Side陽菜 第13話
車のワイパーがリズムよく雪を払いながら、国道336号線を南下していく。
真田の運転する車の助手席で、陽菜はぼんやりと流れる景色を眺めていた。
車窓の外には、どこまでも続く雪原と、風に揺れる防風林が点在している。太陽は低く垂れこめ、空と大地の境界が霞んで見えた。
「静かですね」
ぽつりと呟くと、真田がちらりとこちらを見た。
「えりも岬に近づくと、こういう雰囲気になりますね。冬は特に」
「……まるで世界の果てみたい」
陽菜はそう言いながら、車窓の向こうに広がる広大な風景を見つめた。
遠くに小さな集落がぽつんとあり、それを過ぎれば、もう海しかない。
高校生のころ、家族旅行で一度来たことがあった。
あのときは夏で、緑の草原が広がり、海はもっと穏やかで、陽の光がきらきらと輝いていた。
でも、今は違う。
冬のえりも岬は、荒れる波と冷たい風に支配された、孤独な場所だった。
「……冬に来るのは初めてです」
「そうなんですか?」
「うん。夏とは全然雰囲気が違う……」
「ここは『風の岬』とも呼ばれています。風速10メートルを超える日がほとんどですし、冬は特に強いですよ」
真田の説明を聞きながら、陽菜は少しだけ窓を開けた。
冷たい海風が一瞬にして車内に流れ込む。
「……強い風。でも、嫌いじゃないかも」
「陽菜さんは、自然の厳しさに慣れていますからね」
真田はそう言いながら、車をえりも岬の駐車場に滑り込ませた。
車を降りると、思った以上の強風が吹きつけた。
助手席から車椅子に移乗する際、真田が後ろから支えてくれなければ、風に煽られて倒れていたかもしれない。
移乗後も、陽菜は車輪をしっかりと握りしめた。
「……すごい風」
「これでもまだ穏やかな方らしいですよ」
真田がコートの襟を正しながら微笑む。
陽菜は手袋をはめ、ダウンコートのフードを深くかぶった。
二人は並んで展望台へ向かう。
視界が開けると、荒々しい冬の海が広がっていた。
白波が岩場に打ちつけ、砕けた泡が風に舞い上がる。
灰色の空は水平線と混じり合うように低く垂れ込めていた。
陽菜はフェンスに手をかけ、じっとその景色を見つめる。
「……すごい」
「怖いくらいですね」
「うん……でも、目が離せない」
少しだけ身を乗り出し、波の動きを追った。
海は果てしなく広がり、その奥では絶えず波がぶつかり合い、渦巻いている。
静かに見えるけれど、その下では激しく動き続けている。
(私も、ずっと焦ってばかりだったな……)
くすぶっていた気持ちが、岬の風にさらわれるような気がした。
「スノーキャロルの25……マシュマロの様子はどうですか?」
「成長は順調です。ただ、気性は相変わらず荒くて、イルネージュファームに来てからも他の馬にケンカを売っています」
「ケンカ?」
「はい。追い回したり、体当たりしたり……その度に友梨佳が泥だらけになりながら止めに走り回っています」
陽菜は笑いながら話した。
「この間、人を乗せる訓練を始めたんですけど、友梨佳が乗ったら跳ね飛ばしちゃって。なのに、友梨佳ったら『マシュマロ、逆立ちした!』って喜ぶんです」
「馬が逆立ち?」
真田が身を乗り出して聞き返す。
「要は、それだけ高く後ろ足を蹴り上げるだけの脚力があるってことなんですけど……友梨佳ったら鼻血を出しながら言うんですよ。可笑しくないですか?」
陽菜はその場面を思い出し、クスクスと笑った。
「陽菜さんと友梨佳さんは、本当に仲がいいんですね」
「え?」
「さっきからずっと友梨佳さんのお話をされていますよ」
「え、あ……ごめんなさい」
「いえ、気にしないでください。ただ、少し羨ましい気がしただけです」
真田はふっと岬の先端を眺めた。
羨ましいというのは、親友がいることを指しているのだろうか?
陽菜は少し疑問に思ったが、深く気には留めなかった。
「あの、真田さん」
「はい?」
「少し、仕事の相談をしてもいいですか?」
真田は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「もちろんです」
陽菜はフェンスから手を離し、静かに口を開いた。
「……最近、すごく焦ってるんです」
「ええ」
陽菜は視線を海に落とした。
「みんなはそれなりにうまくいってるのに、私だけが取り残されている気がして……」
真田は黙って話を聞いていた。
「友梨佳は馬のことを第一に考えていて、それは本当に素敵なことなんです。でも、私はもっと経営のことを考えないといけなくて……だけど、うまくできている気がしなくて」
風が吹き、陽菜はコートのポケットの中で手をぎゅっと握りしめた。
「私だって、馬が好きだからこの仕事を選びました。でも、競走馬を育てるにはお金が必要で……経営のこともしっかり考えなきゃいけない。だけど、それがうまくできていない気がして……」
波の音が静かに響く。
真田はしばらく海を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「陽菜さん、頑張っていますよ」
「……そう思います?」
「ええ。僕は、陽菜さんの努力を知っています。出資者を募るために奔走し、資料を作り、……それは決して簡単なことじゃない」
「……でも、結果が出せなきゃ意味がないです」
「結果は、すぐに出るものばかりじゃありません」
真田は微笑んだ。
「競走馬の成長と同じです。目に見える成果がすぐに出なくても、ちゃんと積み重なっていますよ」
陽菜は小さく息を吐いた。
「……そうだといいんですけど」
「陽菜さんは、自分に厳しすぎるところがあります」
「……そうなのかな」
「ええ。たまには、少し肩の力を抜いてもいいと思いますよ」
その言葉に、陽菜はふと顔を上げた。
(……肩の力を抜く、か)
どこかで誰かにも言われた気がした。
「陽菜、もう少し肩の力を抜いていいんじゃない?」
友梨佳の声が、不意に脳裏に浮かぶ。
陽菜ははっとして、無意識に指先をぎゅっと握った。
(どうして今、友梨佳のことを……?)
真田は優しい声で続けた。
「それに、陽菜さんはひとりじゃないですよ」
「……え?」
「青山さんも、友梨佳さんも。みんな、陽菜さんを支えたいと思っているはずです」
陽菜は、少しだけ目を見開いた。
(……みんな、私を支えようとしてくれてる……)
頭ではわかっていたつもりだった。
でも、実際には、自分ひとりで抱え込んでしまっていたのかもしれない。
「それに……」
言いかけて、真田は一瞬口をつぐんだ。
「?」
「……いえ、なんでもありません」
そう言いながら、真田はコートの襟を立てた。
「真田さん、今日は話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「いえ。陽菜さんが少しでも楽になれれば、と思っただけです」
陽菜は、小さく微笑んだ。
(……少し、心が軽くなったかもしれない)
海の向こう、小さな漁船の灯りが静かに揺れていた。
それを見つめながら、陽菜はそっと息を吸った。
えりも岬を出発してしばらく、車内は静かだった。
陽菜は助手席に座り、窓の外に広がる冬の風景をぼんやりと眺めていた。
外はすっかり日が落ち、濃紺の空が広がっている。
沈みかけた太陽が地平線の向こうで最後の光を放ち、空の端にかすかなオレンジ色を残していた。
雪原の上には薄い夕闇が落ち始め、遠くの山々が紫色の影を落としている。
車のヘッドライトが、積もった雪を照らしながら進んでいく。
道の両脇には防風林が並び、風に揺れている。
時折、雪が吹き上げられ、白い霧のように宙を舞い、すぐに消えていった。
車内はヒーターの温もりに包まれていた。
ラジオからは静かなピアノの旋律が流れている。
陽菜はシートに深くもたれ、静かに息を吐いた。
「……眠くなってきました」
小さく呟くと、運転席の真田がちらりとこちらを見た。
「寒い中に長くいたから、体が温まると気が緩むんでしょうね」
「そうかも……なんだか、ふわふわします」
陽菜はポケットの中で指先を握ったり開いたりしながら、ぼんやりと言った。
「……たまには、こうして何も考えずに外を眺めるのもいいですね」
「陽菜さんは、いつも考えすぎですからね」
真田が微笑む。
「……そう、でしょうか」
「そうですよ。だから、たまには何も考えずにぼんやりしててもいいんです」
陽菜は小さく笑った。
「うん……そうかもですね」
「寝てもいいですよ。目的地まで、まだ時間がありますし」
「……そうしたいところですけど、運転してもらってるのに寝るのは申し訳ないです」
「気にしませんよ。寝顔を見ておくくらいですから」
「えっ……?」
唐突な言葉に、陽菜は思わず目を見開いた。
真田は冗談めかした口調だったが、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
(……冗談、だよね?)
微妙な沈黙が流れる。
陽菜は小さく咳払いをし、話題を変えようとした。
「……今日は、連れてきてくれてありがとうございました」
「いえ、僕も楽しかったですよ」
「少し気持ちが整理できた気がします」
「それならよかった」
「あの、どうして真田さんはこんなに親切にしてくださるんですか?」
「そうですね……投資ですかね」
「投資?」
「はい。将来、陽菜さんがイルネージュファームで青山代表の右腕になった時、弊社と取引してくれるかもしれないですから」
「ええ!? そんな理由ですか?」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
会話が途切れ、再び静寂が訪れる。
陽菜は窓の外を見た。
雪原が広がる静かな夜。
遠くに見える街の灯りが、ほのかに瞬いていた。
車が陽菜のアパートの前にゆっくりと停まった。
エンジン音が消え、静寂が訪れる。
街灯のオレンジ色の光が雪の上に柔らかく反射していた。
真田は後部座席から車椅子を取り出し、助手席側に置いた。
陽菜はシートベルトを外し、車椅子に乗り換えた。
「送ってくれてありがとうございました」
「いえ。安全に帰るのもドライバーの役目ですから」
真田は優しく微笑む。
陽菜も「それはそうですね」と小さく笑い、 車椅子を動かそうとした。
だが、その瞬間。
「陽菜さん」
真田の声が静かに響く。
陽菜は驚き、手を止めた。
真田の方を向くと、彼は落ち着いた表情のままじっとこちらを見つめていた。
だが、その瞳の奥には、いつもとは違う真剣さが宿っている。
「少し、話したいことがあります」
「……何ですか?」
陽菜は自然と背筋を伸ばし、彼の言葉を待った。
真田は一度深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「陽菜さんの仕事に対する姿勢、努力、すごいと思っています」
彼の声は静かで、誠実だった。
「今日のドライブで改めて思いました。陽菜さんは、すごく真っ直ぐで、自分の信じた道を懸命に歩いている」
陽菜は、戸惑いながらも聞き続ける。
「でも、時々……頑張りすぎてしまうところがある。そんな陽菜さんを、僕はそばで支えたいと思っています」
真田の視線が陽菜をしっかりと捉える。
「……え?」
「車の中でどうして親切にするのかと聞かれたこと。さっきの答えは嘘です。僕は、陽菜さんのことが好きだからです」
心臓が大きく跳ねた。
「最初に出会ったときから、陽菜さんの一生懸命な姿に惹かれました。自分のためだけじゃなく、馬のため、仲間のために努力する姿勢……」
「……真田さん……」
「もっと近くで、陽菜さんを支えたい。一緒にいたい」
真田の言葉は真っ直ぐで、迷いがなかった。
陽菜は息をのんだまま、何も言えずにいた。
胸の奥で何かがざわつく。
だが、それは喜びではなかった。
違和感。
答えようとするたびに、胸の奥が苦しくなる。
(……なぜ?)
普通なら、ここで「ありがとう」と言うべきなのかもしれない。
しかし、陽菜の頭の中に浮かんでいたのは別の人の顔だった。
どうして?
なぜ、こんな大事な場面で、友梨佳のことを思い出すの?
目の前には、陽菜を想ってくれる真田がいる。
それなのに、心が揺さぶられるのは……
「陽菜さん?」
真田が優しく問いかける。
陽菜は、唇をかすかに震わせた。
そして⋯⋯
「……すみません」
やっとの思いで、言葉を絞り出した。
「少し、考えさせてもらえますか?」
真田の表情が、わずかに揺れる。
だが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
陽菜は車輪を握る手に力をこめ車椅子を動かした。
夜の空気が、頬を冷たく撫でる。
陽菜は家に入る前に、もう一度だけ車の中の真田を振り返った。
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい、陽菜さん」
車が静かに発進し、夜の街へと消えていくのを見送りながら、陽菜は一人、玄関前にいた。
玄関のドアに向かいながら、陽菜は思った。
自分の心の奥底に、まだ向き合えていない何かがある。
それが何なのか、答えを出すのが怖い気がした。
(……私、本当に好きなのは……?)
問いかけた言葉は、夜の静寂に溶けていった。




