にんじんの喩え話
中国人の女の子とたわいもない恋バナをしていた。
彼女は、早く恋人を作るようにと僕に勧め、
「にんじんの喩え話があります」
と、にこやかに言う。
「なにそれ?」
「野鶴さんのにんじんは穴を求めます」
「えっ、僕のにんじん?」
目が点になった。
「そうです。野鶴さんのにんじんです」
「それが穴を求めるの?」
「そうですよぉ」
彼女はやっぱりにこにこしている。シモネタを話している風ではない。妙な想像をしてしまった自分を恥じる。でもやね、「僕のにんじん」やとか「穴を求める」とか、そんなことを言われたら想像してしまうやん。
「それってさ、僕のにんじんなの? それとも、僕がにんじんなの?」
念のために確認した。彼女の日本語はちょっとあやしいところがあるから、時々、話が頓珍漢になる。それがまた面白かったりするのだけど。
「野鶴さんのにんじんです。にんじんの喩え話です」
彼女はきっぱり言い切る。人生にとって大切なものはなにかということをほがらかに、でも大真面目に話している風だ。
「うーん、そうなんだあ。それで話の続きは?」
「野鶴さんのにんじんはぴったり合う穴を見つけたら、入ります」
「なるほど」
僕は噴き出してしまった。真面目な顔でにこやかに言われるのでよけいにおかしい。僕が楽しそうに笑ったから、彼女はいよいよ調子づいた。
「にんじんは穴に入ったら、根を生やします。だから、野鶴さんはがんばっていい穴を探してください」
これでやっと話が見えた。
要するに、いい歳になっても独り身のままで大陸浪人のような生活を続けている野鶴に、どこかで根を生やしてがんばりなさいと励ましてくれているのだ。しっかりとした生活を打ち立てなさいと諭してくれているのだ。
気持ちはとってもありがたいのだけど、でもなあ、野鶴のにんじんと言うのは、やっぱりまずいと思うで。