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side友梨佳 第1話

 朝の空気はひんやりとしていて、昨夜の雪の名残が土の匂いとなって漂っていた。イルネージュファームの調教コースでは、白い馬体が朝日を浴びながら、ゆっくりと蹄を進めている。

「マシュマロ、行くよ」

 友梨佳は手綱を軽く握り直し、わずかに脚を添える。マシュマロはピンと耳を立て、前へと意識を向けた。促されるまでもなく、馬体は滑らかに前進する。常歩から、少しずつ軽快な速歩へと移行しながら、コースの外周をゆったりと回る。

 馬上の友梨佳は、マシュマロの背の感触を確かめるように腰を落ち着けた。まだ年が明けて2歳になったばかりのマシュマロの背中は、成長期特有の柔らかさがあり、わずかに不安定な動きも残っている。けれど、その歩様は力強く、四肢の運びは均整が取れていた。

「リラックス、リラックス……」

 友梨佳は低く優しく声をかける。マシュマロは鼻を鳴らしながら、わずかに耳を動かした。聞いてはいるが、完全には従っていない。

 まるで「わかってるけど、指示に従うかは俺が決める」とでも言いたげな態度だった。周囲の景色に気を取られているのか、まだ幼い気性が垣間見える。それでも、彼の歩様には自然と前へ進もうとする推進力があった。

「はいはい、今日も強気だね」

 友梨佳はふっと笑い、脚を軽く使って促した。マシュマロは少し嫌そうに首を振ったが、しぶしぶ歩き出す

「いい子だね。そのまま、落ち着いて」

 手綱をわずかに緩め、マシュマロの意思に寄り添う。

 すぐに彼もそれを理解したように、首をリズムよく動かしながら、しなやかな足取りでコースを進んでいった。

 外周を一周し、馬体の緊張がほどけてきたのを感じたところで、友梨佳はわずかに腰を浮かせると、合図を送った。

「じゃあ、ちょっと速く行こうか」

 次の瞬間、マシュマロの白い馬体が軽やかに駆け出した。

 軽快なキャンターで走り出したマシュマロだったが、突然、耳をピンと立てた。視線の先には、前方で調教をしている古馬の競走馬がいた。

 その瞬間、マシュマロの身体が一気に硬直し、身体が沈み込んだかと思うと、次の瞬間には爆発するように加速した。

「ちょっ……マシュマロ!」

 友梨佳の制止の声は、マシュマロには届かなかった。彼の視界には、ただ目の前の馬を追い抜くことしか映っていなかった。手綱を引いても、まるで無視するかのように、さらに加速する。

 砂煙を上げながら、マシュマロは前の馬との差を一気に詰めた。四肢の回転は速く、地面を蹴るたびに白い馬体が浮き上がるようだった。

「こんなスピード……!」

 友梨佳は驚愕した。スマートグラスに表示されたラップタイムを見ると、マシュマロの速度は200メートルを12秒。これは競走馬として仕上がりつつある古馬のタイムであり、この時期の2歳馬が出せる速さではない。

「マシュマロ、やめて! スピード落として!」

 必死に手綱を引くが、マシュマロの気持ちは完全にレースモードに入っていた。

 ついに、前を行く競走馬の横に並び、そのまま加速して一気に追い抜く。騎乗していたスタッフが驚いたように振り返ったが、その時にはもうマシュマロは前を走っていた。

「マシュマロ! ストップ!」

 しかし、マシュマロは速度を緩めない。興奮のあまり、コースのコーナーに気づくのが遅れた。

 そして、次の瞬間——。

 マシュマロが急激にブレーキをかけた。

「えっ!」

 減速の衝撃で、友梨佳の身体は馬上から弾き飛ばされた。

 宙に投げ出される感覚とともに、視界が一瞬反転する。

 次に感じたのは、地面に叩きつけられる衝撃。

「——っ!」

 全身に響く痛みと、口の中に広がる土の味。

 遠くで、マシュマロが鼻を鳴らして立ち止まるのが見えた。

 視界が霞みながらも、友梨佳はぼんやりと考えた。

(この子……やっぱり、普通じゃない)

「大丈夫か、友梨佳?」

 地面に倒れ込んだ友梨佳に、小林たち牧場スタッフが駆け寄ってきた。砂埃の中でぼんやりと空を見上げながら、彼女は自分の体を確認した。

「……大丈夫。少し打ったけど、骨は折れてない」

 土の混じった唾を吐き出して起き上がると、小林は苦笑しながら手を貸してくれた。

「派手に飛ばされたな。でも、さすがに受け身は上手いもんだ」

「慣れたくないけどね、こういうのには……」

 冗談めかしながらも、友梨佳の頭の中は冷静だった。

 マシュマロはまだ気性が幼い。競争心が異常に強く、一度火がつくと制御不能になる。でも、それを乗り越えなければ、この馬の才能は無駄になってしまう。

(もう一度乗る……今度は、ちゃんとコントロールする)

「おい、乗るつもりか?」

 手綱を持っていたスタッフが驚いたように言う。

「当たり前でしょ。こんなんで終わってたるかっての」

 そう言って、友梨佳は再びマシュマロの背に跨った。

「無茶するなよ、友梨佳」

 小林は呆れたようにしながらも、彼女の覚悟を見て手を貸してくれた。マシュマロの背中は相変わらずしなやかで力強い。しかし、一度振り落とされたことで、友梨佳の中にはわずかな緊張が生まれていた。

『聞こえるか?』

 耳元のイヤホンから、大岩の低い声が響く。

「うん、聞こえるよ」

『今度は15-15のペースで行け。スピードを抑えつつ、一定のリズムを刻むんだ。いいな?』

「了解」

 友梨佳は深呼吸をし、脚を軽く当てる。マシュマロは素直に応じ、穏やかな駆歩へと移った。最初の暴走が嘘のように、落ち着いたテンポでコースを進む。

『そのまま、落ち着いて。マシュマロの動きに合わせろ』

 イヤホン越しの大岩の声が、心強かった。友梨佳は細かく呼吸を整えながら、マシュマロの背中の弾みを感じ取る。

 しばらくして、コースの前方に馬の姿が見えた。

(……マシュマロと同い年の馬?)

 ゆっくりと走る2歳馬だった。同じ年齢の馬を見ると、また興奮して突っ込んでいくのではないか——そう思い、友梨佳の指先に力が入る。

 しかし、マシュマロは一定のペースを崩さず、冷静にその馬の後ろを走っていた。

(……やればできるじゃん)

 友梨佳は安堵の息を吐いた。

 しかし——。

 前方に、もう一頭の馬が見えた。

 今度は、さっきとは違う。

 脚を大きく伸ばし、調教を終えようとしている古馬だ。完全に仕上がった競走馬の、それもスピードに乗った走り。その姿を見た瞬間、マシュマロの耳がピンと立った。

「まずい……」

 その一瞬の変化を、友梨佳は見逃さなかった。

 イヤホン越しに、大岩の鋭い声が響く。

『手綱を絞れ! 絶対に行かせるな!』

 しかし、遅かった。

 マシュマロの全身の筋肉が弾けるように動き、一気にスピードを上げた。

「マシュマロ! 待って!」

 手綱を引いても、馬の意思は完全に別の次元にあった。全力で加速し、先を行く古馬を追い抜こうとする。砂煙が舞い、友梨佳は歯を食いしばった。

「ダメ! マシュマロ、スピードを落として!」

 必死に呼びかけるが、もう彼には聞こえていなかった。目の前の標的を抜くことしか考えていない。

 200メートルをまたもや12秒で駆け抜け、目の前の古馬を一瞬で追い抜いた。

(また!? やっぱりこの子……!)

 しかし、問題はここからだった。

 前回と同じように、コーナーが迫る。

 マシュマロは直線で全力を出しすぎたせいで、コーナーの入り口で急にバランスを崩し、ブレーキをかけた。

「——っ!!」

 減速の衝撃に耐えきれず、友梨佳の身体が宙に浮く。

 視界が一瞬回転し、次の瞬間——。

 ドンッ!

 激しい衝撃とともに、友梨佳の身体が地面に叩きつけられた。

「……っ!」

 全身に鈍い痛みが広がる。息が詰まり、肺が空気を求めて痙攣する。遠くで、スタッフたちが駆け寄る足音が聞こえた。

「友梨佳!」

 スタッフの声が聞こえたが、友梨佳はすぐには返事ができなかった。

(また……やられた……)

 視界の端で、陽の光を浴びたマシュマロの白い馬体が、どこか誇らしげに揺れているのが見えた。


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