第12話:勇者の魔法
木々の間から差し込む光が、落ち葉の敷き詰められた地面に柔らかい斑模様を描いていた。
湿った森の匂いは変わらない。だが、周囲を漂う空気の重みは、昨日足を踏み入れた森林地帯の奥深くに比べれば、遥かに穏やかだった。
「……あの、ヒロユキさん? なんでまた最初の場所に戻ってきたんですか? このあたりのスライムなら、今の私でも剣で……その、なんとか戦えますけど」
疑問深そうに首を傾げるレイアを横目に、浩之は足を緩めず歩き続ける。
昨日はオーク戦と《ヒール》の検証を終えて無理せず宿へ戻り、体を休めた。わざわざ今日、安全なこの浅エリアまで戻ってきたのは、もちろん理由があってのことだ。
「今日はお前のトレーニングだ。レイア、お前の『勇者』という職業だが……俺の知っているルールと同じなら、万能型だ。剣だけじゃなく、回復や補助系の魔法を覚える可能性が高い」
「は、はい。王様にも勇者と言われました……私が……?」
「胸の奥か脳裏に、引っかかるような言葉や感覚はないか? 自分の内に眠っている『力』をじっと意識してみろ」
浩之に促され、レイアはこめかみに手を当て、ゆっくりと目を閉じた。自身の身体の深いところへ意識を沈めていく。
すると――今まで気づかなかった胸の奥から、二つの見慣れない、けれどどこか懐かしい言葉が、脳裏にすっと浮かび上がってきた。
「ええと……《ピュアライト》と、《ピュアフレア》……? なにか、言葉みたいなものが頭に浮かびました……! これって……」
「やっぱりか」
周りに勇者がいないせいで自分の可能性にすら気づいていなかったが、浩之に教えられ、初めて意識を傾けたことで、身体に深く刻まれていたスキル名が脳裏に閃いたのだ。浩之の仮説通りだった。
「単に剣を振るうだけじゃない。少なくとも初期から回復魔法はあるはずだし、お前の今のレベルなら、小規模な攻撃魔法も解放されていておかしくない」
「えっ……!? でも私、魔法の教育なんて受けてないですよ? 難しい呪文も魔法陣の描き方も習ったことないのに……」
「教育を受けてないから、使い方のコツを知らないだけだ。スキルとして刻まれているなら、回路自体は最初からお前の中にある。……自分が使える魔法は認識できたな。あとは発動の感覚を掴むだけだな」
浩之は足を止め、レイアと正面から向き合った。
地球でこのゲームをやり込み、勇者の仕様を知り尽くしていたからこその推測だ。勇者でありながら魔法を使えずにいたのは、現実化した仕様の弊害――『使い方の自覚』が必要だったからではないか、という仮説が見事に当たった形だ。
「昨日、俺が《ヒール》を使った時の感覚を覚えているか?」
「は、はい……! 膝の傷に手をかざされた時、すごく温かくて、優しい光が染み込んでくるみたいで……」
「要するに魔法ってのは、魔力――体内のMPというエネルギーを意識で出力する作業だ。まずは自分の胸の奥にある熱を探してみろ」
「胸の……熱……?」
「そうだ。その熱を、じっくりと手のひらに集めるイメージを持つんだ」
レイアはゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりと両目を閉じた。
すーっと深く息を吸い込み、自分の心臓の鼓動、血のめぐり、そしてもっと深い場所にある何か未知の温かみに意識を集中させていく。
昨日、浩之の手から溢れ出た柔らかな青白い光。自分の痛みが一瞬で消え去り、引きつっていた筋肉が解けていったあの心地よい手応えを、必死に頭の中で再現しようと試みる。
「……う、うん……? なんか、胸のあたりがぽかぽかしてきて……これを、手先に……っ」
レイアがぎゅっと両拳を握り締め、力任せにその熱を押し出そうとした、その瞬間。
ふっ……。
手のひらに一瞬だけ集まりかけた微かな光の粒が、パチンと弾けるように霧散してしまった。
「あ……あれ……?」
レイアは目をパチパチとさせ、すっかり冷たくなった自分の手を見つめて肩を落とした。
「やっぱり……ダメです……。私には魔法の才能なんて……」
「力みすぎだ」
浩之は冷ややかな、しかし冷静な声でレイアの言葉を遮った。
「押し出すんじゃない。無理に力を込めれば回路が収縮して、流れるはずのMPが途切れる。川の水門をそっと開けるのと同じだ。体の中で温まったエネルギーを、肩から腕を通し、手のひらへ自然に流し込め」
「押し出さないで……水門を開けるみたいに流す……」
浩之の具体的かつ客観的な指摘を受け、レイアはもう一度深呼吸をした。
先ほどのように全身に力を入れるのをやめ、肩の力をふっと抜く。胸の奥で燻る温かな熱量を、静かな小川の水流のように、腕の管を通して指先へと滑らかに滑らせていく。
――じわ。
今度は違った。
レイアの重ね合わせた小さな手のひらの隙間から、漏れ出すように淡い光が灯り始めた。先ほどのように弾けて消えることはない。柔らかく、陽だまりのように確かな光の球体が、彼女の手の中で穏やかに揺れている。
「集まってきたな。そこへ発動の意思を重ねろ。さっき確認した魔法名だ」
「……っ! 《ピュアライト》……!」
じわぁぁぁっ……!
レイアの澄んだ声に応えるように、手のひらの光が一気に膨れ上がり、温かな波動となって彼女自身の全身を包み込んだ。
怪我のない身体に柔らかな光が染み込んでいき、身体の底からじんわりとした充足感が湧き上がってくる。
「つ、ついた……! 光ったよヒロユキさん! 温かいのが、体の中を通っていった……!」
レイアは飛び上がらんばかりに目を見開き、自分の手を何度も裏返して確認した。
溢れ出る喜びに頬を上気させ、浩之の顔を見上げる。しかし、ハッと我に返ったように首をかしげ、不思議そうに目を丸くした。
「えっ……でも、ヒロユキさん!? 普通、魔法って『大いなる光の女神エルミナ様、我が手に癒やしの恵みを……』みたいな、長い呪文を唱えなきゃダメですよね!? 私、名前しか言ってないのに……!」
「お前のはシステムに直結したスキルだからな。無駄な長文の詠唱プロセスは免除されている」
何でもないことのように淡々と言い捨てる浩之に、レイアは口をぽかんと開けた。聞き覚えのない単語とあまりの規格外さに、思考が追いついていない様子だ。
「しすてむ……? そ、そんなのアリなんですか……!?」
「まあ、成功だな。それが勇者の基本回復スキルだ。今のところ仮説だが、俺の使った《ヒール》とは発動の系統が少し違うらしい。少なくとも、回復という結果は同じようだな」
浩之の冷静な分析を聞くうちに、レイアの胸の中にじんわりと実感が広がっていく。常識外れのやり方ではあっても、自分が間違いなく魔法を成功させたのだという感動が、遅れて押し寄せてきた。
「すごい……すごいです! 私にも、回復魔法が使えた……!」
感動に震えるレイアの姿を見つめながら、浩之は淡々と問いかけた。
「さて、次は本題の検証だ。レイア、自分の体内の魔力――MPを意識してみてくれ。今の《ピュアライト》でどのくらい減った感覚がある?」
浩之の問いに、レイアは胸にそっと手を当てて自分の内側に意識を傾けた。
「ええと……胸の奥の熱が、ほんのちょっと減った気がします。全体からしたら……二割くらい消費したような……」
「自分の魔力量を感覚的に捉えられているのは優秀だな。最大量を12とするなら、消費量は2前後か。なら残りは10だな。そして……」
浩之は自分の顎に手を当て、思考を整理するように続けた。
「さっきお前が感じ取ったもう一つの《ピュアフレア》は、光の刃を飛ばす小規模な攻撃魔法だ。だが、喜ぶ前に頭に入れておくべき数値がある」
浩之は指を二本、そして三本と立てて見せた。
「基本攻撃魔法の想定消費MPはおよそ『4』だ。つまり今の残り魔力なら『2発』、満タンでも『3発』が限界ということになる」
「さんぱつ……だけ……?」
「そうだ。MPは有限の力だ。底を突けば一切使えなくなる。基本は剣で戦い、魔法はここぞという時の切り札にしろ。常に『MPが尽きる前に勝つ算段』を立てて動くんだ」
浩之の相変わらず現実的で細かいリソース管理の講義に、レイアは一瞬だけ苦笑いを浮かべた。しかし、浩之の言う「数値」と「理屈」が、自分たちの命を守るための絶対的な基礎なのだと、彼女はすでに理解していた。
レイアはぎゅっと拳を握り直し、凛とした表情で頷いた。
「はい……っ! 覚えておきます、ヒロユキさん!」
――ガサガサッ。
その時、前方の低い茂みが不自然に大きく揺れ動いた。
落ち葉を踏み鳴らす独特の重苦しい足音とともに、ぬめり気を帯びた半透明な水色の球体が、茂みを押し分けて姿を現す。
王に言われて旅立った初日、レイアを恐怖のどん底に突き落とし、手も足も出ずに逃げ惑うしかなかった魔物――スライムだ。それも一匹ではない。左右の木陰から這い出し、合計三匹のスライムが、獲物を認識してじわじわと間合いを詰めてくる。
「グニュ……ッ、グジュ……」
気味の悪い粘液音を立てながら、三匹のスライムが横一列に並び、表面を波立たせて威嚇するように身体を収縮させた。
「来たな」
浩之は慌てる様子もなく、すっと一歩退いてレイアの背後へと位置取った。
「今のレイアなら、素の身体能力と剣技だけでも十分に処理できる相手だ。だが……試してみるか?」
「…………っ」
怖くないわけじゃない。目の前で脈動する生臭い粘液の塊は、かつて自分を逃げ惑わせた恐怖そのものだ。
だが――背後には圧倒的な冷静さで自分を守り、導いてくれる浩之がいる。そして何より、自分の身体の中には、彼が教えてくれた「魔法」という確かな力が巡っていた。
(大丈夫……! 私はもう、ただ震えているだけの私じゃない……!)
レイアは青銅の剣を引き抜かず、構えだけを低く保った。
体内の奥底に流れる熱量を、腕の回路を通して右手のひらへと滑らかに滑らせていく。
(消費MPは予想で4前後……残りは10。ここで一発使っても、まだ6は残る。なら、出し惜しみはしない……!)
三匹のスライムが一斉に地面を蹴り、空中へと跳ね上がった。粘液の身体を蠢かせ、レイアへと迫る。
迫る恐怖を真っ向から見据え、レイアは右手を前方へとかざした。
手のひらに集束した光が、鋭利な刃の形状――扇状の閃光へと形を変えていく。
「いっけぇぇぇーーーっ!! 《ピュアフレア》っ!!」
シュパァァァンッ!!
森の静寂を切り裂き、眩い光の波が空間を疾走した。
レイアの手元から解き放たれた光の刃は、空中で扇状に大きく広がりながら直進する。
ドガァァンッ!!
一匹目のスライムの核を正面から真一文字に切り裂き、その勢いのまま貫通。背後にいた二匹目、さらには三匹目のスライムの巨体をも一瞬にして巻き込み、真横から一刀両断になぎ払った。
「グガッ……!?」
絶叫に似た潰れた音を残し、三匹のスライムは核を粉砕され、粘液の身体を一瞬で膨張させたかと思うと、パンッと弾けて光の粒子へと変わった。
散らばった光の粉が、木漏れ日の中に溶けるように消えていく。
あとに残されたのは、静まり返った森の静寂と、微かに漂う焦げた空気の匂いだけだった。
「つ……倒した……?」
レイアは、光を放った自分の右手をぼうぜんと見つめた。
右手のひらはまだほんのりと温かく、微かな光の余韻が残っている。
かつて逃げ回るしかなかったスライムの群れを。
自分一人の力で、たった一撃で消し去ってしまったのだ。
「私が……自分の魔法で……倒した……っ」
ジワリと、視界が熱いもので滲んだ。
恐怖の涙ではなく、胸の奥から込み上げてくる溢れんばかりの達成感と感動。自分の手で運命を切り拓いたという実感が、震える身体を力強く満たしていく。
カツ、カツ、と静かな足音が近づいてきた。
浩之がレイアの隣に並び立ち、散らばった光の粒子が消えていった地面を見やってから、視線を落とした。
「見事な広域攻撃だ。発動のタイミングも、巻き込みの角度も申し分ない」
「ヒロユキさん……」
「初めてにしては十分だ。よくやったな、レイア」
淡々としてはいるが、そこには確かな肯定と、教え子に対する評価の響きがあった。
「ふえ……っ、あ、ありがとうございます……っ!」
レイアは袖口で必死に目元を拭い、照れくさそうに鼻を鳴らした。
しかし、浩之はそこで甘い言葉だけで終わらせる男ではなかった。
「で、体内の魔力の感じはどうだ? 残りはどれくらいだ?」
「えっ? あ……半分くらい、6くらい残ってる感覚です」
「予想通り消費量は『4』だったな。今回は三匹が綺麗に横一列に並んでくれたから一発で済んだが、もし分散して襲ってきていたら二発消費していた。そうなれば残りは『2』となり、次の戦闘で《ピュアフレア》は撃てなくなる。常に『次』の状況を計算しておけよ」
「〜〜〜っ! もうっ! ヒロユキさん!!」
さっきまでの感動的な雰囲気を一瞬で台無しにされ、レイアは頬をぷくっと限界まで膨らませて抗議の声を上げた。
「そこは素直に『すごかったぞ』だけで終わらせてくれてもいいじゃないですかー! なんで毎回毎回、テストの採点みたいな反省会がセットなんですか!?」
「事実をフィードバックしているだけだ。反省と改善のない成功体験は、次の失敗のもとだからな」
「うぅ……正論だから言い返せないのが一番悔しい……っ!」
地団駄を踏んで悔しがるレイアだったが、その表情には以前のような悲壮感や怯えは欠片も残っていなかった。
浩之の言葉は一見すると冷たく厳しく聞こえるが、その根底にあるのは「レイアを絶対に死なせない」という、徹底した合理的で誠実な配慮なのだと知っているからだ。
「行くぞ。MPの自然回復速度のデータを取るため、一旦街へ戻る」
すれ違いざま、浩之の大きな手がレイアの頭にポンと置かれ、乱暴に髪をひと撫でしていった。
「……! あ、もうっ! 最初からそうやって素直に褒めてくれればいいのに!」
くしゃくしゃになった前髪を整えながら、レイアは嬉しさを隠しきれない顔で、歩幅の大きい彼の背中を小走りで追いかけた。
ふと、自分の腰に下がっている青銅の剣と、先ほど光を放った右手を見つめる。
――私にも、戦える。
――この力があれば、もう足を引っ張るだけの存在じゃない。
いつか、ただ後ろを守られるだけじゃなくて、この頼もしいおじさんの隣に少しでも近づけるように頑張ろう。
爽やかな森の風が吹き抜け、少女の髪を優しく揺らした。
レイアの心には、確かな誇りと、未来への温かな希望が満ち溢れていた。




