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side友梨佳 第2話

 マシュマロに跨り、ぐったりとした様子で砂だらけの友梨佳は厩舎へと戻ってきた。

 普段ならまず洗い場で馬の汗や埃を落とすのが習慣だが、今日はあいにく洗い場は満員だった。

「ごめん、友梨佳ちゃん。いま洗い場、一杯なの」

 水しぶきを浴びながら、加耶が振り向いて言った。手にはブラシ、隣には洗われて気持ちよさそうにしている栗毛の馬がいる。

「てか、何その格好?  砂まみれじゃん。シャワー浴びておいでよ。マシュマロは私があとで洗っておくから」

「加耶さん、ありがとう。そうさせてもらう……」

 友梨佳は力なく手をひらひらさせながら答えた。

 マシュマロの世話を人に頼むのは少し気が引けたが、今はとにかく砂と汗を流したかった。

 洗い場を通過しながら、友梨佳はマシュマロを馬房へと連れていく。

 鞍を外し、手綱をほどいてから馬房の外へ出ようとしたその時だった。

 シュマロが行く手をふさぐように立ちはだかった。

「あれ?」

 反対側から出ようとすると、またもやマシュマロが道をふさぐ。

「……どうしたの?」

 不思議に思いながら馬の目をのぞき込むと、マシュマロはじっと友梨佳を見つめていた。

 その瞳には、どこかいたずらっぽい光が宿っている。

「ちょ、ちょっと待って!?  近い、近いってば!」

 気づけば友梨佳は馬房の奥へと追い詰められていた。

 マシュマロの大きな顔がすぐ目の前に迫り、ふと、その口が動いたかと思った瞬間――。

「きゃああああっ!!」

 厩舎に悲鳴が響き渡った。


「友梨佳?」

 事務所で書類を整理していた陽菜は、遠くから響く悲鳴に眉をひそめた。

 何かあったのではないか――。そう思った途端、反射的に車椅子のタイヤを押す。

 と、その時。

「陽菜~~」

 事務所の扉が勢いよく開き、友梨佳が姿を現した。

「えっ……!」

 陽菜は思わず息をのんだ。

 砂まみれで、髪はぼさぼさ。左肩を押さえ、なんとも痛々しい表情をしている。

「友梨佳、どうしたの!?」

「マシュマロに振り落とされて……それで、馬房で噛まれた」

「えぇっ!?」

 陽菜はすぐに車椅子を動かし、友梨佳のそばへ寄る。

「とにかく座って。肩、見せて」

「うん……」

 友梨佳は椅子に腰を下ろすと、上着とプロテクターを脱ぎ、そっと左肩を出した。

 陽菜の目に飛び込んできたのは、赤黒くくっきりと残る歯型。

「うわぁ……痛そう」

 思わず陽菜は顔をしかめ、急いで救急箱を引き寄せた。

「他には怪我してない? どこか打ったりとか……」

「たぶん大丈夫だと思うけど……」

 友梨佳がそう言ったものの、陽菜は念のため背中を確認しようと服の裾をめくる。

「……えっ、ちょっと、何?」

 背中には、無数の青あざができていた。

「これ、しばらく残るね……」

 陽菜は消毒しながら、苦笑まじりに言った。

「ホントに、大丈夫?」

「……たぶん」

 友梨佳は小さく笑ったが、その顔にはどこか疲労がにじんでいた。

「友梨佳、マシュマロに食い殺されない?」

 陽菜が半ば冗談のように問いかける。

「うーん……人に危害を加えようって意思はなさそうなんだよね」

 友梨佳は考え込むように、軽く顎に手を当てた。

「ホントに?」

 陽菜が疑わしげに眉をひそめると、友梨佳は自分の首すじをトントンと指先で叩いた。

「殺すつもりなら、ここにくるから」

 その言葉に、陽菜は思わず友梨佳の首もとをじっと見つめた。

「じゃあ、甘えてるとか?」

「甘噛みなら、こんなに強く噛まないよ」

 友梨佳は肩をすくめる。歯型がくっきりと残っているそれは、甘噛みとは到底思えなかった。

「じゃあ何?」

 陽菜の問いに、友梨佳は「うーん……」と唸ると、椅子の上で胡座をかき、腕を組んで天井を見上げた。

 ──洗い場を素通りして馬房に戻ったことが関係してるのか?

 思考が巡る。

「ルーティンを破ったから……いや、他の馬より体を洗うのを後回しにされたのが気に入らなかったから……」

「馬って順番が分かるの?」

「分かるよ。体を洗うのが他の馬より後になったのが気に入らなかったのかもしれない。それで、あたしを“分からせる”ために噛みついたのかも」

「さすが、よく分かるね」

 陽菜は感心したように微笑みながら、使い終わった救急箱を片付ける。

「何となく思っただけだよ」

 友梨佳はそう言いながら、近くにあった手鏡を手に取った。首元から肩に広がる赤い痕を見てため息をつく。

「うわー、でっかいキスマークつけられちゃったな」

「キスマーク……」

 陽菜は小さく呟くと、何か思いついたように友梨佳に手招きをする。

「どしたの?」

 友梨佳が不思議そうに振り向くと、「もっと」と陽菜がさらに手招きする。

「?」

 首をかしげながら友梨佳がさらに近づくと、不意に陽菜の手が伸び、彼女の頭を優しく抱き寄せた。そして──

 ──柔らかい感触が、右の首すじに落ちる。

「ん……陽菜……」

 ゾクッとするような心地よさが背筋を駆け抜ける。

 陽菜は首に吸い付くように、ゆっくりと3回、4回とキスを繰り返す。

「……ぅん……」

 友梨佳が甘い吐息を漏らした。

 やがて、陽菜はゆっくりと唇を離し、満足げに微笑む。

「えへ……ついた」

「へ……え?」

 友梨佳はぼんやりとした意識のまま、手鏡を手に取る。映し出された自分の首すじには、くっきりとした赤い痕──まぎれもなく、陽菜がつけたものがあった。

「ちょっと、陽菜!」

「だって悔しいじゃない」

 陽菜は悪戯っぽく笑う。

「もう! あたしも陽菜につけたい!」

 友梨佳が勢いよく陽菜の首すじに顔を寄せた、その瞬間──

 ──事務所の電話が鳴り響く。

 陽菜はすかさず手を伸ばし、友梨佳を制しながら受話器を取った。

 友梨佳はじっと待つ。今か今かと、まるでエサを目の前にお預けをくらっている犬のような表情で。

 陽菜が電話を切ると、再び友梨佳が身を乗り出す。しかし──

「まだ」

 陽菜はクスッと笑いながら、事務作業を始めてしまった。

「えぇ〜……」

 友梨佳は小さく唸るが、仕方なく待つことにする。

 数分後。

「はい、終わった。もういいよ」

 陽菜が両腕を広げる。

 待ってましたとばかりに、友梨佳は陽菜の首すじにキスをしようとした──その瞬間。

 ──バンッ!

 勢いよく事務所のドアが開く。

「友梨佳いるか? マシュマロの事で話があんだ!」

 大岩の大声が響く。

 友梨佳は大きくため息をつくと、名残惜しそうに陽菜を見た。

「今行く……」

 そう言ってトボトボと事務所を出て行く友梨佳の背中を、陽菜はクスクスと笑いながら見送った。


 洗い場につながれたマシュマロは、口にバスケット型の口輪をつけられながら、加耶に丁寧に身体を洗われていた。

 白い毛並みが濡れ、つややかに光る。マシュマロはじっとしていられず、首を上下に振り、前脚をかく仕草をする。

「それで、実際のところはどうなんだ?」

 大岩が腕を組みながら、友梨佳にたずねた。

「うーん……」

 友梨佳は少し考え込み、続ける。

「前に馬がいると抜きにかかるんだけど、2歳馬が前にいたときは抜こうとしなかったんだよね。ひょっとしたら、自分より速い相手が前にいるときだけ、本気になるのかも」

「自分より速い奴にしか興味はないってか。まったく、闘争心の塊だな」

 大岩は呆れたように鼻を鳴らしたが、その表情にはどこか楽しげな色もあった。

「でも、これじゃ競馬になりませんよ」

 小林が苦々しげに言う。

「折り合いをつける稽古をしないと」

「そうなんだよね……。 この子と並走してくれる馬がいるといいんだけど」

「今は無理だな。2歳馬じゃ遅いし、古馬相手だと競り合ってしまう」

 大岩は吐き捨てるように言った。マシュマロの気性の激しさは、並の馬と合わせられるようなものではない。

「あと、はっきり分かったのは——」

 友梨佳が言葉を切り、マシュマロの方をちらりと見る。

「この子、手前を変えるのが絶望的に下手ってこと」

「それは俺も思いました」

 小林が同意し、苦笑する。

「ゆっくり流してるときはなんとかコーナーを曲がるんですが、スピードが乗ると遠心力で外に振られて、まともに曲がれなくなっていました」

「折り合いに、手前替え……」

 大岩がつぶやきながら、額をかく。課題が次々と浮かび上がる。

「あと、あれもです」

 小林が周回コースの端に置かれたスターティングゲートを指さした。

 マシュマロはゲートが開く瞬間、決まって立ち上がる癖があった。レースでは致命的な問題だ。

 大岩は腕を組み、「うーん」と低くうなった。

「やむを得ん。しばらくは朝一で単走させるしかないな。手前替えは、鞭を使いながら徹底的に覚えさせる。ゲート練習も欠かさずやるぞ」

 そう言いながら、大岩はマシュマロの頭を軽くパンパンと叩いた。

「長く馬に関わってるが、お前みたいなじゃじゃ馬は初めてだ」

 そう言いながら、自分の拳をグーパーする。ふと気づけば、手の震えが止まらない。

「けどよ——」

 大岩はにやりと笑った。

「お前が競馬を覚えたら、どれだけすごいことになるか……想像するだけで興奮が収まらねえ」

 そう言って、マシュマロの首筋を力強く叩いた。

 するとマシュマロは「気安く触るな」と言わんばかりに、首を大きく左右に振る。

 大岩はその様子を見て、ますます笑みを深めた。


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