夕方のベーカリーと、小さなお客さま
夕方。
閉店の札を下げて、片付けを始めたところだった。
木陰のベーカリーの裏口が、いつもより少し慌ただしく叩かれる。
「リラちゃん、いる?」
扉の向こうから聞こえたのは、隣の食堂の女将――トヨの声だった。
「はい。いますよ。どうしました?」
扉を開けると、トヨは少し息を切らして立っていた。
その足元に、小さな影がある。
「ごめんね。急で」
そう言って、トヨは後ろにいた子どもを、そっと前に出した。
「孫のマイロなんだけど、今日は少し預かってもらえないかしら。無理を言って本当に悪いんだけど!」
マイロは、四歳。
トヨの娘夫婦のところに、二人目の子が生まれる予定だったのだが、どうやら予定より少し早く陣痛が始まったらしい。
そんな日に限って、トヨの食堂は団体の飲み会でほぼ満席。
どうにも手が回らず、慌ててこちらに来たようだ。
「前から言い聞かせてはいたのよ。
赤ちゃんが来るときは、ばあちゃんのところか、親戚の家に行くからって」
トヨはそう言って、少しだけ肩を落とした。
「いい子にしてな、って」
マイロは何も言わず、ぎゅっと絵本を抱きしめて立っていた。
泣いてはいない。
騒ぎもしない。
ただ、じっとこちらを見ている。
「……大丈夫ですよ」
そう答えると、トヨはほっと息をついた。
「助かるわ。本当に。三時間くらいで戻るから」
「ゆっくりでいいです。こっちはもう片付けだけなので」
トヨは何度も礼を言って、足早に戻っていった。
裏口が閉まる。
店の中に、少しだけ違う空気が流れた。
マイロは絵本を抱えたまま、片付け中の私をじっと見ている。
「ここ、座ってていいよ。ごめんね。片付けだけ終わらせちゃうから、ちょっと待っててくれるかな?」
椅子を指すと、こくりとうなずいて腰を下ろした。
絵本は、まだ手放さない。
片付けを再開する。
食器を重ね、作業台を拭いていると、
「きゅ」
棚の上から、小さな気配が降りてきた。
オモチだ。
床に降りると、マイロのほうを見て、少し首をかしげる。
マイロの目が、ゆっくりと大きくなった。
「……この子、なに?」
小さな声。
「オモチ。私のお友達。オモチ、マイロくんだよ」
オモチは、くるりと一回転してから、粘糸を細く伸ばした。
形が変わる。
猫。
次に、犬。
床の上に、粘糸でできた小さな動物が並んだ。
マイロの目が、一気にきらきらと輝きだす。
「……すごい」
立ち上がって、少し近づく。
「きゅ」
オモチは得意げに鳴いた。
そこからは、あっという間だった。
二人はキャッキャと楽しそうに遊び始める。
その隙に厨房の片付けを済ませ、店舗側に戻ると、
「……ぎゃー!」
思わず声が出た。
少し目を離した隙に、粘糸は床、椅子の脚、棚の端まで広がっていた。
「……オモチ?」
「きゅ?」
視界いっぱいの粘糸。
オモチはやってしまったと思ったのか、両手を顎の下に添えて渾身の可愛いポーズ。
そんなことで許される……と、
うん。……許す。
マイロはというと、
「わぁ!」
大興奮だった。
身体中に粘糸がくっついてもお構いなしではしゃいでいる。
私はとりあえず糸巻きを持ち出して、粘糸を一本ずつ回収していった。
オモチは少し不満そうだったが、途中からマイロも手伝ってくれた。
それはもう、楽しそうに。
片付けが一段落した頃、私は椅子に腰を下ろして深く息を吐いた。
マイロは、今度はオモチのそばに座っている。
「ねえ」
「なに?」
「この子、なに?」
「魔獣。ヴェロスっていう種類だよ」
「すきなたべものは?」
「甘いものと、フルーツとナッツかな。酸っぱいのと辛いのは苦手」
「とくいなことは?」
「早く動くこと。あと、糸を出すこと」
「にがてなことは?」
「……じっとしてること」
マイロは、ふむふむと真剣に聞いていた。
「マイロは、なにが好き?」
「りんご」
即答だった。
「じゃあ」
私は立ち上がる。
「ちょっと、おやつ作ろうか」
今日の日替わりで使ったパイ生地が残っている。
パンに使おうかと思って、フィリングにしたりんごもある。
マイロと一緒に、リンゴを生地にのせる。
フォークで端を押さえると、きれいに筋がついた。
パイ生地で包む作業に、マイロは夢中になっている。
出来上がったものを、そっとオーブンへ入れていく。
リンゴを欲張ったせいで、形は少し歪だけど、それも悪くない。
「アイスも作れるよ」
「……あいす?」
目が、さらに輝いた。
鍋で牛乳と生クリームを温め、卵黄と砂糖を混ぜる。
オモチは作業台の端で見張り役だ。
「きゅ」
冷ました液体を、保冷機能付きの球状ボールに入れる。
二つを合わせ、外側にオモチの粘糸を巻いた。
「で、これを、ぶんぶん回す」
「ぼくも?」
「そう。一緒に。できるかな?」
二人と一匹で、ぶんぶん駒みたいに回す。
音と笑い声が、店内に響いた。
汗をかいた頃、開けてみると――
中には、ちゃんと固まったアイスがあった。
ちょうど、アップルパイも焼き上がり、皿に盛り、アイスを添える。
マイロは目を輝かせたまま、慎重にフォークにパイとアイスを乗せ、一口。
「……おいしい」
それだけで、十分だった。
その後は夢中で食べて、口の周りはアイスでどろどろ。
ふと見ると、オモチも同じ顔をしている。
二人は指を差し、笑い合っていた。
食べ終わったあとは、絵本。
オモチは途中で丸くなり、マイロの膝で眠ってしまった。
マイロは壊れないように、そっと撫でている。
しばらくして、裏口が開く。
「お待たせ」
トヨだった。
マイロは立ち上がった。
その目が、少し潤んでいる。
楽しかったぶん、名残惜しいのかもしれない。
それとも、胸のどこかに小さな不安が残っていたのかもしれない。
「ありがとうね、リラ。本当に助かったよ!」
「あのね、あのね……また、あそびたい」
そう言って、眠っているオモチをそっと抱きしめてから彼は帰っていった。
夜。
あとで聞いたら、二人目は無事に生まれたらしい。
お風呂から上がり、寝床に向かうオモチに声をかける。
「マイロ、また来たいってさ」
伝えると、やれやれと言いたげに一度だけ鳴き、ころんと寝床に転がった。
その日以降、オモチは毎晩、粘糸で小さなクマを作る練習をしていた。
この日の木陰のベーカリーの夜は、
いつもより、少しだけ賑やかだった。




