聖女は微笑む
ナイルは言った。
「あくまで噂なんですけど、こんな話があるんですよ」
パリスで、商人仲間と酒を酌み交わしていたときのことだという。
「最初は俺も信じなかったんだ……でも、聞けば聞くほど、これはただの噂じゃない、と」
仲間の中には、実際にその国へ商売に行った者もいた。話を重ねるうちに、作り話ではない、確かな事実だと感じたらしい。
※
舞台は大陸西端、山々に囲まれた小国の外れにある寒村。
そこに住む少女マリアは、普段は大人しく、誰かの後ろについて回るような子だった。
だが、ある日。
村の広場で、彼女は突然叫んだ。
「私こそが、真の聖女だ!」
村人たちは嘲笑し、ひそひそと囁き合った。
「おい、あの子、気でも狂ったのか?」
マリアは怯まない。空を指差し、静かに告げた。
「それでは奇跡をお見せしましょう。雨を降らせます」
晴れ渡っていた空から、にわか雨が落ちてきた。
最初は一粒、次いで無数の雨粒が広場を叩く。
ざわめきはやがて沈黙に変わり、村人の目には、恐怖と畏敬が入り混じった光が宿った。
さらにマリアは言った。
「あなたの家の娘。原因不明の病で伏せていますね。診ましょう」
止めに入った大人を吹き飛ばし、扉を破り、マリアは病床の娘の前に立つ。
祈りを捧げると、柔らかな光が部屋を満たした。
「目覚めなさい。もう治りました」
娘は目を覚まし、ゆっくりと身を起こす。
「夢みたい……どこも痛くない。ありがとう……」
マリアは告げた。
「今日から、あなたは私の従者よ」
その娘は、後に従者となるミケだった。
「はい。貴女に従います」
病から救われたその瞬間、彼女は心の底からマリアに従うことを決めたようだった。
命を救うだけでなく、人々の声を集める力がある。ミケは直感的にそう感じたという。
村人たちは、畏れと敬意を抱き、少女の言葉に従った。
マリアは奇跡を起こすだけでなく、大人と対等に話し、物事を判断するほど思慮深かった。
やがて噂を聞きつけた地主が様子を見に来る。
「聖女を名乗るとは不遜だ。領主様に突き出してやる」
マリアは静かに応じた。
「捕まえられるなら、従いましょう」
だが、地主の家来たちは一歩も動けず、その場に伏した。
奇跡の力が、彼らの動きを縛っていたのだ。
その後、マリアは小国の領主のもとへ案内された。
私腹を肥やすことしか考えない、太った中年の男だった。
「よく来てくださいました、マリア様。屋敷に部屋も用意しております」
取り込み、駒にするつもりだったのだろう。
だがマリアは屋敷に留まりながら、領民を治療し、裕福な者からのみ、わずかな対価を受け取った。
民は、奇跡だけでなく、公正さと慈愛に触れ、噂を口々に広めていく。
ある夜、領主は睡眠薬を使い、マリアを自分のものにしようとした。
だが寝室で待っていたのは、微笑むマリアと、すでに集められた警備隊だった。
警備隊は、民がマリアを支持する姿を見て、心を決めていた。
「残念でしたね。あなたのやり口はお見通しです」
隊長が告げる。
「領主様、賓客に対する行いとは思えません」
そして、その場で初めてミケが声を上げた。
「お前なんて、領主でもなんでもない。ただの盗賊だ!」
病に伏していた少女が、民の代弁者として断罪する。
その声には、命を救われた感謝と、聖女を守る正義が宿っていた。
マリアは静かに言った。
「牢に入れなさい。領主の資格は剥奪します。民を守れぬ者に、統治の名は与えられません。私が代行します」
あくまで代行としたのは、秩序を壊さず、民の混乱を避けるためだった。
「こんな小さな国で、贅沢のために民から奪うなど、許されません」
領主は一族ともども国外追放となり、資産は没収された。
彼女は『民を守る者』として国を治めた。
その噂は周辺国にまで届き、やがて「真なる聖女の国」と呼ばれるようになる。
小国ながら制度を改め、産業を育て、商いは活気づいた。
鼻の利く商人たちは、慣れ親しんだ交易路を変えたほどだ。
※
ナイルは机の上の水を、ごくりと飲み干した。
「まだ話は続きますが……」
「どう思う? リリカ?」
クルミが私に視線を向ける。
「とても詳しいわ。でも、どうしてかしら。ネタ元がある気がする」
眼鏡をくいっと上げるナイル。正解だ。
「実は、この本がパリスで出回ってまして……」
鞄から一冊の本を取り出す。
『真聖女 マリア 神に遣わされた天使』
美しい装丁の本だった。
「これがベストセラーで、飛ぶように売れているんです。しかも破格の安さで」
私は受け取り、ぱらぱらとめくる。
多くの挿絵、読みやすい文字、上質な紙。どれも一流だ。いや、最新の印刷技術に見える。
「いくら?」
「銀貨一枚です」
この時代、本は高価なものだ。特にパリスでは、成功者と知性の象徴でもある。
「プロパガンダね」
「どういうこと?」クルミは首を傾げる。
「マリアの人気を上げるために配られた本よ。偉業を感動的に書いてる。違う?」
「……否定できません。でも、読むと好きになりますし、尊敬もします」
もし、これが彼女自身の描いた戦略だとしたら。
とても厄介な相手だ。
奇跡など存在しない。すべて魔術だ。
高位の水魔術、拘束魔術、治癒魔術、耐毒。
話を聞いただけで想定できる魔術は多い。
しかも、その大半は、私には使えない。
「怖いのは……滲み出てくる頭の良さよ」
思わず、武者震いした。
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