守られる日々と、ひとつの決断
あれは、まだ九つの頃の話だ。
今の私より、ずっと小さくて、ずっと必死だったころ。
森の中を、どれくらい歩いたのか分からない。
振り返る余裕もなく、ただ必死に足を動かしていた。
森を抜けたとき、足はもう限界だった。
川沿いを下ってきたはずだ。でも、自分がどこへ向かっているのか確信が持てないまま彷徨っていた。
暫く歩くと、木々の切れ目から、ようやく街道が見えた。
休憩所なのだろうか。目の前に止まる馬車が、数台。
荷台には布で覆われた木箱が積まれている。
善人だろうか。悪人だろうか。
そんな判断は、まだ私にはできなかった。
でも、ただもう、歩きたくなかった。
木陰に身を潜める。
腕の中で、オモチが小さく身じろぎした。
足の傷は、まだ完全ではない。
どうしようかと考えていると、オモチはするりと地面に降りた。
次の瞬間、木の上で枝が揺れる。
ばさ、と音を立てて、熟れた木の実がいくつも落ちた。
「おい、なんだ?」
馬車の横で休んでいた男が顔を上げる。
「猿か?」
視線が上に向いたその隙に、私は荷馬車の後ろへ回り込んだ。
布を持ち上げ、体を滑り込ませる。
干した布と木箱の匂い。
心臓が、うるさい。
やがて馬車が動き出す。
揺れに合わせて、息を殺した。
――見つかりませんように。
疲れている。ずっと眠れていない。
それなのに、馬車に揺られても不思議と眠気は来なかった。
隣に潜り込んできたオモチを、静かに抱きしめる。
どれくらい走っただろうか。
音を立てて馬車が止まり、人の声が大きくなる。
気づいたときには、逃げ出すタイミングを完璧に失っていた。
布が大きくめくられる。
目と目が合い、瞳が大きく開かれた。
震えを抑えることができず、ただオモチを抱きしめる。
「……おい」
低い声。
「何してる」
怒鳴られはしなかったが、声は硬い。
引きずり出され、地面に立たされた。
「盗みか?」
首を横に振る。
うまく声が出ない。
そのとき、後ろから別の足音が近づいた。
「どうした」
若い声だった。
振り向くと、まだ少年と呼んでもいい年頃の男が立っている。
目が合った。
好奇心の強い目。警戒はあるが、嫌悪はない。
私と、腕にしがみつくオモチを、順に見る。
「……何だ、迷子か?」
ぽつりと呟いた。
後ろから女性が出てきて、驚いた顔で私のそばに立つ。騎士のような格好をしたその人は、震える私の身体を撫でた。後で思えば、身体検査だったのだろう。
女性は少年を振り返り、小さく首を振る。それから一歩下がると、今度は少年が私に近づいてきた。
徐に、ぼろぼろになった私の服の端をつまむ。
「汚いが、素材は悪くない……」
「追い返しますか」
最初の男が、少年に尋ねる。
その言葉に、自分の顔から血の気が引くのが分かった。
少年は、少しだけ考える素振りを見せた。
それから首を振る。
「いや。話を聞こう」
怒られるのは覚悟していた。
けれど、その場で放り出されることはなかった。
それが――彼、セオドアとの出会いだった。
結果として、私は無事に逃げ切ることに成功した。
とはいえ、振り返ってみれば随分とひどい状況だったと思う。
子供の足で逃げ切れたのは、奇跡に近かった。
少年の名前は、セオドア・ウィルクス。
隣国では有名な商会、ウィルクス商会の子息だった。
事情を尋ねる彼に、私はただ同じ言葉を繰り返した。
「帰りたくない」
それだけを、何度も。
彼は、私が訳ありだと悟ったのだろう。
それでも商会の下働きをさせてもらえることになった。
商会での暮らしは、穏やかだった。
寝床があり、食事がある。
働き始めて五年ほどしてからだが、給金も少ないながらもらえるようになった。
読み書きや計算を教わり、帳簿の整理や在庫の確認も任されるようになった。
ある程度仕事を覚えると、地方への商談にも同行した。
オモチを連れていたのも大きかったのだろう。働いている間は、オモチの粘糸を商会に提供していた。
中には、オモチだけを商会に引き入れようとする勢力もあったようだ。
けれど、オモチは私がいないと姿を見せることすらないらしく、結局その話は立ち消えになったと聞いた。
また、オモチと一緒にいるためには、冒険者ギルドで『従魔登録』をしておいた方がいいとも教えてもらった。
ギルドでは、オモチと行動を共にすることの危険性についても説明された。
珍しい魔獣であること、狙われる可能性があること、私自身が巻き込まれる危険もあること。
それでも、離れるつもりは最初からなかった。
だから私は、商会の休みの日になると冒険者ギルドへ通うようになった。
身体を鍛えながら、簡単な依頼を受けて小銭を稼ぐ。
オモチと一緒に生きていくための、私なりの準備だった。
私を拾ってくれた少年は、若いながらも自ら商談の席にも着いていた。
柔らかな茶髪を揺らしながら、深い緑の瞳で相手を見る姿は、いつも落ち着いていた。
温厚で、礼儀正しい。従業員からの信頼も厚い。
理想の次期商会主だと、皆が言う。
それは、間違いではなかった。
孤児の支援にも熱心で、困っている者を見れば放っておけない。
打算ではない。本当に、助けたいのだ。
私が拾われたときも、事情を深くは問わなかった。
貴族の出かもしれないと気づいていたはずなのに、それ以上は踏み込まない。
冒険者登録の保証人にもなってくれた。
恩人だ。それは、揺らがない。
けれど。
いつからだろうか。彼といると、なんとも言えない居心地の悪さを感じるようになったのは。
「大丈夫か」
「無理はするな」
その言葉は、いつも柔らかい。
荷を持てば取り上げられ、遅くまで働こうとすれば先に帰らされる。
守られている。
冒険者として実力をつけても、それは変わらなかった。
あの人は、弱い立場の誰かを見ると自然と手を差し伸べ、可哀想だと慰めてくれる。それが、そのまま自分の在り方になっている人だった。
十九になっても。
経験を積んでも、実力をつけても。
可哀想で、守るべき存在。
私の立ち位置は、ずっと変わらない。
私はいつも、庇護の内側にいた。
ただ、彼自身は、自分の行動が周囲にどんな影響を与えているのかまで考えが及ばなかったのだろう。
セオドアの無意識の気遣いは、周囲から見れば特別扱いだった。
きっと、私が逆の立場でもそう感じたはずだ。
少しずつ周囲の視線が変わり、距離が生まれる。
仕事も、次第にやりづらくなっていった。
恩人であることは確かだ。
感謝もしている。
それでも、彼の中では私はいつまでも一人前にはなれなかった。
そして周囲もまた、そんな私をどう扱えばいいのか分からなかったのだろう。
以前は笑いかけてくれた顔が、少しずつ顰められるものに変わっていく。
その変化が、私にはどうしても、思い出したくない記憶と重なって見えた。
そんなある日、呼び出されたのは商会が懇意にしているカフェの一室だった。
昼下がりの光が、繊細なレースのカーテン越しに差し込んでいる。
向かいに座った女性は、背筋が伸びていた。
オレンジ寄りの赤毛をきれいに巻き、ヘーゼルの瞳でまっすぐこちらを見る。強い目だと思った。
「今日は時間を作ってくださって、ありがとうございます」
彼女はセオドアの婚約者、マーガレット・ブライア男爵令嬢。
従業員の噂で、マーガレットが学園でセオドアを見初め、婚約が決まったと聞いたことがある。
そんな婚約者殿が何の用だと内心不安に思っていると、気の強そうな瞳をわずかに揺らしながら、彼女は一度だけ息を整えた。
「突然で悪いのだけれど、貴方には商会を辞めてもらいたいの」
唐突だった。
「……彼は、あなたに執着しています」
言葉は静かだったが、その瞳には認めたくないという意思が滲んでいる。
「何を見ても、あなたの話をするのです。料理を食べれば、あの子が好きそうだ。一人でいる子を見かければ、あの子も苦労してきて、と」
視線が、わずかに揺れる。
「私は、隣にいるのに」
その一言に、嘘はなかった。
ああ、あの噂は本当だったのだと納得する。彼女は彼を好きなのだ。家のためでも、打算でもない。本気で、あの人との未来を考えている。
そして、私はセオドアに呆れた。
一体何をしているのか。こんなに立派な婚約者がいるのに。
思わず吐きそうになったため息を、慌てて飲み込んだ。
「私は彼を、商会の次期当主として支える覚悟でいます」
まっすぐな声だった。
「だからこそ、彼が過去に縛られたままでは困るのです。いつまでも慈善事業にばかり目を向けられては、我が男爵家としても不安があります」
過去。
その言葉が、少しだけ胸に残る。
私は、過去なのだ。
守るべき“あの子”として、彼の中に置かれたまま。
成長しても、働いても、私はいつまでもあの時逃げ出してきた子供のまま変わらない。
ほかの人から見ても、そう見えているのだなと妙に納得してしまった。
怒りは湧かなかった。むしろ、腑に落ちる。
彼女は、まっすぐに私を見たまま言った。
「貴方に酷なことを言っているのは分かっています。でも、商会を離れていただけませんか」
声は揺れていない。その瞳の強さに、覚悟の上だと分かる。
「もちろん、何もなしとは申しません」
そう言って、袋を差し出した。重みと音で、中身は察せた。
きっと彼女は、私を憎んで排除しようとしているわけではない。彼との未来のために、解決しようとしているのだ。
そして私は、ここにいる以外の未来を考えていいのだと、今になって初めて気づいた。
なぜ、一生を商会で過ごすと思っていたのだろう。
恩だろうか。安心だろうか。それとも、可哀想な私を知ってくれていたからだろうか。
そっと袋に手を伸ばす。
「……あの」
私の声に、彼女が身構える。
一拍。
「あの、何なら街からも出ていくので、増額とかできます?」
自分でも、少し可笑しい。けれど、本気だった。
商会を離れるなら、街も出る。今までとはまったく違う生き方も、悪くない気がした。
彼女は目を瞬いたあと、小さく息を吐く。そして、わずかに笑った。
「……まさか、そんな返事が来るだなんて」
有難いことに、金額は増えた。
罪悪感はなかった。むしろ、すっきりしていた。
自分で自分の未来を選ぶ日が来るなんて、考えたこともなかった。
退社のとき、セオドアは明らかに戸惑っていた。
「急にどうした」
私は、真っ直ぐ彼の目を見据えて言葉を返す。
「やりたいことが、できたんです」
嘘ではない。
彼女と話してから、ずっと食べたくて、でも諦めていたパンをよく思い出すようになった。
ないのなら、自分で作ればいい。
そう思ってから、思いつく限りのレシピをノートに書き連ねた。
パン屋の夢を語ると、彼は困った子どもを見るような笑みを浮かべた。
「君に一人でパン屋は難しい」
「ひとり旅だって危険だ」
「ひとりで生きていくにはお金がいる。君には無理だ」
言葉を重ねる。
そんな彼を止めたのは、彼の父である商会長だった。
おそらく男爵家から話があったのだろう。
私はすでに、育ててもらった分の恩は給金で払い終えている。それ以降は彼女に選択の権利がある、と。
私は、ここで教わったことや商会のやり方を他言しない魔法契約と、オモチの粘糸を定期的に販売する契約を改めて交わし、十年住んだ従業員部屋を後にした。
セオドアの言葉は、あの人なりの優しさだったのだろう。
森の道を、オモチと並んで歩く。
小さな背中が、前を行く。
慣れたとはいえ、街での生活はオモチには窮屈だったのだろう。森を進む尻尾が、軽やかに揺れている。
振り返らない。
あの街を出たのは、逃げたからじゃない。
ただ、自分の将来を自分で選べると気づいただけだ。
――今。
窓の外に目を向ける。
南門側の通り。
子どもたちの声。
パンの匂い。
私は、ここに立っている。
守られているのではなく、自分で選んで。




