10. 手を繋いで歩こう
もう少しで、競技本番。緊張はもちろん隠せないけれど、不思議と不安はない。
櫻木くんを信じれば、きっと大丈夫だから。
待ちに待ったこの日は、呆れるほどの快晴。
体調も良好だし、やる気も漲っている。
俺は必ず1位で早坂とゴールテープを切るんだと、決意していた。
「早坂、いよいよだな」
スタートラインに立つ直前、隣の彼女に声をかければ、意外にも楽しそうな顔をしていて驚いた。
「あはは、緊張し過ぎて飛び越えちゃった。櫻木くんとの特訓の成果を出せるように、精一杯頑張るね」
宣言してしまうと、気持ちも引き締まったみたい。櫻木くんは俺もそうだと同意するように頷いてくれた。
スタートの合図を待つ。
もはや、逸る鼓動の音しか聞こえない。
ドクン、ドクン、ドクン。
きっちり三拍目で、張り詰めた空気は破られた。
櫻木くんがグングンと私を引っ張ってくれるのがわかる。足がもつれそうになると、肩に回された腕が力強く支えてくれる。
時折こちらを気遣う眼差しは励ましに溢れていた。
早坂は一生懸命に俺について来てくれていた。隣を見やれば、いつだって笑顔で見上げてくれる。辛いだろうに、心配をかけさせまいとしているんだろう。
労りの言葉をかけようとした瞬間。
早坂が躓いた。
直感で、態勢を立て直してやるのは無理だと悟った。なら、せめて早坂に怪我をさせないように俺が下敷きにならなければ!
櫻木くんの気遣いが嬉しくて。二人でひとつになれているような一体感が心地良くて。
私はつい油断してしまったのだ。
イヤというほど慣れ親しんだ転倒の感覚に、今回ばかりは悔しくて涙が滲む。
ごめんなさい、と口を開きかけて、痛みを感じるほど強く肩を掴まれた。らしくない乱暴さに櫻木くんを見つめると、そこにはやはりらしくない切羽詰まった表情。
おかしい。
さっきまで私の眼前には茶色い土しかなかったはずなのに。
どうして櫻木くんがその間に割り込んでるの?
疑問と同時に私に触れたのは、熱く火照った男の子の身体。
ザザ、と地面を滑る鈍い音と、微かに立ち上る砂煙。
砂利で傷つけたのか、櫻木くんの頬には赤い一筋。
そのしっかりと私を抱え込んだ、両腕。
彼が私を庇ってくれたことを理解した。
きっと傾いだ身体を引き戻すには遅くて、ならばと自分を犠牲にしてくれたんだろう。
「ご、ごめ…ごめんなさ…」
あまりの献身に胸が詰まって、謝罪の言葉すらまともに言えない。
そうこうしている内に、櫻木くんは立ち上がろうと上体を持ち上げた。
後方からは私たちを次々追い抜く他のペアのかけ声。今からレースに戻っても、最下位は明らかだ。
櫻木くんは顔に切り傷を作っているのだし、このまま棄権して救護班の元に向かった方がいい。
そう提案しようとした私とは違って、彼はゴールだけを見据えていた。
くまなく早坂の全身を見回して、かすり傷さえどこにもないことを確かめる。
心底安堵して一瞬気がゆるんだが、すぐにまだ競技途中だと思い出す。謝ろうとしている早坂を遮って、彼女を立ち上がらせた。
だって、まだ終わってない。
「ゴールしないと意味がないだろ?この際、順位なんて関係ない。俺は、おまえと完走したいんだ!」
早坂の瞳が大きく見開かれ、やがて強く頷いてくれた。
ゴール目指して歩き出すと、声援や拍手が聞こえ始める。トップ故の歓声なら慣れているけど、励ましのエールは正直生まれて初めてだ。
照れ臭い気持ちになりながらも、これも早坂とペアにならなきゃ味わえなかったことだなと感慨深かった。
「なんだよ涼!ビリじゃんか。笑えるな!」
「転ぶなんて涼らしくないよなぁ」
「女子とペアだからって、緊張したんじゃね?」
あははは、と笑いあうクラスメイトたち。
どうやら観客席からは櫻木くんが躓いたように見えたらしい。誤解を解くために慌てて口を開こうとすると、勢いよく彼の手のひらで塞がれた。
「悪い!早坂が意外に二人三脚上手くてさ、俺がペースについていけなかったんだよな。でも最後のリレーのアンカーはばっちりキメるから、期待していいぞ!」
しかもなんだか話が捏造されてる!?
ふがふがする私を尻目に、彼は怪我の治療をしてくると告げると、当然のように私の手を引いて走り出した。
水飲み場で滲み出る血を一旦洗い流して、早坂が常備していた絆創膏を貼る。
ちゃんと消毒した方がいいと案じる早坂を宥めて、俺はまず彼女に謝罪することにした。
「ごめん、おまえを一位にしてやれなくて」
全く予想外の台詞だったらしく、早坂は一気に青ざめてぶんぶんと首を振った。
「なにを言って…!あれは私が転んだから!」
「練習初日に、俺はおまえが躓いても必ず支えるって約束しただろ?果たせなかったんだから、俺が悪いんだ」
早坂は俺の謝罪を受け入れる気はないようで、必死に言い募る。
「こんなに体育祭が楽しかったの、初めてなの!練習だって待ち遠しくて…だから、だから!全部櫻木くんのおかげだから、櫻木くんがいてくれたから…だから一位なんてなれなくていいの。謝らなくちゃいけないのは私なのに」
どうして?
どうして櫻木くんはこんなに優しいんだろう?
期待してもいいの?
その理由がただの運動音痴に対する同情ではない、って。
できるなら、その大きくて暖かな手にずっと導かれていきたいの。
想いが溢れ出しそうで、言葉を繋ごうにも喘ぐしか出来ない私を、櫻木くんはそっと抱きしめてくれた。
彼の体温を間近に感じて、恥ずかしいはずなのに、それ以上にその温もりに安心している私がいる。
櫻木くんの声が、耳のすぐそばで聞こえた。
「約束を守れなかったから言う資格なんてないと思ってたけど…、言ってもいいか?お前を助けたい理由」
それはずっと気になっていたこと。私は一も二もなく頷いた。
深い、深い深呼吸がひとつ。
「早坂が、好きだ」
びくんと身体が跳ね上がった。確かに聞こえたはずなのに、だけどその言葉を素直に受け止めるには自分に自信がもてなくて。
「私、トロ子なのに…?」
思わず聞き返してしまった。
櫻木くんは背中に回していた腕を緩めると、しっかりと目線を私に合わせてくれる。
彼の耳が真っ赤になっているのに気づいて、鼓動が早まった。
「最初は危なっかしいやつだなって、放っておけない気持ちで見てただけだった。だけどおまえがトロいなりに精一杯頑張ってるのに気付いてから、目が離せなくなったんだ。…俺が、おまえが転ぶのを阻止してたの知ってるか?」
首を振りながら思い出す。
躓く回数が減った訳ではないのに、日増しに少なくなった絆創膏。変化があったとすれば、櫻木くんによく会うようになったこと。
「いつのまにか、転ぶのを助ける度に見せてくれる満面の笑顔が病みつきになって、終いにはそれを独り占めにしたいって思うようになった。他のやつに支えてもらってるのを見るだけでムカついてさ…」
ばつが悪そうにそっぽを向く彼。耳の朱色はすっかり顔まで広がっている。
「おまえのことを助けるのは俺だけでいたいんだ。早坂の『ありがとう』を聞くだけで、心が満たされるから」
真面目な台詞にとうとう気恥ずかしくなったのか、いたずらっぽく彼は付け加えた。
「俺のストライクゾーンは、トロ子らしい」
照れ笑いを浮かべる彼を見て、今までの告白が優しく私に染み渡るのを感じた。
『どうして』なんて、もう言えない。
櫻木くんは、真実ありのままの私を見つめて、それでも好きだって告げてくれてるんだ。
「…返事、聞かせてくれよ」
呟きを耳にして、自分が彼になんの気持ちも返していないことに慌てた。
驚きと戸惑いが過ぎれば、残ったのは櫻木くんへの純粋な想いだけ。
ただそれだけを、彼に伝えればいい。
「私、きっと一生トロくさいと思うけど…。何度転んでも櫻木くんが手を差し伸べてくれるなら、どんな怪我をしたって立ち上がれる気がするの。…ずっと、そばにいてくれる?」
櫻木くんが緊張から解き放たれたように、ふわりと笑った。
「当たり前だろ?…でもひとつ訂正」
きょとんとする私の頭を撫でるその手。
「おまえに怪我させることなんてないから。これからは転ばないように、ずっとおまえと手を繋いで歩くよ」
頭上から私の右手に移った手のひらが、離れないようにと強く絡まる。
その温もりに、めまいがするほどの幸せを感じた。
不意に、校内に鳴り響くお決まりのメロディ。
内容は、最終種目であるクラス対抗リレーの参加者の召集だった。
「うわ、もうそんな時間か!」
そういえば櫻木くんはアンカーを任されていたはず。慌てて校庭に足を向ける彼が、言い忘れたと呟いて立ち止まると、私に宣言する。
「絶対一位になるから!ちゃんと見ててくれよ…、早坂のために走るからな!」
真っ赤に染まった顔を見せたくないのか、私の手を引いて勢いよく走り出す。
ぐんぐん速度が上がって、今まで味わったことのない風の感触に戸惑う。
だけど。
だけど、繋いだ手が離されることはないって確信できるから。
大丈夫、なにもこわくないよ。
何度躓いても、あなたが手を差し伸べてくれるって、私はもうわかっているから。
「櫻木くん、私ね…って、きゃあぁっ!」
「うわっ、早坂!?」
ああ、神様。
だけどやっぱり、私のトロくささは異常だと思うんです。
せめて何か『ある』ところで転びたい…、くすん。
fin.
ありがとうございました。
初投稿作品、無事完結いたしました!
思えば、スポーツ万能少年が『なんでこんなトロいやつが気になるんだ!』と、やきもきしてるシーンが思い浮かんだのが全ての始まりだったりします。
拙いものになると思いますが、次のお話も読んでいただけるように頑張ります!
ではでは。