冒険者の街に、パンの匂いが流れる朝
フォルネアの朝は、森の匂いがする。
夜のあいだに湿った葉と土が、街のほうへ息を吐いて、石畳をやわらかく包むかのように広がっていく。
その匂いの中で、リラ・エルフェンは今日も窯の前に立っていた。
ぱち、ぱち。
薪がはぜる音は小さくて、でも耳に心地いい。
火の熱で、頬がほんのりと温まる。
手の粉を払うと、赤茶の髪が肩に落ちた。
結ばずにいると邪魔になる長さのため、仕事中は後ろでひとつにまとめている。
窓の外の光が差し込むと、空色の瞳がわずかに輝く。
窓部分から焼き加減を確認し、窯の扉を開けると、焼けた香りがふわっと顔を撫で、思わず頬が緩んだ。
甘さより先に、香ばしさが来る。
それから、小麦特有の甘い匂いが香る。
「うん。いい感じ」
食パンの山。
フランスパンの艶。
サンドイッチ用のパンは、切り口がきれいに出るように焼き上げてある。
そこへ、背中にふわりと軽やかな重みが乗った。
「おはよう、オモチ」
「きゅ」
ショウガラゴに似た猿型の魔獣、オモチが、当たり前みたいに肩にちょこんと座っている。
白地の毛に、茶色の模様がぽつぽつ。
頬がふくふくしていて、まだちょっと眠そうな顔をしているのに、目だけはきらきらしている。
オモチは開店前に毛づくろいをする習慣があって、まずそれを終えてから、リラの肩に乗ってくる。
毛づくろい、と言っても、ただ整えるだけじゃない。
オモチは手から出る粘液を、糸みたいに伸ばすことができる。
それを上手に使って毛並みをまとめると、夜に風呂に入るまで毛が抜けにくくなるのだ。
店をやる人間にとって、これほど助かる能力もなかなかない。
「今日もえらいね。ツヤツヤで素敵」
「きゅっ」
ずっと一緒にいるから、褒め言葉には敏感だ。
オモチは頬をふくらませて、得意そうに鳴いた。
開店の準備を整える。
朝は窓販売だけ。
道に面した横長の窓を開けて、持ち帰り用のパンとスープだけを並べる。
籠の中身は絞ってある。
サンドイッチを三種類。玉子、ハム、照り焼き。
ホットドッグ、コロッケパン、クリームパン、ビスコッティ。
お店用に、食パンやフランスパンを仕入れに来る人もいる。
それから、日替わりスープを瓶に詰める。
日替わりスープは量り売りもできるので、容器の持ち込みも歓迎している。
最近は、保温の魔石がついた容れ物を持参する人が増えてきた。
窓を開けると、ひんやりした空気が流れ込み、代わりにパンの匂いが街へと流れた。
それは合図みたいなもので、通りの足音が、少しずつ増えていく。
「腹が減る匂い!」
「今日も焼けてるな」
「朝って感じだなー」
冒険者たちが、装備の音を鳴らしながら集まってくる。
この街は王国の中でも大きいほうで、森の中にはダンジョンがある。
難しすぎるわけじゃない。
希少な魔獣が出るわけでもない。
でも、数が多い。
だから冒険者が多く、それでも比較的穏やかな街だ。
冒険者の半数は、朝が早い。
「おはようございます」
リラが挨拶をすると、何人かが片手を上げた。
返事は短いけれど、それはいつものことだ。
「今日のスープはなに?」
「豆と野菜です。熱いので気をつけてくださいね」
「助かる。二つもらえる?」
リラは瓶を布で包んで渡す。
紙袋にパンを入れて、窓の外へ差し出した。
受け取った手が、温度を確かめるように少しだけ止まる。
「アツアツだな」
「焼きたてなので」
「あー! 今食べたい」
「ふふ。焼きたてが一番美味しいですよ。お昼分の追加購入も大歓迎です」
「ぐわっ、迷う!」
笑い声が小さく広がって、すぐに散る。
この時間の会話は、長くならない。
オモチは窓の上の梁に移って、外を覗き込んでいる。
肩に乗るサイズの小さな猿が、ぴょこっと顔を出すだけで、通りの空気が少し和らぐのが分かる。
「噂の猿だ」
「触っていい?」
「噛みますよ」
「噛むのかよ」
「噛む気分の日は」
真顔で言うと、今度はちゃんと笑いが起きた。
オモチも「きゅ」と鳴いて、わざとらしく頬を膨らませる。
窓販売は十時まで。
客足が落ち着くころには、籠が軽くなり、通りの足音も遠のく。
窓を閉めると、店の中に静けさが戻った。
「よし、仕込み第二弾だね」
「きゅ」
オモチが、再び肩へと戻ってくる。
小さな重みが、首のあたりをあたたかくする。
十時から十一時までは、追加の仕込み。
朝から発酵させていた午後分の生地を成形し、焼き上がりの段取りを組み直していく。
粉が舞って、指先が少し白くなる。
生地を触ると、今日の湿度が分かる。
森が近い街は、パンにも影響が出やすい。
その途中、控えめな音がした。
コンコン。
窓をノックする音。
リラは、音のした窓を少しだけ開けた。
「ごめん、今、仕込み中だよね」
「ええ。どうしました?」
「いつもの、二つだけ購入できるかな」
「分かりました。少々お待ちください」
常連さんだった。
こういうことも、ままある。
パンを渡すと、常連は申し訳なさそうに眉を下げる。
「助かる。また後でちゃんと来るね」
「大丈夫です。いってらっしゃい」
窓を閉め、仕込みの続きを再開する。
すぐに、指先から伝わる感触に夢中になった。
十一時になり、店に備え付けの時計が鳴る。
焼き上がったパンをカウンターに並べ、今度は正面の扉を開けた。
鈴が鳴って、店内に日差しが満ちる。
以前はカフェだったこの店舗は、窓側の席は特に気持ちがいい。
四人がけのテーブルが三つ。
木目の天板が、あたたかい色をしている。
店のスタイルはセルフだ。
パンは自分で取って支払い。
スープやドリンクが欲しければ注文して、カウンターで受け取り、自分で席へ運ぶ。
食べ終わったら、返却口へ。
もちろん、パンの購入だけでも大歓迎。
一人で回すための、ちょうどいい形だ。
「おはよう」
裏口が音を立てて開き、隣の食堂の女将、トヨが顔を覗かせる。
「おはようございます。いつもの、裏に置いてありますよ」
「助かるわ」
毎朝受け渡す食パンとフランスパンは、もう細かい言葉を交わす必要がない。
トヨは棚に並んだパンの中からひとつを手に取り、表面を確かめるように、じっと眺めた。
「今日の焼き色、いいね」
「ありがとうございます。ちょっとだけ火加減を変えてみました」
「そういう小さい差が、うちの料理を助けるのよね」
さらりと褒めて、トヨは裏口へ消える。
その背中を見るたび、リラは、この街に来てよかったな、と思う。
昼になると、客層が変わる。
ご近所の店の人、近辺で働く人、建築や修繕の職人たち。
サンドイッチやガッツリ系のパンがよく出て、スープもよく動く。
「今日のスープ、うまいね」
「ありがとうございます。豆がいい豆だったので」
「どこの?」
「たぶん、森の向こうの村です」
商会で働いていた頃に身についた目利きが、今も役立っている。
午後三時を過ぎると、店の空気が、ふわっと柔らかくなった。
主婦層と、早めに仕事が終わった人たちが、ゆっくりパンを選ぶ時間だ。
「豆パン残ってる?」
「ありますよ」
「やった。うちの子、これ好きでねえ」
オモチが梁から降りてきて、客の足元をちょろちょろする。
撫でられて「きゅ」と鳴き、また満足そうに梁へと戻る。
「この子、小さいのに賢いね」
「ええ。とってもしっかり者です。ちゃっかりもしてますけど」
「お利口さんだねえ」
撫でられるたびに、オモチの頬がぷくっと膨らんだ。
リラはそれを見て、自然に笑ってしまう。
夕方になり、閉店の札を入り口に下げる。
客の足音が消えると、店は驚くほど静かになった。
窓から差し込む光が斜めに伸び、床に細い影を作る。
残ったパンの匂いが、まだふんわりと空気に残っていた。
カウンターを拭き、返却口を片付け、明日の仕込みのメモを取る。
オモチは、いつの間にかリラのエプロンのポケットの中で、小さな寝息を立てていた。
一年前、リラとオモチはこの街に移ってきて、店を出した。
その選択が正しかったかどうかなんて、たぶん一生、分からない。
でも。
今日もパンが焼けて、
誰かが買っていって、
無事に一日が終わった。
それだけで十分だと思える日が、この街に来てから、何度もあった。
「……今日も、いい日だったね」
「きゅ」
寝言なのか、オモチが短く鳴く。
そのタイミングの良さに、リラの顔には自然と笑みが広がった。
フォルネアの朝は、
明日もきっと、パンの匂いから始まると




