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ウィチャットに流れてきた死刑署名活動


 夕食を食べた後、自室で休憩していたら、上海人の奥さんがスマホを片手に持って興奮しながら部屋へ入ってきた。

「日本では人を一人殺しただけでは死刑にならないの?」

 奥さんは僕に訊く。

「一人だけじゃ、ふつうは死刑にはならないよね。どうしたの?」

「犯人の死刑を求める署名活動がウィチャット(中国版LINE)に流れてきたの。東京で中国人の男の子が中国人の女の子を殺した事件があったでしょ。その裁判が始まるのよ」

 二〇一六年十一月に東京中野区で起きた中国人女子留学生殺害事件は中国では大きな話題になった。

 犯人の中国人男性Aは、元恋人の中国人女性Bを殺そうとして、女性Bが女性Cと一緒に住んでいるアパートへ行った。

 犯人がアパートへきた時、ルームメイトの女性Cが女性Bをかばい、部屋のドアの前で犯人を止めようとしたのだが、激昂した犯人は仲裁に入った女性Cを殺してしまったというものだ。女性Cはナイフで首を斬られたうえにめった刺しにされて死亡した。僕はそういえばヤフーニュースでそんな記事を読んだことがあったなとぼんやり思い出した。

 ウィチャットにはその関連の記事も流れていて、日本の裁判や量刑がどのようなものなのか詳しく書いてあるようで、

「人を一人殺した場合は懲役五年から二十年だそうね」

 と奥さんは僕に訊く。

「そんなところだろうねえ」

「日本は死刑判決がとっても少ないのね。それに法務大臣はなかなか死刑執行の書類にサインしないから、死刑にならずに刑務所のなかで歳を取って死んでしまう死刑囚も多いって書いてあるわ」

「そういうケースも多いみたいだね」

「どうして犯人Aは死刑にならないのかしら。殺された女の子は母子家庭で育ったそうよ。母親が苦労して娘を日本へ留学させたのよ。それなのに犯人は親友をかばった彼女を殺したのよ。残酷だわ。それにね、そのかばわれた親友の女の子がひどいのよ」

「どんなふうにひどいの?」

「その女の子はかばってもらったのに、被害者の遺族に会おうともしなかったし、詫びの一言も言わなかったの。ネットで素性を暴露されてそれでようやく表へ出てきたのよ。その女の子は被害者が殺された時、私は部屋の鍵を閉めていなかったって言ったんだけど、警察のテープには彼女が部屋の鍵を閉めたって自分で言った声が録音で残っているのよ。親友を見殺しにしたのよ」

「怖くてそうするしかなかったかもしれないけどね。警察だって鍵を閉めて外へ出るなって言うだろうし」

 被害者の母親が死刑を求める署名活動を行ったことに加えて、ルームメイトの女性Bの不可解な言動が世間の反感を買い、それで注目が集まったようだ。死刑を求める署名は四〇〇万も集まったという。これだけ署名が集まれば犯人は死刑になるのと奥さんは訊く。

「それはないだろうね。日本は罪刑法定主義をとっているから、量刑は全部法律で決まっているんだよ。もし死刑になるとすれば、よほど計画的で残酷な方法で殺した場合だろうね」

「ナイフで首を切るなんて残酷だわ」

「計画的かどうかというところがポイントだよ。お金目当てで周到に準備して相手を呼び出してこっそり殺すとかさ。この事件は記事を読んだだけだけど、この場合は愛情のもつれにカッとなってナイフを持って行っただけのようだから、初めから殺意はあったにしても、周りにばれないように殺そうとか、そんな周到な準備があったわけではないよね」

「罪は罪ってことね。被害者の母親が死刑の署名活動をしたから大きな騒ぎになっただけでそれが犯人の量刑に影響することはないのね」

 奥さんはなるほどねとうなずく。

 中国は徳治主義の国だ。法律はあるが裁量の余地が大きい。ルールはルールとしてあっても、それを解釈する人によって判断が大きく変わる。裁判であれば量刑が変わる。役所の手続きなら、窓口の担当者によって言うことが変わる。逆に言えば、担当者へ訴えかけ、その心を動かすことができれば、自分の思う方向へ持っていくことができるということでもある。それで、被害者の母親は署名活動をしたのだ。

 日本と中国では死刑に関する考え方は大きく異なる。

 中国では年間千人以上が死刑判決を受けて処刑されているとみられている。しかも、中国の場合、死刑が確定するとすぐに刑を執行する。日本の場合、死刑判決が少なく、死刑が確定してから刑が執行されるまでに少なくとも五年ほどかかる。なぜそんなに時間がかかるのかといえば、死刑因が反省して、自分が死刑になる理由をしっかり理解したうえで刑を執行しなければ死刑にする意味がないと考えるからだ。おなじ死刑にするのでも、犯人を更生させてから死刑にしようということだ。中国の場合、死刑因の更生という観点は希薄で、どちらかといえば秩序を乱すものに対する見せしめの意味合いが大きいためすぐに刑を執行する。

「もうちょっとで署名するところだったわ」

 奥さんは興奮がまださめないようで目をぱちくりさせながら言う。この死刑署名活動は中国人の心を打つものがそれだけ大きかったのだろう。

「あなたはクリスチャンだから、そういう署名にサインしないほうがいいと思うよ」

 僕は言った。

「死刑を廃止している国があるけど、そういうところはキリスト教の考え方をもとにして死刑はいけないって決めたんだよ。神さまは愛しなさいって言ったからね」

「そういえば、なにかの事件の時、クリスチャンの人が犯人を許すって言ったことがあったわ」

「その人は神さまの教えを守ったんだよ。罰することより許すことのほうがむずかしいよね」

 僕がそう言うと奥さんはじっと考え込んだ。

 一人娘を殺されれば、誰だって犯人を厳しく罰してほしいと願うものだろう。同じ立場に置かれれば、僕も犯人を死刑にしてくれとそう思うかもしれない。ただ、関係者でもないのにそんな署名活動にサインするのはいかがなものかと思った。死刑とはいえ人を殺すのには変わりないのだから、それに加担することになる。


 二〇一七年十二月二十日、東京地裁で判決が出た。

 検察側の求刑通り、懲役二十年だった。



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