第13章 追跡救急車
『フランソワとワタルー二つの魂の宿る家系』 第三部 「なさねばならぬ」は、この章で、前編の終了です。
パタパタと廊下を走る音がした。薄いスリッパが床を叩く乾いた音が、静まり返った家の空気を切り裂く。その音で、俺は目を覚ました。
頭が重い。ソファーに沈んでいた上半身をゆっくり起こし、背もたれに手をついて座り直す。テーブルの上に転がっていたスマホを手に取り、画面を点けると、表示された時刻は朝の5時だった。
思ったより寝ていた。一度も起きることなく。そのせいか、頭の芯がシャキッとする。
廊下に出ると、ちょうどトイレから戻ってきた拓郎と鉢合わせた。
「どうしたんです?」
俺が声をかけると、拓郎は眉を寄せて言った。
「そうか……」
何かを考えているような、言葉を探しているような顔だ。
「なにかあったんですか?」
「救急車が消えたんだよ」
「消えた? あの場所から」
「そう。1時まで仕事してたんで、確認したんだけど……」
「4時間の間に、誰かが運転していった、ということですよね」
「そう」
拓郎はそれだけ言うと、食堂へ入っていった。俺も後に続く。
拓郎はノートパソコンの前に座り、画面を俺に示した。
そこには、拓郎の家の庭が映っているだけだった。救急車の影はどこにもない。
「マオさんに連絡は?」
「鳴っているんだけど、出ない」
出られないのだ――胸の奥で嫌な予感が膨らむ。
「棚橋さんたちは?」
「……電話してみる?」と、拓郎は嫌そうに俺に訊いた。
「しなくていいです」
即座に俺は応えた。
「なにかわかる?」と拓郎が訊くので、
「今のところ、何も見えません」と答えた。
「行ってみるか?」
拓郎の声は、どこか決意を固める前の揺らぎを含んでいた。
「行きましょう」
俺は迷わず応えた。
タクシーを呼び、タクロウの元自宅へ向かう。
空はだいぶ開けてきて、夜の名残が薄く溶けていく。
うっそうとした庭に足を踏み入れ、救急車が停まっていた場所まで来ると、地面に見慣れないタイヤの跡が残っていた。
そのとき――林の中に、倒れている人影が目に入った。
マオだ!
「マオさん」
呼びかけながら駆け寄る。
うつぶせに倒れたマオの身体の周囲が、黒ずんだ血で濡れていた。
「ど、どうしたの」
拓郎が恐々と近づいてくる。
俺は呼びかけながらマオの身体を起こそうとして、途中で止めた。
マオは苦しそうに呻いていた。片手をお腹に当て、その指の隙間から血が流れ続けている。
「救急車を呼んでください!」
俺は拓郎に言った。
「わかった」
そう言ったものの、拓郎はその場でためらった。
「どうしたんです?」
俺は訊いた。
「救急車はいいけど……警察も来るから、事情徴収を受けることになるよ」
「そうか……」
俺は息を呑んだ。確かにまずい。しかし、救急車を呼ばないわけにはいかない。
拓郎はスマホで電話をかける。
微かに着信音が鳴っているのが聞こえた。
彼は音のする方へ歩いていく。どうやら、音はスカイラインの中から聞こえているようだ。
拓郎はスカイラインのドアを開け、助手席の上に放ってあったスマホを取り出した。
「そのスマホは?」
俺が訊くと、
「マオさんのだよ」
と言って、119番にかけた。
マオのスマホで救急車を呼んだのだ。
「もうすぐ救急車が来るから」
拓郎は呻いているマオに言った。
「確認したら、あっちから出るから」
拓郎は隣の駐車場を指した。
「わかりました」
俺はスカイラインのトランクを開け、大刀を取り出した。
マオは大刀を抜いてみせた。それが祟ったと言える。
と、同時に俺には“見えた”。
――マオはスカイラインの助手席で休んでいた。
朝方未明、フランソワとマリーを載せた救急車がエンジンをかけて動き出した。その音で飛び起きたマオは、スカイラインから急いで出てくる。
庭から出ようとした救急車の前に立ちふさがった。
すると、サイドドアが開き、男が降りてきた。
日本刀を携えた男。
顔が見える。元機動隊員で、現在は鮫島組の構成員――日本刀の使い手、折塚。
問答無用でマオに切りつける。
マオは身を翻して避けるが、素手では戦える術がない。逃げればいいのに、マオにはそれができない。
結果、お腹を刺されて倒れてしまった。
折塚はとどめを刺そうとしたが、救急車が動き出したため、走って乗り込み、そのまま行ってしまった。
救急車のサイレンが近づいてくる。
俺と拓郎は駐車場へ移動した。門を開けて外へ出る際、庭の方を見ると、救急隊員がマオを見つけ、処置を始めているのが見えた。
駐車場からタクシーを呼び、俺と拓郎はタクシーに乗り込む。
向かう先は――棚橋たちの事務所だ。
……
「でもよ、どうしてピンポイントで現れるわけ、あいつらは」
ソファーにふんぞり返っている棚橋が、誰に言うともなく吐き捨てた。
その疑問は、俺の胸にも重く沈んでいた。
こちらの動きが、まるで相手には丸見えになっている。
「まさかのタクロウさん、教えてないでしょうね」
棚橋が横目で拓郎を見る。
「言うわけないでしょう。こっちの身も危ないんだよ」
拓郎は即座に返した。
「ですよね」
棚橋は軽くうなずく。
「それじゃあ兄貴、ここもわかっているってことですか?」
ヤスが不安げに訊いた。
「て、ことだよね」
棚橋はソファーから少し身を起こし、肩を強張らせた。
その様子を見て、拓郎が言う。
「棚橋さんこそ、裏社会との繋がりは深いんじゃないですか」
「ここでそれを言うか」
棚橋は苦笑したが、以前のように凄むことはなかった。
マオまで刺されてしまった今、彼の中にも恐れが芽生えているのだろう。
「フランソワさんがどこへ連れていかれたか、調べる方法はあるんですか?」
俺は棚橋に訊いた。
裏社会とのつながりがあるなら、何かしらの当てがあってもよさそうだ。
「お前まで、俺を疑っているっているの?」
棚橋は呆れたように俺を見る。
「棚橋さんなら、情報網を持っているでしょうから」
俺は静かに応えた。
「まあね」
棚橋は口元に薄い笑みを浮かべた。
そのやり取りの間も、拓郎はノートパソコンを操作し続けていた。
指先が止まることなく、画面の中の街を追いかけている。
「何かわかったか?」
棚橋が拓郎に訊いた。
「町中のカメラを調べていくと、フランソワの乗った救急車の行き先がだいたい特定できるんです」
拓郎の声は、確信を帯びていた。
「マジで?」
俺は思わず身を乗り出した。
「うん。ある意味、救急車だから良かったかもしれない」
拓郎は画面を操作しながら言う。
「それで、どっちへ?」
棚橋が身を乗り出す。
「それが……横浜ですね」
拓郎は画面をみんなに見えるように向けた。
「最終的に確認された場所は、横浜の中華街です」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが“繋がった”。
点と点が線になり、線が形を成すように。
「それじゃあ、とりあえず、みんなでその場所まで行ってみるか。そこでどうするか考えるとしよう」
棚橋は立ち上がった。キタローとヤスも続く。
俺も立ち上がった瞬間、視界がぐらりと揺れ、世界が反転した。
――見えた。
横浜中華街の中程にある料亭のホール。
だが、それは単なる中華料理飯店ではなかった。
明朝の宮廷建築を模した“会所”である。
天井には、明代特有の“藻井”――八角形の格子天井が組まれ、中央には金漆で彩られた龍が渦を巻いている。
梁には“斗拱”が重なり、朱と丹の彩色が施され、古代の宮殿のような荘厳さを放っていた。
壁には、明代の故事を描いた絹の壁掛け。
“永楽大典”の一節を題材にしたものや、朱元璋の治世を象徴する“麒麟図”が並び、墨色が薄暗い空気の中で静かに浮かんでいる。
ホール奥には、老師と呼ばれる人物が腰かけるための椅子。
明皇帝の玉座を模した“龍椅”だ。
背もたれには四爪の龍――明代皇帝の象徴が彫られ、座面には蓮華と瑞雲の文様。
両側には幹部たちが座る椅子が左右対称に並び、配置は“文武分座”の形式。
明代の秘密結社が儀礼に用いた座次そのものだった。
ホールを囲むように椅子が置かれ、組織の人間たちが静かに腰かけている。
彼らの衣装もまた異様だ。
黒い長衣に、胸元には金糸で縫われた“獅子”“麒麟”“白虎”の紋。
これは明代の官服に使われた“補子”の模倣で、階級によって刺繍の動物が異なる。
まるで、古代の官僚制度をそのまま再現したかのような厳格さがあった。
中央の椅子・龍椅は空いている。
彼らは老師の登場を待っているのだ。
その椅子の後ろには、金と宝飾で彩られた衝立。
明代の“金漆木彫”で作られた屏風で、翡翠・瑠璃・琥珀が散りばめられ、光を受けて淡く輝いている。
そこには組織を裏で支える人物が座っているらしい。
薄暗く、ぼんやりしているため、顔の特定はできない。
幹部たち、組織員たちが一斉に立ち上がった。
いよいよ老師が現れる。
衝立の後ろから、ゆっくりと人物が姿を現した。
衣擦れの音が、静まり返ったホールに響く。
人物は中央の椅子の前に立つ。
周囲の組織員たちが一斉に礼を取る。
人物はそれを受け、静かに腰かけた。
光がその人物に当たる。
竜の文様をつけた豪華な中華の衣装――“蟒服”。
明代で皇族や高官が着用した礼服だ。
胸元には四爪の金龍がうねり、袖には瑞雲と海水江崖文。
頭には、明皇帝の冠を模した“冕冠”。
前に垂れる玉の飾りが、わずかな光を受けて揺れた。
まるで皇帝の成り立ちだ。
だが――少し体が小さい。
光がその人物の顔に当たる。
その瞬間、俺は驚愕のあまり飛び上がり、呻き声を発していた。
なんと、その人物は、筈妃だったからだ!。
驚きのあまり、俺は奇妙な声を発し、ぶっ倒れた。
……頭を打ったようだ……
意識が遠のいていった……。
……
第三部「なさねばならぬ」 前編・了
『フランソワとワタルー二つの魂の宿る家系』 第三部 「なさねばならぬ」後編に続きます。




