ちゃんと向き合わなくちゃ
「し……辰さんっ」
久しぶりに見た、透き通った緑の瞳に、僕は手を放してしまう。辰さんは、少し眉を寄せて、口を開いた。
「羅華、様……?」
寝起きのせいか、確かめるような響きだった。僕は、反射的にこくんと頭を振る。
「はい、辰さん……」
「……」
辰さんは黙ったまま、こっちに手を伸ばしてきた。少しぼんやりした緑の瞳に見つめられて、動けないでいるうちに、固い指先が頬に触れた。
「羅華様……どうして、泣いているんですか」
少し掠れた声が、静かに尋ねる。
――ど、どうして、って……!
僕は、ぐしゃりと顔を歪めた。ぼろぼろと涙が溢れ出す。
「ご……ごめんなさい……!」
声を張り上げると、辰さんは目を瞬く。
「辰さんのこと、辛い目に遭わせて……! 本当に、ごめんなさい……!」
寝台に額をくっつけて、謝った。おいおいと声をあげて泣くと、辰さんは戸惑っている。
「どうしたんです? 私なぞに謝らないで下さい」
「ううぅ」
僕はぶんぶんと頭を振る。
辰さんに何かあったら、こうして謝ることさえできなかった。そう思ったら、あらためて怖くて仕方ないんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……もうわがまま言わないから、いなくならないで……!」
膝の上で、ぎゅうと両手を握りしめる。滲む視界に、辰さんが呆気にとられた顔をしているのがうつる。また、迷惑をかけてしまってる、って胸が苦しい。
――恥ずかしい、赤ちゃんみたい。自分が大嫌い……。
止まらない涙を袖で乱暴に拭おうとしたとき、手首を取られる。
「あ……っ」
「本当に、どうしたんです……私は、何ともありませんよ」
半身を起こした辰さんが、心配そうに眉を寄せていた。真剣な眼差しに、どきりとする。固い指に涙を拭われて、ヒックとしゃくりあげた。
「だって、辰さん……僕のせいで……けが……」
「私が貴方を守るのは、当然のことでしょう?」
辰さんの優しい声に、切なくなる。
――主従のブ、だから……傷つけられても、我慢してくれてるの?
辰さんは、僕のせいで痛い思いしたのに。それなのに、お見舞いにも来れなかった僕のことを……。
胸の奥から、衝動がこみ上げた。
「辰さん……!」
僕は、辰さんにがばっと飛びついた。傷に触らないよう寝台に乗り上がると、ひきしまったお腹に抱きつく。
「……ッ、羅華様っ?!」
辰さんは、ぎしりと固まった。
僕は厚い胸に頬を寄せる。薬草の匂いがする。それから、ドクドク、と速く力強い鼓動が、伝わってきた。
辰さんが、生きてる証。その確かさに安心するから……失うことが怖い。
「……辰さん、すき。大好きです……」
「……っ」
辰さんの手が、迷うように僕の背で彷徨っていた。大きな手は、ぽんと背に添えられた。
「羅華様……泣かないで下さい。大丈夫ですから……」
辰さんは弱ったように言い、僕の背を擦ってくれる。
跳ねのけられたりしない。でも、抱き返してくれない、辰さん……。
「わあああん」
辰さんのことが、大好き。
だから――解放してあげなくちゃ。
*
翌日、僕はお兄様の執務室にお邪魔していた。
「突然来てしまってごめんなさい、お兄様」
「何を言う。お前から会いに来てくれるなんて、兄様は嬉しいぞ!」
お兄様は執務机に座って、微笑んだ。ちなみに、いつも通り僕を抱き上げて、くるくる回っての流れはすでに経ていたりして。お忙しいのに、お兄様は本当に優しい。
「それで、どうしたんだ?」
「ええと……」
僕は、もごもごと言いよどんだ。お兄様が「水入らずがいい」とお人払いはして下さったけど……いざお話しようとすると、勇気が必要だったの。
――でも、言わなくちゃ。お兄様に……辰さんとのこと。
袖を握りしめ、俯いていると、お兄様が「ふむ」と目を丸くする。
「どうやら、言いにくいことのようだな。では、先に私が話しても構わないか?」
「あ。はいっ、お兄様」
こくりと頷く。お兄様は、引き出しから書簡を取り出した。
「王太子殿下の儀式の日取りが決まった。都の平穏を祈り、剣舞を披露されるそうだ。私は当日警護に当たるので、御傍に侍るが……殿下が、お前にも来てほしいと」
「え……ええっ?」
僕は思わず、身を乗り出した。お兄様の手元に広げられた、上等な紙を覗き見る。お兄様のおっしゃったとおり、僕も招待されている。
「殿下は、羅華の作った霊衣をいたくお気に召されてな。作り手のお前に、じかに礼を伝えたいと仰せなのだよ」
「ほ……本当ですか?」
「ああ、良くやったな。兄様も鼻が高い」
お兄様は、わがことのように嬉しそうだった。その様子に、じわじわと喜びがこみ上げる。
――僕の霊衣、お気に召されたんだ……よかったぁ……!
しかも、王太子さまに、褒めて頂けるなんて。
「嬉しい……すっごく光栄です……」
かっかと火照る頬を押さえ、背を丸める。すると、お兄様が莞爾として言う。
「当日の供は、辰をつけようか? あいつも、此度の一件では手柄を立てたことだし。羅華の夫として殿下に拝謁する良い機会だろう」
「――っ」
楽し気に弾むお兄様の言葉に、僕はぎくりとする。二人で王太子様にお会いしたら、もう取り返しがつかなくなっちゃう。
「あ、あの、お兄様。そのことで、お話があるんです」
「うん?」
不思議そうなお兄様を真っ直ぐに見て、僕は言った。
「辰さんとの婚約……白紙にできませんか?」
お兄様が目を見ひらく。背後の窓から吹き来んできた風が、お兄様と僕の髪を巻き上げた。
風に巻き込んだ小さな葉が、ひらひらと床に落ちる。
「……どういうことだ?」
お兄様は、片頬杖をついた。本当にびっくりしたときの、くせ。僕は申し訳なく思いながら、深く頭を下げる。
「せっかく、お気遣いいただいたのに、申しわけありません。でも……やっぱり、想いあって結婚したいんです」
僕が、辰さんを好きだから。お兄様は、僕と辰さんを結婚させてくれようとしたんだよね。
辰さんに、僕と番うように仰って――。
『私の伴侶になってくれませんか』
辰さんのプロポーズ、本当に嬉しかった。今でも、思い出すとドキドキするくらい……。だけど、僕は、それが恋じゃないと気付いてしまったんだもの。
だから……側に居られないって、思う。
『辰様には、いつもよくして頂いてます』
桃花楼の玉鈴さんの、鈴の鳴るような声。綺麗で、優しくて……辰さんと並んでも、すごくお似合いだった。
きっと、剛さんの言っていた桃家のご令嬢は、玉鈴お姉さんだ。
――二人の邪魔しちゃ、いけない。
辰さんのことが大好きだから……幸せになってほしい。
今回、辰さんが僕のせいで傷ついて、思ったの。
これ以上、辰さんから奪いたくない……って。
辰さんは、玄家に仕える武人。だけど……伴侶くらいは、本当に好きな人と結ばれて欲しい。
「だ……だから、お願いします。辰さんには、幸せになってほしいんです」
震えそうな声を叱咤して、必死にお願いした。
すると、黙って聞いていたお兄様が、ふうとため息をついた。
「なぜ、そんな考えになるのか……」
「お兄様?」
何やら、頭を抱えて呟いているお兄様に、ぎょっとする。どうしたんだろう……不安に思っていると、お兄様が言った。
「羅華。お前は辰の幸せが何か、答えられるか?」
「え……」
予想外のお返事に、目を丸くする。
「そ、それは……」
「わからぬだろう。推測は出来ても、本当のところは本人に確かめるほかない」
その言葉に、はっとする。
お兄様は、静かで――あたたかな眼差しをくださった。言葉を失った僕は、席を立ったお兄様に抱き寄せられる。
「婚姻は二人のことだ。ちゃんと辰と話し合いなさい、阿華」
静かな激励に、目を見ひらく。
幼いころから親しんだ伽羅の香りに包まれて――僕は、こくりと頷いた。




