裏で踏みしめた草地の感触が鮮明に脳へ伝わり、浩之の身体はただの歩行動作とは思えないほどの超高速の軌道を描いて前方に射出された。
「なっ……!?」
背後でレイアが驚愕の声を上げる。だが、その声が耳に届くよりも早く、浩之の距離詰めは完了していた。
群れの最前線に陣取っていた一匹のスライムの懐に滑り込み、浩之は素手でその半透明の頭部を叩きつける。
武器ですらない、ただの掌底だ。しかし、隠しパラメータとしての『膂力:80』の補正が乗った一撃は、物理法則を無視した衝撃波となってスライムのゼリー状の体躯を粉砕した。
ぽんっ、と軽い破裂音を残し、スライムの姿が光の粒子となって霧散する。
残された六匹の群れが一斉にピクリと動きを止め、恐怖を覚える暇もなく次の標的へと触手を向けた。
「おい、見ておけ」
浩之は振り返ることなく、背後の少女へと声を飛ばす。
「これが、数値の暴力ってやつだ」
二匹目が跳んできた。その軌道を俊敏の補正で完全に看破し、浩之は身を屈めて鮮やかにかわす。
足元に転がっていた小石を鋭く蹴り飛ばし、残りの群れのバランスを完全に崩してみせた。
圧倒的な手数と、数値の暴力。
レトロゲームのシステムという枷に縛られたこの世界において、外部からダイブしてきた浩之の存在は、まさに想定外の例外処理そのものだった。
草むらに吹き抜ける風の中、浩之の冷徹な害獣駆除は、次々と群れを更地へと変えていく。
「――ふぅ」
およそ戦闘とは呼べない、一方的な蹂躙――もとい害獣駆除が終わる頃には、足元に散らばっていた七匹の水色の体躯はすべて光の粒子となって消え失せていた。
草むらは元の静けさを取り戻し、吹き抜ける風が汗ばんだ肌を心地よく撫でる。
浩之は小さく息を吐き出し、軽く拳を握って筋繊維の感覚を確かめた。
『俊敏:70』と『膂力:80』の補正値は、現実の肉体とは比較にならないほどの爆発的な出力を叩き出してくれたが、逆に言えば、身体の制御を少しでも誤れば、自分の重い出力に肉体が振り回されかねない危うさも孕んでいる。
「……こんなところか」
呟きながら振り返ると、少し離れた場所でレイアが地面にへたり込んだまま、あんぐりと口を開けて固まっていた。
彼女の脳裏で、先ほどまで「一歩街の外に出ただけで死にかける絶望の難易度」として君臨していたはずのスライムの群れが、わずか数秒で素手と足技によって更地にされた現実と、まだうまく結びついていないらしい。
「な、に……今の……?」
上擦った声で、レイアが震える指先を浩之に向ける。
「手品? ううん、魔法……? でも、そんな無詠唱のスキルなんて聞いたことないし、そもそも武器も使わないで……一瞬で七匹も……っ!」
「……俺のほうがちょっとパラメータが高いだけだ。気にするな」
浩之は軽く肩をすくめ、足元に落ちていた微小な光の結晶――魔物が落としたドロップアイテムを拾い上げる。
そして、まだ地面に座り込んでいる少女へと歩み寄り、再びスッと手を差し出した。
「立てるか?」
「あ、うん……」
レイアは恐る恐るその掌に自分の小さな手を重ね、浩之の力に引かれるようにしてよろよろと立ち上がった。
埃を払いながら、少女は複雑な色を浮かべた瞳で浩之を見上げる。
「あのさ、ヒロユキさん……」
「なんだ?」
「さっき、『仲間を集めたりしないのか』って言ったよね」
「ああ、言ったが」
レイアはキュッと唇を引き締め、握りしめていた青銅の剣の柄からそっと手を離すと、どこか吹っ切れたような、それでいて少し照れくさそうな笑みを浮かべて言った。
「……一人で外に出て、スライムの群れに囲まれて泣きそうになってたときは、本当にどうしようもなかったんだ。王様の言う通り、勇者は一人で戦うものなんだって思い込んでさ」
少女は小さく首を横に振る。
「でも、仲間っていっても……こういうことなのかな。二人いれば、なんとかなるもんだね」
その言葉を聞いた瞬間、浩之はわずかに眉を跳ね上げ、それから呆れたように小さく息を吐いた。
「仲間、か……まあ、綺麗事だけで生き残れるほど甘い世界じゃないが……」
浩之は視界の端にちらつくシステムウィンドウを一瞥し、前方の丘陵地帯へと再び目を向けた。
最初の群れを片付けたとはいえ、ゲームの設定はあっても現実である以上は、厄介なトラブルはこれから次々と起こるはずだ。
「一人で抱え込んで野垂れ死ぬよりは、マシな選択肢だろ。行くぞ、レイア」
「うん!」
返事をした少女の顔には、先ほどまでのどんよりとした陰りはなく、代わりに微かな希望の光が宿っていた。
ボロボロの旅衣を揺らしながらついてくる背中を見送りながら、浩之は静かに歩き出す。
二人体制となった異世界での勇者の修行は、こうして本格的な一歩を踏み出したのだった。




