第一話 最強になって帰ってきた
一年前。
桐生レンは、ダンジョンに置いていかれた。
「レン! 走れ!」
叫び声が響いた。
前を走る男が振り返る。
パーティーリーダーの神崎だった。
その向こうでは、巨大な石扉がゆっくりと閉じ始めている。
レンは走った。
背負っていた荷物は捨てた。
剣も捨てた。
腰につけていたポーションの袋まで投げ捨てた。
それでも間に合わない。
右足から血が流れている。
少し前の戦闘で噛まれた傷だった。
「待って!」
レンが叫ぶ。
「神崎さん!」
石扉の向こうには四人いた。
神崎。
魔法使いの美月。
斥候の戸塚。
盾役の大森。
この半年、一緒にダンジョンへ潜ってきた仲間たち。
誰か一人が戻ってくれれば間に合う距離だった。
レンにはそう見えた。
「無理だ!」
神崎が叫んだ。
「後ろ見ろ!」
レンは走りながら振り返った。
暗い通路の奥。
いくつもの赤い光が浮かんでいる。
目だった。
魔物の群れ。
二十。
三十。
もっといる。
ここは〈新宿第零ダンジョン〉地下六十一階。
当時の国内最深到達記録は五十八階だった。
出てくる魔物も、それまでとは桁が違う。
「閉めろ!」
戸塚が叫んだ。
「早く!」
「まだレンが!」
美月が石扉へ手をかけようとした。
神崎がその腕を掴んだ。
「全員死ぬぞ!」
「でも!」
「レン!」
神崎が叫んだ。
レンは走っていた。
石扉まで、あと二十メートル。
「悪い!」
その一言が聞こえた。
石扉が閉じる。
「待って!」
十メートル。
「待ってくれ!」
五メートル。
神崎と目が合った。
その直後。
石扉は完全に閉じた。
レンは扉へ両手をついた。
「……嘘だろ」
押す。
動かない。
「神崎さん!」
叩く。
「美月!」
返事はなかった。
代わりに、背後から音がした。
爪が石床を削る音。
唸り声。
荒い呼吸。
レンはゆっくり振り返った。
その映像は、日本中に配信されていた。
新宿第零ダンジョン攻略。
国内でも有数の探索者パーティー〈アーク〉による最深部挑戦。
同時視聴者数、十九万人。
レンの胸元についていた小型カメラも、石扉が閉じる直前まで映像を送り続けていた。
最後に映ったのは。
赤い目。
無数の魔物。
そして。
床へ落ちたカメラだった。
桐生レン、十九歳。
D級探索者。
死亡推定。
救助隊は翌日に編成された。
地下五十三階で撤退した。
二度目は五十六階。
三度目は五十九階。
誰も地下六十一階まで届かなかった。
それ以上の救助活動は、救助側の被害が大きすぎるとして中止された。
遺体は見つからなかった。
けれど、生存していると考える人間もいなかった。
それから。
三百四十七日が経った。
「今日は新宿第零ダンジョンの定期調査です」
女性探索者がカメラへ向かって話していた。
「先月確認された四十五階の地形変化について、協会から正式な調査依頼が出ています。今日は私たち第七調査隊が四十一階まで降りて――」
画面の端を、人影が横切った。
女性探索者が話を止める。
「……ん?」
コメントが流れ始めた。
《誰?》
《後ろ》
《なんかいる》
《入口から出てきた?》
《探索者じゃね》
カメラが動く。
新宿第零ダンジョン。
巨大な黒い門。
その奥から、一人の男が歩いてきていた。
裸足だった。
ズボンは何か所も破れている。
上着はほとんど原形を残していない。
髪は肩まで伸びていた。
頬には汚れがついている。
右手には黒い剣。
見たことのない形だった。
女性探索者が眉を寄せた。
「あなた、大丈夫ですか?」
男が足を止める。
眩しそうに空を見た。
「……外?」
「はい?」
「ここ、日本ですか?」
コメントが一気に増えた。
《???》
《何言ってんだ》
《遭難者?》
《深層から来た?》
《装備どうなってんの》
女性探索者が男へ近づく。
「お名前、分かりますか?」
男は少し考えた。
「桐生」
「桐生さん?」
「桐生レンです」
コメントが止まったように見えた。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間。
画面が文字で埋まった。
《は??????》
《桐生レン!?》
《待って》
《嘘だろ》
《一年前の!?》
《アークに置いてかれた奴!?》
《死んだだろ》
《本人?》
《顔見せて》
撮影していた探索者も固まっていた。
「桐生……レン?」
「はい」
「新宿第零ダンジョンで、一年前に行方不明になった……?」
「ああ」
レンが小さく頷く。
「たぶん、それ俺です」
「たぶん?」
「何日経ったのか分からなくて」
「何日って……」
女性探索者が言葉を失う。
レンは周囲を見回した。
ダンジョン入口。
道路。
ビル。
空を飛ぶドローン。
停車している協会車両。
どれも初めて見るもののように眺めていた。
「一年……」
レンが呟く。
「そんなに経ってたんだ」
同時視聴者数が増え始める。
二千八百。
四千。
一万。
三万。
切り抜きが作られる。
SNSへ流れる。
【速報 一年前に新宿第零ダンジョンで死亡した桐生レン、生還】
【行方不明探索者が突然帰還】
【最難関ダンジョン深層で一年間生存?】
通知を受けた人間が配信へ集まってくる。
五万人。
八万人。
十二万人。
「桐生さん」
女性探索者が恐る恐る尋ねた。
「どこから……来たんですか?」
レンがダンジョンを振り返る。
「どこって」
少し考える。
「一番下から」
「……一番下?」
「たぶん」
女性探索者の顔が引きつった。
「地下六十一階ですか?」
「もっと下です」
「六十二?」
「いや」
レンが首を横へ振る。
「百より下」
コメントが爆発した。
《は?》
《待て待て待て》
《百??》
《現在最高六十八だぞ》
《一年で単独攻略したってこと?》
《無理だろ》
《黒剣なんだよ》
《絶対なんか手に入れてる》
《これ覚醒イベントじゃん》
レンはコメントを見ていなかった。
配信されていることすら分かっていないようだった。
「とりあえず協会へ――」
女性探索者が言いかけた時だった。
黒い門の奥から、低い音が響いた。
地面が震える。
探索者たちの表情が変わった。
「離れて!」
女性探索者が叫ぶ。
調査隊が一斉に武器を抜く。
門の内側。
暗闇から巨大な前脚が現れた。
黒い毛。
一本一本が針のように硬い。
続いて頭部。
犬に似ている。
ただし大きさが違った。
頭だけで乗用車ほどある。
四つの赤い目。
二本の角。
口から黒い煙を漏らしている。
女性探索者の顔から血の気が引いた。
「アビスハウンド……」
A級危険指定魔物。
本来なら地下五十階より下でしか確認されない。
単独討伐にはS級探索者が推奨される。
「全員下がれ!」
「一般人を避難させろ!」
「協会へ緊急連絡!」
調査隊が動く。
レンだけが動かなかった。
アビスハウンドが門を抜ける。
道路へ前脚をついた。
アスファルトが割れた。
女性探索者がレンを見る。
「桐生さん!」
「はい」
「逃げて!」
レンはアビスハウンドを見た。
「ああ」
少しだけ困ったような顔をした。
「こいつ、ついてきたのか」
「知ってるんですか?」
「途中からずっと」
アビスハウンドが吠える。
空気が震えた。
カメラが揺れる。
周囲にいた人間が耳を塞ぐ。
レンは黒い剣を持ち上げた。
「桐生さん!」
女性探索者が叫ぶ。
「下がってください! それはA級――」
レンが剣を振った。
特別な構えはなかった。
魔法陣も出なかった。
光もしなかった。
ただ。
振った。
アビスハウンドの頭部が落ちた。
巨体が道路へ倒れる。
地面が大きく揺れた。
静かになった。
レンは黒い剣についた血を振り落とす。
「A級?」
女性探索者は答えられなかった。
レンが倒れた魔物を見る。
「これが?」
コメント欄も、一瞬だけ止まっていた。
そして。
《は????????》
《え》
《一撃?》
《アビスハウンドだぞ》
《S級でも普通に戦うやつだぞ》
《なんだこいつ》
《一年間何してたんだよ》
《覚醒してる》
《完全に主人公》
《見捨てられる→深層落ち→一年後帰還→最強》
《テンプレ全部乗せで草》
《アーク終わったな》
《神崎今どんな気持ち?》
《ざまあ始まるぞ》
《美月ってまだアークにいる?》
《黒剣絶対神器だろ》
《これ今年一番伸びる》
同時視聴者数。
二十一万人。
三十五万人。
五十八万人。
レンは何も知らない。
女性探索者に貸してもらったペットボトルの水を、不思議そうに眺めていた。
「これ、飲んでいいんですか?」
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます」
キャップを開ける。
一口飲む。
レンの目が少し大きくなった。
「うまい」
その場面まで切り抜かれた。
九十分後。
【一年前に見捨てられたD級探索者、最難関ダンジョンから帰還】
【桐生レン生存】
【アビスハウンドを一撃】
【一年間、最深部で何があった?】
【元仲間〈アーク〉へ批判殺到】
【桐生レンの黒剣を専門家が分析】
【英雄帰還】
関連動画は数千本。
総再生数はすでに1千万を超えようとしていた。
その配信を、コンビニの駐車場で見ている男がいた。
「……やべえ」
田中はスマートフォンを見つめた。
画面の中では、桐生レンが記者たちに囲まれている。
【奇跡の帰還者】
【一年前に見捨てられたD級探索者】
【最難関ダンジョンから生還した男】
再生数は、今も増え続けていた。
電話が鳴る。
「はい」
『見たか』
「見てる」
『判定は?』
田中は少し黙った。
桐生レン。
深層帰還。
未知の武器。
格上を一撃。
配信。
そして、日本中から向けられる期待。
「……もうすぐだな」
『何?』
「もうほぼ完成してる」
田中は立ち上がった。
『処理できるか』
「さあ」
スマートフォンをポケットへ入れる。
「とりあえず――」
車へ向かう。
「ぼちぼち殺すか」




