第32話:魔法の届かない場所
竜爪山の荒涼とした岩肌から一転、商業都市バレルの喧騒が三人を包み込んだ。
ワイバーンという強大な脅威を打ち倒し、目的の『竜血花』を無事に持ち帰ったレイアとミナ。二人の足取りが軽い理由は、報酬だけではない。自分たちの手で、誰かの命を救えるかもしれない。その期待が、表情から伝わっていた。
「はぁ……終わった……本当に、終わりました……」
ミナが石畳にへたり込みそうになりながら、深く息を吐く。レイアは腰の鉄の剣を鞘に収めながら、まだ興奮の抜けきらない顔で笑っていた。
「いよいよですね、師匠! ワイバーンの急降下、本当に死ぬかと思いましたけど……でも、あの花、綺麗ですよね。これであの伯爵様の令嬢さんも、きっと良くなりますよ!」
「ええ。伝説の薬草なら、きっとセリアさんを救えるはずです!」
無邪気に笑う二人を横目に、浩之は「ああ」と短く返すに留めた。
インベントリの中に保管された真紅の花。ゲームなら、ギルドの窓口でアイテムを納品し、報酬を受け取ってイベントクリアとなる場面だ。
バレルに帰還した三人は、まず規定通り冒険者ギルドへと足を運んだ。
窓口で依頼達成の報告と『竜血花』の現物を示すと、ギルド内は一時騒然となった。ワイバーンの巣からの生還は、それほどの偉業だったからだ。
だが、通常の依頼のようにその場で報酬が支払われることはなかった。
「ヴァルハイト伯爵様から、依頼を達成した方には直接お会いして礼を言いたいと申し付かっております。報酬の金貨五十枚も、屋敷にて直接お渡ししたいと」
ギルドからの案内を受け、三人が向かった先はバレルの中央区に位置するヴァルハイト伯爵邸だった。
高く堅牢な石壁と美しい庭園に囲まれた見事な屋敷。出迎えた初老の執事は、三人をすぐに豪華な応接室へと通した。
やがて現れたヴァルハイト伯爵の顔には、長年の心労が刻まれていた。そこにあったのは、貴族としての威厳よりも、一人の父親としての疲れだった。
「おお……! これが、竜爪山の……!」
浩之がインベントリから取り出した竜血花をテーブルの上に置くと、伯爵は震える手でそれを見つめた。
「よくぞ、よくぞ持ち帰ってくれた……! ワイバーンの巣に咲くなどという絶望的な条件、半ば諦めかけておったのだ。約束通り、報酬はすぐに用意させよう。これで、ようやく娘が……セリアが救われる……!」
長年苦しみ続ける娘を救う最後の希望として、竜血花を前に深い感謝と期待を見せる伯爵の姿に、レイアとミナも胸を撫で下ろし、嬉しそうに顔を見合わせた。
「すぐに薬師を呼び、これを煎じさせよう。どうか貴方たちも、娘の快方へ向かう姿を見てやってはくれまいか。恩人として、ぜひ娘に会ってやってほしい」
伯爵の案内に従い、三人は屋敷の奥深く、日当たりの良い大きな窓がある一室へと通された。
(魔力異常……呪い……何か特殊な状態異常でもあるのかと思っていたが)
浩之は扉の前で一瞬だけ足を止め、部屋の中へと視線を向けた。
清潔な白いシーツに包まれた豪奢なベッド。そこに、ヴァルハイト伯爵の愛娘であるセリアが静かに横たわっていた。
レイアと同じか、少し年上くらいの十六、七歳ほどの年頃だろう。透き通るような白い肌と、美しい金糸の髪。だが、その身体はひどく痩せ細っていた。分厚い掛け布団の下にあっても、長い闘病生活による衰弱は隠せない。
そこにいたのは、魔物に呪われた存在でも、邪悪な力に蝕まれた存在でもない。ただ静かにベッドの上で横たわる一人の少女だった。
「セリア、起きておるか。お前を救ってくれる恩人の方々だ」
伯爵が優しく声をかけると、ベッドの上の少女がゆっくりと目を開けた。瞳はしっかりとこちらを見ていて、意識は明瞭だった。
「……ようこそ。遠い山まで……私のために……」
言葉は途切れ途切れだったが、はっきりとした意志を持っていた。呼吸を整えるための小さな間があり、それから続きが紡がれる。
「ありがとう、ございます。本当に……」
レイアが涙ぐみながら「絶対に良くなりますから」と手を握ろうとし、ミナも杖をぎゅっと抱きしめて深く頷く。
ゆっくりと言葉を交わすその姿には、一人の人間としての気遣いや、心からの感謝が宿っていた。
浩之は少し離れた位置から、ただ静かに少女を見つめていた。
やがて、屋敷のお抱えである年老いた治療師が、竜血花を薬研ですりつぶし、香油と混ぜて煮出した薬湯を銀の杯に入れて運んできた。
部屋の空気が、期待と緊張でピンと張り詰める。レイアは祈り、ミナは固唾を飲んで見守る。
「さあ、セリア。伝説の薬草だ。これを飲めば、すぐに体が動くようになる。また庭を散歩できるようになるぞ」
セリアは小さく頷き、差し出された薬湯をゆっくりと飲み下した。
ワイバーンとの死闘で掴み取った勝利の証。奇跡が起きる瞬間を、誰もが待っていた。
「では、様子を見ましょう」
一分、二分と時間が経過する。
部屋の中の誰もが、セリアの頬に赤みが戻り、指先が力強く動くのを待っていた。
しかし――結果は、何も起きなかった。
傷が塞がるでもない。輝く光が少女を包むでもない。ただ静かに薬が飲み下され、部屋に沈黙だけが降りた。
「……あ、あの……」
レイアが不安げに口を開く。ミナも祈るように少女の顔を覗き込んだが、そこに変化はない。
「……ごめんなさい。私も、期待していたんですけど……」
セリアが、逆に気を遣うように小さく笑った。
その瞬間、浩之は思わず視線を逸らした。
治らないことを本人が一番理解している。それでも、無理に笑って自分たちに感謝している。その事実が、妙に浩之の胸を締め付けた。
娘の言葉に、伯爵の顔から血の気が引いた。
「そんなはずはない! 竜血花だぞ、どんな傷も毒も癒すという伝説の……! 治療師、どういうことだ! 効き目が現れるのが遅いだけか!?」
詰め寄る伯爵の怒号に、治療師は額から冷や汗を流しながら首を激しく横に振った。
「お、おかしい……竜血花は外傷にも毒にも、絶大な効力を発揮する霊薬のはずです。脈拍にも、魔力の流れにも、一切の変化が見られませぬ。信じられません、なぜ何も……」
治療師が震える声で告げる事実が、部屋の空気を絶望へと塗り替えていく。
長い年月、娘を救う方法を探し続けてきた父親の疲れが、その背中から滲んでいた。
伯爵は娘の手を握ったまま、震える声で呟いた。
「父さんは……また、お前を救えなかった……」
その声には、貴族としての威厳も、当主としての強さもなかった。
ただ、一人の父親としての絶望だけがあった。
「嘘……そんな……」
レイアの口から、掠れた声が漏れた。
祈るように組まれていた手が力なく解け、震える。
誰もが絶望に押し潰されそうになっていたその時――ベッドの上のセリアが、途切れ途切れに、けれどはっきりとした声で言葉を紡いだ。
「……泣かないで、ください。治らなかったとしても……私のために、命を懸けてくださった人がいたことを、私は忘れません……。本当に……ありがとうございました……」
苦しい息の下から絞り出されたのは、怨嗟でも失望でもなく、自分たちのために戦ってくれた者たちへの、心からの感謝だった。
レイアは唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えて深く頭を下げた。
浩之もまた、胸の奥に重いものを感じていた。
(なぜ、効かなかった?)
悔しさや無力感を押し殺すように、浩之はもう一度セリアを見る。
言葉を発するまでの間。
呼吸の使い方。
身体の動かし方。
身体の機能が、少しずつ失われていく病気。
昔、テレビで見た難病特集の患者と、その家族の姿が頭をよぎった。その時は詳しく理解していたわけではない。ただ、「昨日できたことが、少しずつできなくなる」という言葉だけが妙に印象に残っていた。
目の前の少女の姿が、それと重なった。
(これは……呪いや魔力異常じゃない。じわじわ進んでいく難病なのかもしれない)
もしそうだとしたら、回復魔法や伝説の薬草が効かない理由も説明がつく。
竜血花が治せるのは、外部から身体に加えられた異常だ。
毒を消す。
傷を塞ぐ。
失われたものを補う。
だが、身体を動かす根本的な仕組み――いわば設計やシステムそのものが壊れているなら、それは「修復」とは別の問題になる。
地球でも治療法が見つかっていない難病が存在するなら、この世界の魔法にも届かない領域があっても不思議ではない。
今回の依頼は、失敗したわけではない。
竜血花は手に入れた。ワイバーンも倒した。報酬条件は満たしている。
それでも、目の前の少女は救われなかった。
ゲームなら、ギルドで『依頼達成』の表示が出て終わる場面だ。
だが、依頼を達成することと、人を救ったことは、同じ意味ではなかった。
分かっていたつもりだった。
だが今回、初めて本当の意味で理解した。ここにいるのはHPバーも状態異常アイコンも持たない、血を流し、老い、病に苦しむ本物の生命だ。
◇
伯爵邸を辞去した後、大通りに出るまでの間、誰も口を開かなかった。
「……私……頑張ったのに」
先に沈黙を破ったのはレイアだった。
「あんなに危ない思いして、ワイバーンとも戦って……それなのに、何にもならなかったなんて……」
俯く彼女の声は、震えていた。命懸けで掴んだはずの成果が、目の前で無に帰したように見えている。
浩之はすぐには答えなかった。
今のレイアが見ているのは、失敗した依頼の結果ではない。自分の剣では誰も救えなかったという事実だと、理解していたからだ。
「無意味じゃない」
浩之は短く、静かな声で答えた。
「花を届けたのは事実だ。ワイバーンを倒したのも事実だ。誰かを救おうとしたことも、消えてない」
「でも、結果は出なかったじゃないですか……!」
「ああ」
浩之はそこで初めて、少し考えるように間を置いた。
「努力すれば必ず結果が出る。そんな都合のいい仕様は、この世界にはない。……お前がやったことの価値は、結果とは別のところにある」
慰めにしては素っ気ない言葉だったが、レイアはそれ以上何も言わず、ただ唇を噛んでいた。
ミナは少し離れた場所で、自分の杖を見つめていた。
「私……魔法が万能じゃないってこと、初めて実感しました。攻撃も回復も、届く場所と届かない場所があるんですね」
「魔法が弱いわけじゃない」
浩之が振り返る。
「届かない場所が、最初から存在するだけだ」
浩之にとって今回の事件は、今までの経験則が通用しない現実との遭遇だった。
「……この世界は、ゲームじゃない」
ゲームのルールだけでは理解できない、理不尽も限界も存在する。
浩之は、心の中でその事実を完全に認めた。
◇
宿に戻ってからも、浩之の思考は止まらなかった。
ゲームなら、竜血花を届けた時点で『依頼達成』のウィンドウが出て、イベントは終了していたはずだ。
だが、この世界では、その先にも彼女の人生が続いている。
ベッドの傍らで娘の手にすがりついて咽び泣いていた伯爵の姿が、浩之の脳裏に焼き付いている。
だが、それ以上にセリアの言葉が、浩之の中に強く残っていた。
『治らなかったとしても……私のために、命を懸けてくださった人がいたことを、私は忘れません』
治らないことを理解している者の静かな強さと、それでも誰かへの感謝を忘れない優しさ。
あの言葉がなければ、レイアは自分の剣が何も救えなかったという事実だけを抱えていたかもしれない。
あんなふうに笑って感謝を告げる少女を前にして、「依頼達成だから終わり」と切り捨てることは、浩之にはできなかった。
(……なら、残る手はなんだ)
この世界の魔法で無理で、現代地球の医療でも難しいなら――ならば、残る可能性は一つだ。
浩之の脳裏に、現代ではまだ実現していない未来技術への可能性が浮かんだ。
もし、その技術を応用できる方法があるなら。
確証などどこにもない。ただの思いつきに近い仮説だ。自分でも救えないかもしれない。
それでも――
試す価値はある。
◇
翌朝、宿の食堂でレイアとミナに向き合った浩之は、いつも通り前置きなく切り出した。
「しばらく、別行動を取る」
「……え?」
レイアの箸が止まる。ミナも目を丸くしてこちらを見た。
「確証はない。だが、試す価値がある可能性を一つ見つけた。今の知識では届かない答えがあるかもしれない。それを探ってくる」
「それって……あの子のための、ですか?」
「ああ」
短い返事だった。だが、レイアはそれ以上詳しく問い詰めなかった。浩之が「試す価値がある」と言うときは、大抵、根拠のない気休めではないことを、この数か月でよく知っている。
「……分かりました。師匠を信じます」
「私が弱いから置いていく、って意味じゃないですよね? 準備のためですよね。分かってます」
ミナが杖を握りしめながら、無理に笑って見せた。浩之は二人の顔をまっすぐに見据えて言った。
「お前たちは、この街で訓練を続けろ。ここまで積み上げたものを止める必要はない」
「はい。……必ず、戻ってきてくださいね」
レイアの声に、いつもの茶化すような響きはなかった。
「ああ」
浩之は短く答えた。
◇
宿屋の自室に戻った浩之は、ベッドの端に腰掛け、しばらく天井を見つめていた。
(クエストでもないのに、特定の病気を治す手段を探すか……)
考えても、都合の良い答えがすぐに届くものではない。だが、少なくとも探すべき方向だけは見えていた。
浩之は深く息を吸い込み、意識を集中させた。
(――『ログアウト』)
視界が白く塗りつぶされていく。
ふっと目を開けると、そこは久しぶりに戻る現代日本の自室だった。
古びたアパートの天井、レトロなゲーム機、そして希望となるか……ゲームカートリッジと、未来技術への漠然とした期待。
静まり返った部屋の中で、新たな旅が始まろうとしていた。
【セリアより】
みなさま、はじめまして。セリア・ヴァルハイトと申します。
この物語をここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
まずは……ヒロユキさん、レイアさん、ミナさん。命懸けで竜血花を持ち帰ってくださって、本当にありがとうございました。
せっかく皆さんが届けてくださったのに、お薬が効かなくて……期待して読んでくださっていた読者のみなさまをがっかりさせてしまって、本当にごめんなさい。
でも……本編から離れて、この「あとがき」という場所に出てきてみて、今ものすごくびっくりしています。
病室に来てくださった時、ヒロユキさんは後ろの方でずーっと黙っていて、私には一言も話しかけてくださらなかったのに……
翌朝、宿の食堂でレイアさんに「あの子のための、ですか?」って聞かれて、ぶっきらぼうに「ああ」って答えて……
その足で、世界の壁を越えて別の世界に行っちゃったんですか……!?
あんなに無口だったのに、裏でそんな途方もないことになっていたなんて、本編のベッドの上にいた時は夢にも思いませんでした……!
……ただ、第4話のルミナ王女様から、
『セリアさん、気をつけて。あの男の人、助けてくれた後は二度と本編で触れてくれなくなるわよ……!』
という恐ろしい噂を聞いてしまいまして、今とても震えています……!
ヒロユキさん、別の世界で寄り道したり、アイテム集めに夢中になって、私のこと忘れたりしないでくださいね……!? ちゃんと待ってますからね……!?
ヒロユキさんの新しい冒険の無事と、いつか私の病気が治って青空の下をお散歩できる日を願って、もしよろしければブックマークや評価の★で応援していただけると嬉しいです。
どうかよろしくお願いいたします……!
セリア より




