Side陽菜 第19話
冷たい風が牧場の丘を吹き抜ける。まだ冬の名残を残す3月の北海道。雪はすでに解け始め、放牧地には白と茶色のまだら模様が広がっている。泥と枯草が入り混じった地面に、馬たちの蹄がゆっくりと跡を刻んでいく。
朝の空気はひんやりと澄んでいるが、陽の光は確かに春の気配を含んでいた。低くたなびく雲の隙間から、柔らかな光が差し込み、仔馬の産毛を淡く照らす。母馬のそばに寄り添いながら、小さな脚でぎこちなく跳ねる姿が微笑ましい。
時折、風の中に牧場の厩舎からの音が混じる。扉が開く音、飼葉桶を叩く音、そして馬たちの低い鼻息やいななき。長い冬を耐え、ようやく春を迎えようとする放牧地には、静かで、それでいて確かな生命の息吹が満ちていた。
陽菜は放牧地を歩く仔馬を見ながら、膝に乗せたノートパソコンのキーボードを叩く。仔馬の性格や癖、好き嫌いを書き込んでいく。
3ヶ月後にシュバルブランから募集をかける仔馬の特徴を今からチェックしておく。出資者が夢を託し、その成長を一緒に見守ってくれるように。
「お疲れ」
作業着姿にタオルを首に巻いた友梨佳が、缶コーヒーを持って陽菜のもとへ歩いてきた。手渡された缶はまだほんのりと温かい。
「お疲れ様。スノーキャロルは無事に出産した?」
陽菜は缶を受け取りながら友梨佳を労わるように尋ねた。
「うん。産気づくのが遅かったからこの時間になったけど、出産自体は安産だったよ。格好いい黒鹿毛の男の子」
友梨佳は満足げに缶を開け、陽菜の隣に腰を下ろす。太陽が彼女の横顔を照らし、額にかいた汗がかすかに光る。
「陽菜も出産を見に来ると思ってた」
「行っても良かったんだけど、現場のことは友梨佳たちに任せて、私は私の仕事をしっかりやろうって思って」
そう言って陽菜はパソコンを開き、画面を友梨佳に見せる。そこには募集馬リストが表示され、ほとんどの馬の欄には「満口」の文字が並んでいた。
「すごい。ほとんど満口じゃん」
友梨佳は感嘆の声を上げ、陽菜の肩を軽く叩いた。
「エマちゃんが気づかせてくれたおかげ。私ひとりじゃ何もできなかった」
陽菜は謙遜するように微笑むが、その横顔には達成感が滲んでいた。
「でも、その気づきから結果を出すんだから、やっぱり陽菜はすごい。あたしの自慢の彼女だよ」
「……友梨佳」
陽菜の頬が赤く染まる。
「友梨佳も私の自慢の彼女だよ」
ふたりは互いに目を見つめ合い、ゆっくりと顔を寄せる。そっと唇が重なった瞬間、一陣の風が吹き抜け、ふたりの髪をやさしく揺らした。
「友梨佳がコーヒー飲む前で良かった」
陽菜がふっと笑いながら呟く。
「え?」
友梨佳はきょとんとして、手の中の缶コーヒーを見下ろした。
「ほんとだ」
ふたりは顔を見合わせ、楽しげに笑う。
「ねえ、陽菜。お互いの仕事が一段落ついたら旅行に行こうよ」
「うん、いいよ。どこに行く? 道内? それとも海外に行っちゃう?」
陽菜が目を輝かせながら尋ねると、友梨佳は少し考え込むように視線を遠くへ向けた。
「あたし、横浜に行きたいの」
「横浜? 別に良いけど……。じゃあ、中華街に行く? フカヒレが食べ放題のお店があるよ」
「え、ホント!? ……あ、まあ、中華街も良いんだけど……」
「?」
陽菜が首を傾げると、友梨佳は少し照れくさそうに口を開いた。
「あたしね、陽菜の地元に行きたい。陽菜の通った学校とか、遊んだ公園とか、通ってた教会とか、買い食いしたお店とかを見てみたいの」
「そっか……うん、いいよ。両親に友梨佳のことちゃんと紹介したいし」
「ホント? 嬉しい! ……でも、驚かない?」
「それは、驚くだろうけど。真剣に私の気持ちを伝えればきっと分かってくれるよ」
「陽菜……」
友梨佳の瞳が潤み、再びふたりの距離が縮まる。
「ゴホンッ!」
後ろからわざとらしく大きな咳払いが聞こえた。
陽菜と友梨佳は驚き、顔を真っ赤にして慌てて離れる。まるで秘密を見られた子供のように、お互いの視線をそらしながら、そっと距離を取った。
振り向くと、右手に杖を持った仏頂面のエマと、腕を組んだ小田川が仁王立ちしていた。
「……あの、いつからそこに?」
陽菜が恐る恐る尋ねる。
「一回はまあ仕方ないとしても、二回目はさすがにねえ……」
エマはあきれたように肩をすくめ、左の手のひらを上に向けた。
「もうレッスン時間始まってるし、いつまでもイチャイチャされると困るんすよねえ」
「盛りのついた高校生じゃあるまいし、もう少し節度を持ちなさいよ」
小田川もエマに同調し、ため息交じりに言った。
「ごめんなさい……」
陽菜は気まずそうに頭を下げ、はにかみながら小さな声で呟く。
「あの、別に隠すことではないんですけど、みんなには出来ればあまり言わないでいただけると……。 みんなもほら、仕事しづらくなってもアレなんで……」
友梨佳も恥ずかしさを隠せず、顔を真っ赤にしながらこくこくと頷いた。
そんな二人の様子を見て、エマと小田川は思わず顔を見合わせる。
「あんた達、誰にもバレてないと思ってたの?」
「先輩たちの関係を知らないのは、大岩さんと泰造さんくらいっすよ」
「え!? 」
二人は声を揃えて驚いた。
「もうバレバレですよ。距離感近すぎるし、やたらベタベタしてるし……」
「わざわざ公表することはないと思うけど、遥と泰造さんにはいい機会だから話しておいたら? 大丈夫よ、ふたりとも理解してくれるわよ」
陽菜と友梨佳は顔を見合わせ、少しの間、迷うように視線を交わし合った。
そして、どちらからともなく、決意したように口を開く。
『……はい、そうします』
そう呟いた瞬間、心の奥にわだかまっていた何かが、ふっと軽くなるのを感じた。
「さ、友梨佳先輩! レッスンしてください。時間ないっすよ」
エマは杖を突きながら放牧地に向かって歩き出した。その背中に脆さはなく、リハビリの成果が確かに現れていた。医師の話では、リハビリを続けていけばいずれ杖なしで歩けるようになるだろうとのことだった。
「あ、ごめん。いま、馬を曳いてくるから!」
友梨佳は慌てて厩舎に駆け込んでいく。その後ろ姿を見送りながら、陽菜はふうっと長いため息をついた。
恥ずかしさと安堵感がないまぜになったような、不思議な気持ちだった。
すると、不意に小田川が言った。
「あのホームページ、なかなか良いじゃない。私の言ったこと、分かったようね」
陽菜は少し照れくさそうに微笑む。
「エマちゃんに教わっただけです」
「大したもんよ、陽菜」
小田川は、ポンッと優しく陽菜の頭を叩いた。その手の温もりが、まるで「よくやった」と言ってくれているように感じる。
迷える子羊ではなく、"陽菜"と名前を呼ばれたことが、なんだかくすぐったくて、でも嬉しかった。
「残口はどれくらいなの?」
「50口です。今のペースなら、来年の入厩までには70口は行きそうです」
「来年まで待つ必要ないわ。残りは私が出資する」
「え、でも5000万ですよ。他にも費用がかかりますし⋯⋯」
小田川はまるで気にも留めない様子で、スマホを操作して耳に当てた。
「みくびらないで。私、YouTubeの収益だけで億超えてるのよ」
呼び出し音が鳴る間に、小田川はさらりと言い放つ。
「あ、私だけど。例の馬に出資するわ。⋯⋯ええ、残り全口よ。手続きしておいて。よろしく」
「ありがとうございます!」
「泰造さんの夢に乗っただけよ。ダービーの口取り式には招待してよね」
「抽選で20人ですけど……」
「あんた、そういうとこ固いわね。いいわよ、50口あるんだからまず当たるでしょ」
「そうですね。口取り式の抽選も当たらないようなら、もう馬主は止められた方がいいかもですね」
その言葉に、小田川はくすっと笑い、陽菜の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「ほんと、あんたは強くなったわね」
陽菜は笑いながら、小田川の手を振り払う。
風が吹き抜け、遠くで馬のいななきが聞こえた。
陽菜は、ふと空を見上げる。
雲間から差し込む陽の光が、まるで道しるべのように、彼女の未来を照らしている気がした。
この先に待っているのは、どんな景色だろう。
目を閉じると、友梨佳の笑顔が浮かぶ。
陽菜はそっと唇に触れ、微笑んだ。
きっと、どこまでも眩しい光に満ちた未来が待っている。