Side陽菜 第14話
朝から分厚い雲が空を覆い、どこまでも重苦しい灰色に染め上げていた。山から吹き下ろす風が窓ガラスを震わせ、不吉な予感を胸に刻みつける。
陽菜は事務所のデスクでパソコンを開き、帯広の出資候補者との打ち合わせ資料を確認していた。ディスプレイには競走馬の血統表や育成計画のデータが並んでいるが、内容が頭に入ってこない。
(今日はうまく話せるだろうか……)
出資が集まらないことへの焦りが、思考をかき乱していた。
不意に、背後から足音が近づいた。
「……本当に行くつもり?」
低く、真剣な声。振り向くと、友梨佳が険しい表情で立っていた。手にしたスマートフォンの画面をこちらに向ける。
「これ、見て」
陽菜は画面を覗き込んだ。
『午後から急激な天候悪化 吹雪警報の可能性』
気象庁の予報には、道央から道東にかけて雪が強まり、夕方にはホワイトアウトの危険性があると記されていた。
「……でも、約束したし」
「そんなの関係ないよ! これは命に関わることなんだよ!」
友梨佳の声が強まる。
「あたし、子供の頃、お父さんの車でホワイトアウトに巻き込まれたことがあるの」
白い闇の中で道路の境界が消え、車のライトすら意味をなさなくなった。車内には張り詰めた空気が漂い、父が慎重にハンドルを握る横で、幼い友梨佳はただ震えていた。
「それだけじゃない……。 うちの近所の牧場の従業員も、吹雪の中で事故を起こして亡くなったことだってあるんだから」
友梨佳の表情には、明らかな恐怖が滲んでいた。
「吹雪はただの雪じゃない。ホワイトアウトになったら、自分がどこにいるのかもわからなくなる。道がどこで、崖がどこなのかも」
「分かってる。でも、私は行かなきゃいけないの!」
陽菜は強い口調で遮った。
「私は友梨佳と違う! 友梨佳は馬のことだけ考えていればいいけど、私は経営のことも考えなきゃいけないの!」
友梨佳の顔が驚きに強ばる。
「……どういう意味?」
友梨佳の声は震えていた。
「友梨佳はいいよね。馬の世話をして、エマちゃんと乗馬して、好きなことをしていられる。マシュマロを売ったから、お金の心配だってないでしょう? でも、私は資金を集めなきゃいけない。マシュマロの出資が集まらなかったら、私は何の役にも立てないんだよ!」
胸が苦しかった。
本当は、こんなことを言いたかったわけじゃない。
でも、ずっと抱えていた焦りやプレッシャーが、友梨佳の心配する言葉にぶつかり、抑えきれずに溢れてしまった。
友梨佳の表情が変わる。
悲しげな目。
いつもの明るくて快活な彼女ではなく、ただ黙って陽菜を見つめていた。
「……嘘だよね。ホントはそんなこと思ってないよね」
その言葉が、胸に刺さった。
「ねえ、陽菜。嘘だと言って」
友梨佳の声が硬い。
「……もう行かないと」
陽菜は資料の入ったバッグを手に取る。
「何かあっても知らないから……。 真田さんに助けてもらったら? 一緒にドライブ行くほど仲良しなんでしょ?」
陽菜は友梨佳を睨みつけた。
「真田さんは関係ないでしょ。なに嫉妬してるの。馬鹿じゃない?」
友梨佳はうつむいたまま動かない。その肩は震え、唇を噛みしめているように見えた。
陽菜は黙ったまま目を合わせず、友梨佳の横を通り過ぎて事務所を出た。
「……気をつけて……」
かすかな声が聞こえた気がした。
事務所を出た瞬間、冷たい風がコートを揺らす。鉛色の雲が勢いよく流れていく。
陽菜が車の前に立ったとき、事務所の扉が開く音がした。
(友梨佳!)
陽菜は振り返る。
けれど、友梨佳は陽菜を一瞥もせず、厩舎へと足早に向かっていった。
「……最低だ……私」
陽菜は呟き、車に乗り込むと、エンジンをかけた。
厩舎の中に入ると、背後で車のエンジン音が響き、それが次第に遠ざかっていった。
「……やっぱり、止められなかった」
友梨佳は厩舎の天井を見上げ、ぎゅっと拳を握りしめる。
『友梨佳は馬のことだけ考えてればいい』『マシュマロを売ったから、お金だって余裕があるでしょう?』『なに嫉妬してるの。馬鹿じゃない?』
本心じゃない。きっと陽菜も、自分に余裕がなくなっているだけだ。
わかっている。自分だって、かつて陽菜に本心でない言葉をぶつけたことがあるのだから。
それでも、陽菜からあんな言葉を聞きたくはなかった。
だから、つい口にしてしまった。真田とのことを。
もっと別の言い方があったかもしれない。でも、真田とドライブに行ったと聞かされたときから、ずっと心の奥がざわついていた。胸が痛む。落ち着かない。それは、ただの嫉妬なのか、それとも⋯⋯。
(……万が一のことがあったら)
友梨佳は、かぶりを振った。
陽菜のことだ、自分で何とかするはずだ。むしろ少し痛い目に遭えばいい。そう思い直し、仕事に戻ろうと厩舎の出口へ向かう。
そのとき。
「おう、友梨佳」
スノーベルを引いた大岩と鉢合わせた。
「お前んとこの馬房が一つ壊れてるんだってな? 吹雪がひどくなるって話だから、泰造さんから預かってくれって頼まれた」
スノーベルの顔を見た瞬間、陽菜と一緒に乗馬をした日の記憶がフラッシュバックする。
次の瞬間、友梨佳は駆け出し、厩舎脇の倉庫へ飛び込んでいた。
浦河から国道236号線、通称『天馬街道』に入るころには、雪は横殴りとなっていた。
降りしきる雪が視界を埋め尽くし、ワイパーが弾いても、すぐに真っ白になる。
道路はすでに雪に覆われ、路肩との境界もわからない。頼れるのは、道路脇に設置された下向きの矢印「矢羽根」だけだった。
学生時代に何度も通った、慣れた道。だけど、今日は違う。
吹きすさぶ風が、雪を巻き上げる。視界が、一瞬にして白に塗りつぶされる。
『吹雪は本当に怖いんだよ。ただの雪じゃない。ホワイトアウトになったら、自分がどこにいるのかもわからなくなる。道がどこで、崖がどこなのかも』
友梨佳の言葉が脳裏をよぎる。
「……少しでも早く行って、すぐに戻れば。何なら帯広で一泊してもいい」
陽菜は独り言のように呟き、ハンドルを強く握る。
時間が経つにつれ、風はさらに強まり、道路の両脇に積もった雪が吹き上げられ、視界を容赦なく奪っていく。
「……っ、見えない……!」
ワイパーを最大にし、ハイビームをつける。けれど、光は雪に吸い込まれるばかりだった。
フロントガラスが曇り始め、陽菜は慌ててダッシュボードの曇り取りをつける。
(落ち着いて、ゆっくり運転すれば大丈夫)
そう自分に言い聞かせるが、背中にじわじわと冷たい汗がにじんでいた。
その瞬間。
道路脇から、何かが飛び出した。
……キツネ!?
「っ!!」
反射的に急ブレーキを踏み、ハンドルを切る。
だめだ!
タイヤがスリップする。車体が意思とは無関係に横滑りを始める。
雪に覆われた路面では、ブレーキも無意味だった。
スピードはほとんど落ちないまま、車は横回転しながら道路の端へと流されていく。
視界がぐるぐると回る。
陽菜は歯を食いしばった。
ドンッ!!
激しい衝撃。
サイドガラスが割れ、頭がドアに打ちつけられる。
シートベルトが食い込み、エアバッグが開く音が響く。
一瞬、すべてが静まり返った。
車は傾きながら、ようやく止まったようだった。
ボンネットは雪に埋もれ、外は白い闇に覆われている。
エンジンは止まり、すべての音が消えた。
「……友梨佳……」
呟くが、返事はない。
寒さが襲ってくる。
瞼が重い。意識が、闇に沈んでいった。
陽菜の車は、ワイヤーロープのガードレールを突き破り、運転席側を斜め上にしたまま、路肩の外れた場所で停まっていた。
降りしきる雪が車体を覆い、まるでその存在すら消し去ろうとしているかのようだった。
陽菜はシートベルトにもたれかかり、意識を失っていた。
「陽菜! 陽菜!」
必死に呼ぶ声に、陽菜はゆっくりと目を開けた。運転席のサイドガラス越しに、友梨佳の顔があった。
「友梨佳……? どうして……?」
朦朧とした意識の中で、かすれた声を絞り出す。
「よかった……生きてた……!」
友梨佳は安堵の涙を滲ませながら、助手席のドアを力いっぱいこじ開け、中へ滑り込んだ。
「厳さんにここまで送ってもらったの」
そう言いながら、友梨佳はエンジンスイッチを押し、ヒーターを入れる。
「寒いよ。早く帰ろう。みんな待ってる」
「友梨佳……会いたかった……」
陽菜は震える手で、そっと友梨佳の頬に触れようとした。
ゴウッ!!
突風の音とともに、陽菜ははっと目を覚ました。
友梨佳の姿は、そこにはなかった。
車内は薄暗く、凍てつくように寒い。
(……夢?)
ぼんやりとした意識のまま、陽菜は車内を見回した。散乱する荷物。スマホは見当たらない。充電が残っているかもわからない。
右のこめかみに鈍い痛みを感じ、そっと手を当てると、ぬるりとした感触が伝わる。血だ。
ヒーターをつけようとエンジンスイッチに手を伸ばそうとするが、シートベルトが食い込み、うまく動かない。
運転席側の割れたサイドガラスから雪が容赦なく吹き込み、足元に積もりつつあった。だが、もともと下半身の感覚がないので、冷たいのかどうかさえわからない。
(……凍傷になってないかな……動かない足だけど、切断なんて嫌だな……)
恐怖が全身を駆け巡り、寒さとも相まって、体の震えが止まらなかった。
(……私、死んじゃうのかな……)
胸の奥に、後悔が押し寄せる。
あのとき、ちゃんと話を聞いていれば。
ちゃんと向き合っていれば。
暗闇が静かに広がる中、ふと、暖かな手の感触を思い出した。
(あの手に、もう一度触れたい……)
最後の力を振り絞り、震える唇を動かす。
「……友梨佳……」
その名前を呼んだ瞬間、意識は完全に途切れた。




