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side友梨佳 第3話

 朝の調教がひと段落し、厩舎には穏やかな時間が流れていた。馬たちは運動を終え、汗を拭かれながら落ち着きを取り戻し、静かに飼い葉桶に顔を突っ込んでいる。スタッフたちは手際よく道具を片付けながら、時折雑談を交わし、調教の手応えを確認していた。

 そんな静かな厩舎に、一頭の若馬がやってきた。

「スローガレットが入厩しましたよ」

 厩舎スタッフの声に、友梨佳は手を止め、厩舎の入り口に視線を向けた。馬運車のスロープをゆっくりと降りてきたのは、栗毛の二歳馬。四本足は靴下をはいたように白く、額から鼻筋にかけて白い流星模様が印象的。小柄ながらも骨格はしっかりとしており、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。

 友梨佳は手綱を握るスタッフの隣に立ち、スローガレットの様子をじっくりと観察する。

 初めての環境にもかかわらず、不安げな素振りはまるでない。周囲を静かに見渡す姿には、物怖じしない強さが感じられた。その堂々とした佇まいに、思わず笑みがこぼれる。

「へえ……小さいのに落ち着いてる。陽菜みたい」

 ぽつりと呟いたその言葉に、近くの馬房から鼻を鳴らす音が響いた。真っ白な馬体を持つマシュマロが、興味深そうに顔をのぞかせている。

「うわ、早速気にしてる」

 友梨佳がそう言う間にも、マシュマロは耳を伏せ、柵越しにスローガレットを睨みつけた。

「こいつ、また新入りを威嚇してるのか」

 苦笑混じりに言ったのは大岩だった。マシュマロは気難しい性格で、新しく入ってくる馬には決まってこうして威圧するのだ。

 だが、スローガレットはそんなマシュマロの威嚇にもまるで動じない。のんびりとした足取りで近づくと、目を細め、ひょいと前脚を上げて地面を掻いた。

「……マシュマロが怒ってるの、分かってるのかな?」

 友梨佳が興味深げに見守る中、スローガレットは軽く鼻を鳴らすと、まるで何事もなかったかのようにマシュマロの前を横切り、そのまま厩舎の奥へと向かっていった。

 一方のマシュマロは、一瞬きょとんとした様子で耳をピクピクと動かす。それからしばらくスローガレットの後ろ姿を目で追い、最後には鼻を鳴らして、ゆっくりと飼い葉桶に顔を突っ込んだ。

「え、怒らない!?」

 友梨佳が驚いたように首をかしげると、大岩は楽しげに笑った。

「また、ひと癖ありそうな馬が入ってきたな。四白流星に名馬なしと言われるが、こいつはどうだろうな」


 ***


「えっ、マシュマロちゃんが他の馬と並んで走ってるの!?」

 陽菜は驚きを隠せず、ノートパソコンから顔を上げた。

 その視線の先では、友梨佳が高辻牧場の売店のカウンターにもたれかかっていた。

「え、何があったの?」

「何があったって⋯⋯ウマがあったとしか⋯⋯」

「友梨佳ちゃん、ウマいこと言うね」

 加耶が笑いながら、大樹と一緒に売店の一角に並べられた木彫りの馬を指で弾いて遊んでいた。

 陽菜は苦笑しながら話を戻す。

「こういうことってあるの?」

「よくあるよ。馬だって感情を持った生き物だからね。マイペースなスローガレットのそばにいると、マシュマロも落ち着くんじゃないかな」

「へぇ……お友達ができてよかったね」

 陽菜は感慨深げに言った。

 スローガレットが入厩して以来、マシュマロはいつも彼の隣で放牧地の草を食んでいた。スローガレットにちょっかいを出す馬がいると、マシュマロがさっと間に入り、その馬を追い払うこともあった。まるで舎弟を持った兄貴分のような振る舞いだった。

 そして、その関係性は調教にも変化をもたらした。

 マシュマロが騎乗者の指示を受け入れ、走るようになったのだ。

 試しに二頭を併せて走らせたところ、マシュマロは一定のラップタイムを刻み、見事にペースを維持して走るようになった。

「スローガレットと一緒に走るようになって、我慢を覚えたっていうより⋯⋯むしろ、マシュマロがスローガレットに教えてるんだろうね」

「マシュマロが?」

「うん。ゲート練習の時も、率先して入るし、並走の時も常にスローガレットの様子を気にかけてるみたいだったよ」

「そうなんだ⋯⋯」

 陽菜は感心したように呟いたが、その横で友梨佳がぐったりと椅子に座ったまま動けずにいた。

「ねえ、友梨佳、大丈夫?」

 陽菜がそっと肩に触れようとすると、

「やめて。触んないで……」

 友梨佳は手で制した。

 何度もマシュマロから振り落とされたせいで、腰を痛めてしまったのだ。全身筋肉痛で、ちょっと触られただけでも痛みが走る。

 当然、今日は騎乗できる状態ではなく、馴致のメニューから外されていた。

「ちょうどいい休養だね。友梨佳ちゃん、このところずっとイルネージュファームと高辻牧場を往復してばっかりだったし、少し休んだ方がいいよ」

「うん⋯⋯そうする。おじいちゃんも、調子良くなさそうだから⋯⋯」

 泰造は二月に入ってから思うように体が動かなくなり、牧場の仕事を友梨佳たちに任せることが増えていた。

「大丈夫?  私にできることがあったら何でも言ってね」

 陽菜が心配そうに声をかける。

「今年はしばれるから、無理しないでゆっくり休めばいいよ」

 加耶も優しく言った。

「ありがとう。でも、自分のことは自分でできるし、ご飯もちゃんと食べてるから、大丈夫だと思う」

「……早くマシュマロがデビューできるといいね。きっと元気が出るよ」

 加耶が励ますように明るく言った。

「そういえばね、マシュマロの名前が決まったよ」

「えっ、本当!?」

 友梨佳が思わず立ち上がろうとしたが、腰の痛みに顔をしかめた。

「何に決まったの?」

 シュバルブランで募集をかけた馬の名前は、出資者から候補を募り、クラブ側が絞り込んだ後に出資者の投票で決定することになっている。

 陽菜はパソコンの画面を二人に見せた。

 そこには、『馬名決定のお知らせ』というタイトルの文書が表示されていた。

 『スノーキャロルの25の馬名をリアンデュクール(Lien du cœur)と決定しました』

「リアンデュクール……綺麗な名前。どういう意味なの?」

 友梨佳が尋ねる。

「フランス語でね、『心の絆』っていう意味なの」

「心の絆……」

 友梨佳は胸の前で手を組んだ。その目には、かすかに涙が浮かんでいるように見えた。

「泰造さんの想いにぴったりでないのさ!  大した良い名前だわ。誰が考えたの?」

 加耶がはしゃぎながら言う。

「実はね、エマちゃんが考えたんだよ」

「えっ、エマが!?」

 エマはサッカー部出身の、バリバリの体育会系だ。そんな彼女が「心の絆」なんて繊細な言葉を思いつくとは意外だった。

「素敵な置き土産だね……」

 加耶がしみじみと言う。

 エマは、右足と骨盤の骨折という大怪我を乗り越え、JRA競馬学校の騎手課程に合格した。 来月の下旬には入寮する予定だ。

 自分の考えた名前が採用されたと知ったら、きっと大喜びするだろう。

 友梨佳は、あの日、エマが必死にマシュマロを止めようとしていた姿を思い出し、思わず笑みを浮かべた。

(リアンデュクール――心の絆――)

 友梨佳はそっと、心の中でその名前を噛みしめた。


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