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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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静かな時間と、並ぶ歩幅

 朝。

 東の解放栗園へ向かう道は、まだ人の気配がまばらだった。

 夜の名残を含んだひんやりとした空気の中、朝露を含んだ草が歩くたびにかすかに靴を濡らし、葉の擦れ合う音だけが静かに耳に届く。


 リラは足を止めることなく、大きく息を吸い込んだ。

 胸の奥まで澄んだ空気が入り、ゆっくりと満ちていく。


 昨日まで体に残っていた重さは、もうほとんど感じられない。深く眠れたこともあるが、改めてラトリアに来れた喜びが胸に占めていた。


 ――待ちに待った栗拾いだ。


 肩の上では、オモチが忙しなく首を動かしている。同じ気持ちなのだと思うと、思わず笑みがこぼれた。


 正直、昨日までのことが頭を過らないわけではない。

 でも、やることはやった。今は栗拾いを楽しまないと。


 枝の揺れ、落ちている木の実、草の中を動く虫――気になるものが多すぎて、オモチは落ち着かないらしい。


「やっと栗拾いできるね」


 そう声をかけると、オモチはぱっと顔を上げた。


「きゅ!」


 嬉しそうに尻尾を振るその姿は、見ているだけで自然と笑みがこぼれる。


 道をしばらく進むと、やがて栗園の入口が見えてきた。

 簡素な木の柵に囲まれたその場所は、特別な管理がされているわけでもなく、誰でも自由に出入りできるようになっている。


 何気なく視線を前に向けた、そのときだった。


 ――足が止まる。


 入口のそばに、ひとりの人影が立っていた。背の高い、すらりとした影。

 朝の光を背にしているせいで輪郭は少しぼやけているが、それでも見間違えるはずがない。


「……え?」


 思わず、小さく声が漏れる。


 まだ朝早い。こんな時間にいるはずがない、と思いながら、それでも確かめるように歩み寄る。距離が縮まるにつれて、その姿ははっきりと形を結んでいった。


 相手がこちらに気づき、軽く手を上げる。

 見慣れた仕草だった。


「おはよう」


 ユリウスの穏やかな声が、静かな朝の空気に溶ける。

 その一言だけで、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


「おはようございます! 早いですね。待たせました?」


 思わず少しだけ声が弾む。ユリウスは小さく首を振った。


「いや、鍛錬がてら歩いてきただけ」


 軽くそう言ってから、ほんの少しだけ表情を引き締める。


「無事に着いてよかった。大丈夫だった? 怪我とか」


 その問いかけに、リラはほんの少しだけ視線をそらす。こうして正面から気遣われることに、まだ慣れていない。それでも、不思議と嫌ではなかった。


「大丈夫です」


 そう答えると、肩の上のオモチが胸を張る。


「きゅ!」


 まるで自分が守ったと言いたげで、その様子にユリウスがふっと笑った。


 栗園の中へ足を踏み入れると、すぐに足元にいくつもの栗が落ちているのが見えた。

 大きな栗の木が並び、その下にはいがの開いた実がぽつぽつと転がっている。朝露をまとった殻がやわらかな光を受けて、控えめにきらめいていた。


 リラはトングを取り出し、ひとつ拾い上げる。いがを挟み、籠へ落とす。


 ぽとり。


 少し歩けば、またひとつ。


 ぽとり。


 単純な作業なのに、思った以上に楽しい。気づけば籠の底に栗が増えていく。


「思ったより取れますね!」


 振り返ってそう言うと、ユリウスも足元を見て少し驚いたように笑った。


「俺も初めてだけど……これは楽しいな」


 歩いて、拾って、また歩く。その繰り返しが、妙に心地いい。何も考えずに手を動かしている時間が、こんなにも穏やかだとは思わなかった。


 籠の中では、オモチがすっかり夢中になっている。栗を転がし、小さな手で持ち上げ、また転がし、ときどき頬をすり寄せる。


「うきゅう」


 完全に気に入った様子だった。


「気に入ったみたいだな」


 ユリウスの言葉に、オモチは得意げに鳴く。


「きゅ!」


 その様子を見て、二人は自然と笑い合った。


 しばらくして、籠が半分ほど埋まった頃。


「この拾った栗はパンにするの?」


 ユリウスが何気なく尋ねた瞬間、リラの表情がぱっと明るくなる。


「はい!」


 手にした栗をそのままに、言葉が溢れる。


「甘く煮た栗をゴロゴロ入れた栗パンとか、栗クリームを使って見た目も栗っぽくしたパンとかは子供も喜びそうですよね、それにデニッシュも絶対合いますし……」


 少し考える間もなく、さらに続く。


「モンブランみたいなパンも、絶対美味しいと思うんです」


 話しながら、どんどん目が輝いていく。

 ユリウスはその様子を見て、楽しそうに頷いた。


「いいね。帰ってからも楽しみだ」


 その言葉に、リラは少しだけ照れたように笑う。


「じゃあ、帰ったらごちそうします。拾ってもらった分」


「ありがとう。俺は調理できないし、帰ったらリラのパンで楽しむよ」


 そう返事が来て、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。


 気づけば、籠は思っていた以上にいっぱいになっていた。持ち上げると、ずしりとした重みが腕に伝わる。


「思ったより集まりましたね」


 そう言いながら顔を上げ、ふと思い出したように尋ねる。


「そういえば、ユリウスさんだけですか? ダルクさんたちは?」


 その問いに、ユリウスはほんの一瞬だけ言葉を止めた。


 ほんのわずかな間。


「昨日はいっぱい飲んでたから、多分まだ寝てるよ」


 あっさりとした返事。


 リラは小さく頷く。


(あぁ……)


 昨晩の光景が、何となく想像できた。この街には商人も多く、酒場も多い。美しいお姉さま方のサービス満載なお店も少なくない。きっと楽しい夜だったのだろう。

 ちらりとユリウスを見る。


(もしかして、私……邪魔しちゃったかな)


 そんな考えが一瞬よぎるが、当の本人は気にした様子もなくオモチに指を差し出している。


「きゅ」


 オモチは差し出された指を両手でしっかりと掴み、そのまま小さく身体を揺らす。

 ユリウスもそれに合わせるように軽く指を動かし、まるで子どもをあやすようにゆっくりと揺らした。

 力を入れすぎないその動きが、どこか優しくて、見ているだけで空気がやわらぐ。


 リラはその様子を眺めながら、ふっと肩の力を抜く。


(まあ、いいか)


 胸の奥に浮かびかけた小さな引っかかりは、気づけばそのまま溶けていた。深く考えるほどのことでもないし、何より、この空気を壊したくなかった。


 そのとき、ユリウスがふと顔を上げる。


「ところで」


 何気ない調子だったが、その声にリラも自然と顔を向けた。


「今晩、予定ある?」


 少しだけ意外な問いに、リラは手を止める。足元の栗に視線を落としながら、軽く考える。

 特に急ぐ予定はなかった。この街には、もう少しゆっくり滞在するつもりでいる。トヨに頼まれている買い物も、出発の直前にまとめて済ませるつもりだった。


「いえ、特には。あと三、四日くらい、この街でのんびりする予定です」


 そう答えると、ユリウスは一度だけ視線を外し、ほんのわずかに考える間を置いた。それから再びこちらを見て、静かに口を開く。


「俺たちは、もう明日には出る予定なんだけど、」


 その言葉はさらりとしていたが、どこか区切りを含んでいるようにも聞こえた。

 そして、ほんの少しだけ口元を緩める。


「よかったら今晩、飯でもどう? いい店を聞いたんだ」


 リラは一瞬だけ言葉を失う。胸の奥で、小さく何かが揺れた気がした。それが驚きなのか、嬉しさなのか、自分でもすぐには分からない。ただ、少しだけ間を置いてから、自然と笑みが浮かんだ。


「いいんですか?」


 そう言いながら、ほんの少しだけ視線を逸らす。


「出発前の大事な時間じゃ……」


 遠慮がちに添えた言葉に、ユリウスは軽く首を振った。


「俺は大丈夫」


 余計な説明も理由もない、短い言葉だった。それなのに、不思議と安心感があった。

 そのまま、穏やかな声で続ける。


「一緒に行こう」


 リラは小さく息を吐き、ほんの少しだけ肩の力を抜く。考えるよりも先に、答えは決まっていた気がする。


「じゃあ……」


 足元の栗の葉に視線を落としながら、少しだけ照れたように続ける。


「一回戻って着替えてからでもいいですか?」


 栗拾いの途中のままではさすがに気が引ける。そう思って言った言葉に、ユリウスはごく自然に頷いた。


 その仕草が余計な気遣いをさせないものだったから、リラは少しだけ安心したように笑った。


 やがて二人は、籠を手にしたまま栗園を後にする。来たときと同じ道を歩きながらも、その足取りはどこか違っていた。歩く速度は自然と揃い、言葉は途切れたり続いたりしながら、無理なく流れていく。


 沈黙になっても気まずさはなく、会話が続けばそれもまた自然だった。


 朝の空気の中で、二人の距離はほんのわずかに、けれど確かに近づいていた。

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