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ルドルフのドレス  作者: 木谷日向子
第ニ章 輝とリヒト
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第一話 輝の新しい朝

 朝桜がどこからか花弁を剥がし、アパートの部屋の中に入ってきた。ベッドの影や、壁に薄墨色の影を宿し、風が吹くとわずかに開いたカーテンの隙間から溢れる光と風によって、ゆるゆると震える。樹木の間から黄土色の地へと差し込む木漏れ日のように。


「あ……」


 花弁が眠っている青年の丸いまぶたに触れる。

 短く刈った漆黒の髪は艶やかで、小雨に濡れたような光の粒を筋の隙間に宿している。

 青年・西園寺輝さいおんじあきら薄墨色うすずみいろの世界から目覚め、まなうらに白く暖かな光を感じた。

 ゆっくりと目を開ける。黒い睫毛のすじが、まず真っ先に目の前に散り、やがて乾いた風景にとけてゆく。

 空は快晴。昨夜、重い和毛わこげのように浮かんでいたけぶる真白い雲は、どこかへ溶けて消えてしまった。

 輝は白いTシャツ姿のまま、俯いて茫洋としていた。

 うすぼんやりとした視界が徐々に定まってくる。見えてきたものは、あぐらをかいた己の両膝が、昨日の雲と同じ色をした真白い掛け布団のシーツに覆われて、こんもりとしたふたつの山になっているものだった。


「……ああ、今日大学行くんだっけ……」


 輝は自分に確かめるようにつぶやく。その低いが透き通った声を拾うものは、この部屋の中には誰もいなかった。


「__そうだ、今日行くんじゃんっ!!」


 はっと切長の一重のまなこを見開き、がばっと背をまっすぐに伸ばし、天を仰いで吠える。

 熱いシャワーを浴びるよりも、己のあかるく通る声色は、目を覚まさせてくれた。

 真白い掛け布団を片手で剥ぎ取り、体をふわりとベッドから浮かせる。着地した部屋の床は、グレーのカーペットの毛羽立ちをしっかり足裏に感じるくらいに、裸足に心地よかった。

 長い両足のつま先をぐっと伸ばす。

 日本人の男の中では、背は低い方ではないと思っているのだが、ここドイツではチビに思われるんだろうな、とかすかに切ない思いが頭の片隅をよぎる。

 ダークブルーのパジャマから覗くふくらはぎは、筋肉がみっちりと詰まっており、健康的な小麦色をしていた。

 黒のバッグと靴を履き、ノートやら鉛筆やら財布やら、必要な荷物をぽいぽいと中に詰め込んで、がらりとドアを開けて、外へと飛び出す。

 灰色がせて白くなっている階段を、段飛ばしでかけ降りれば、輝の新しい日常のはじまりであった。

 

 深緑の銀杏いちょうの葉を持つ並木を、輝は頬にかすかに冷たい風を感じながら自転車で走っていく。己が風の一部になったかのように、両足に力を込めてぐんぐん前へと突き進む。


(ああ、気持ちいいな)


 輝は自分でも気づいていないほど、穏やかな笑みを浮かべていた。春の温度を体現したかのようなその笑みは、目にしたものに、幸せを分け与える力があった。通りを歩く人々は、無意識に輝の方を見てしまう。それは幸せな気持ちに惹かれる本能であった。

 かららら、と車輪が回って坂道を下っていく。

 輝は両足を上げて、自転車の速度に身を任せて走っていった。

 春の白い花弁が、風に乗って輝の小麦色のなめらかな頬をすべり、背後に流れていく。

 それを目の端でとらえると、眼前に迫ってくるものを感じた。

 大学の正門だった。


(これから4年間……いや、3年間か、お世話になりまーす)


 輝は心の中で校舎に軽い挨拶を交わすと、くるりと自転車のサドルの方向を変えて、正門の前で止める。

 キキィ、という甲高い音が、地をわずかに揺らした。

 ペールブルーのスニーカーが地へ落ち、ざっと黒砂を上げる。

 改めて近くでもう一度大学を見上げる。

 そびえ立つ飴色は、目に優しいようにも、厳しいようにも映った。


「ここがエリカ大学」


 輝はつぶやいた。

 しばらく校舎を見つめ、何かを感じ取ったように視線を逸らす。

 自転車置き場へ向かおうと、両手を置いた黒のサドルに力を込め、ゆっくりと押したところで、前方に人影が見えた。

 輝よりいくぶんか背の高い男が、大学の方へと体を向けて立っていた。

 髪色は、ワインを煮出したような深い赤茶色。ほどよい水分を含んで艶めくそれを、オールバックにしている。口元を覆う濃いひげも、髪と同じ質感だ。

 ダークグリーンのシャツと、黒のスラックスの上に、髪色よりも濃い色をしたワイン色の裾の長いジャケットを羽織っている。血管の浮いた白く大きな手は、ほどよく皮が乾いており、その指先だけをそっとジャケットのポケットの中に入れている。

 かけた眼鏡は瞳を覆うほどの大きさで横長に丸く、シャボン玉のような虹色の光がかすかに浮かんでいた。

 歳の頃は四十代後半だろうか。いや、実年齢よりも若く見えそうなダンディズムである。本当はもっと歳上なのかもしれない。

 ぼうっと男を見ていた輝は、突然はっと何かに気づいたように声を上げた。


「あっ、もしかしてアーダルベルト教授ですか?」


 輝はサドルから右手を上げて、ゆるく男・アーダルベルトを指さした。

 アーダルベルトはゆっくりと首だけを輝の方へと向けると、にんまりと色づいた笑みを見せた。


「君がアキラ・サイオンジだね。ようこそ我がエリカ大学へ」


 一陣の風が吹く。

 白い花弁が、昼の光を表裏に映して、真白く輝きを見せる。

 輝はその輝きを見る余裕もないほどに、アーダルベルトの穏やかな笑みに惹きつけられていた。そして、いつの間にか自然と己の口角も上がり、「はい」と答えを返した。

 そこに見えたのは未来への希望の黄色だった。


「今はまだ春からの授業は始まっていない」


「春休みってことですか」


「まぁそうだ」


 アーダルベルトは隣を歩く輝を見上げながら、眉を上げた。

 ふたりは大学の廊下を並んで歩いている。

 かつかつというアーダルベルトの深い茶色をした革靴が床を踏む音が、かすかな反響をもたらす。


「ああ、ここだ。着いた」


「へっ?」


 アーダルベルトが突き当たりで立ち止まったので、輝は体をかしげさせて、彼の肩から顔を覗かせる。

 丸く見開いたその目がうつしたものは、アーダルベルトの背よりもわずかに高い、大きな鉄製の扉であった。

 アーダルベルトは後ろを振り返り、口の端をひらりと上げて、扉のノックに手をかけた。

 続いて中へ足を踏み入れた輝は、そこに広がる光景に「おお」と感嘆の声を漏らした。

 そこは無数の椅子がゆるい円を描くように並び、中央に苔色こけいろの黒板が置かれている大教室であった。

 椅子は全て淡いレモンクリーム色で、そこにまだらに散った窓からの白い木漏れ日が、梨の花が降ったようだと感じるほど、整理されてうつくしかった。


「ここで文学部の生徒たちは授業を受ける」


 アーダルベルトは黒板の方を見下ろしながら言った。


「へー」


 輝は椅子を見渡しながら応えた。

 無人の椅子の群れに、ひとつの影が見えた。


「ありゃあ……」


 輝は無意識にアーダルベルトの背から顔を出し、ふらりと前へ出る。


「おやおや、どうしたんだい」


 眉を寄せていぶかしんで輝を見るアーダルベルトであったが、輝は吸い寄せられるように椅子の群れを見つめているばかりであった。

 切長の一重は見開き、中央にある黒曜石のようなまなこは光の粒を宿して輝いている。

 アーダルベルトはそこに宇宙を見た。人が生命力を増している時のだ。この眼には、覚えがある。


「あいつ……は」


 わずかに輝が身を乗り出す。

 アーダルベルトも彼に釣られて前方を見やった。

 そこにいたのは、ブロンドの青年だった。

 長い脚を広げて、気だるそうに両腕を組んで枕にし、顔を伏せている。

 腕から覗くまるいまぶたと、すっと通った白い鼻筋は高いが、その寝顔はいまだあどけない少年天使のようでもあった。白に近い淡い金の髪色とひとしく、彼の長い睫毛は木漏れ日を受け、金色に煌めいている。それが肌に薄い影を作っていた。


「あれは……ハインベルグ? リヒト・ハインベルグじゃないか」


「リヒト……」


「君と同じ、文学部の学生だよ。確か学年も一緒だ。二年生の十九歳。この先仲良くするといい」


 アーダルベルトは輝の方を見やりながら、にこりと笑った。

 唖然とする輝をよそに、アーダルベルトは大きな片手をくちもとに寄せると、背筋を伸ばしてリヒトに声をかけた。


「おーい! ハインベルグ!」


 リヒトはその野太いが暖かな声に反応し、瞳をうっすらと開ける。

 白い瞼とまなじりの間に、青薔薇の花弁のような色をした眸が姿を現した。

 うっそりと両腕から小さな顔を剥がして首を起こす。

 光が、紗のようにガラス窓から強く差し込んだ。カーテンが舞い上がったように。降っていない霧雨があがるように。

 その光が、舞台の俳優のようにリヒトを照らす。彼だけしか、この大教室に在しないかのように。


「……ああ、はい……」


 リヒトは声のした方へと首だけを向けると、興味なさそうに気怠げな返事を返した。

 アーダルベルトを見た後、隣にいる輝を一瞬見やる。

 輝の黒い瞳と、リヒトの蒼い瞳がかち合う。

 リヒトはくちびるを引き結んで眉を寄せて不機嫌そうに輝を睨んでいたが、ふたたび興味が薄れたようで、瞼を閉じ、顎を両腕を重ねた交差点の上に載せた。そしてねたような横顔をこちらに見せて、また眠ってしまった。

 輝もぽかんとリヒトに目を向けていたが、「うつくしい」ということに慣れてくると、やがて興味を失ったかのように、彼から顔を逸らした。


「先生、もう行きましょう」


 アーダルベルトの肩を、ぽんと叩く。

 アーダルベルトは心配そうにリヒトの方を一度ちらりと見て、視線を輝に戻した


「……ああ」


 バタンと扉が頭上で閉まる小君良い音が、静謐な大教室にこだまする。

 リヒトはふたりが去って数分後、またゆっくりと瞼を開けた。

 ぼんやりとした視界が定まってくる。

 両腕から顎を離し、目の前の黒板を見つめる。

 ひとしきり感情のうかがえない顔で黒板を座って見つめていたが、やがて音を立てて椅子から立ち上がり、黒板の方へと歩いていく。

 生徒たちの使用によってわずかに薄汚れた階段をゆったりと下り、黒板の前に近づき、腕を組んで、見つめる。

 右脚を軸に、わずかにかしいだ体からは、苛立ちすら感じさせられた。

 静かに腕を解き、スチール製の粉受けに置かれた白いチョークを一本ゆびさきに取る。取り上げたとき、粉が散った。それが体に付着しないように、うっとおしそうに避け、筆で描いたようなほどよい細さの眉をわずかに寄せる。

 軽く鳴らした舌打ちは、誰にも聞こえなかった。

 指先に微量の力を込め、黒板に文字を書いていく。絵を描くようなその動作は、無駄なく、すっ、すっ、と終わっていった。

 黒に浮き上がるように書かれた文字。

 名前。

 それは、「ルドルフ」だった。

 リヒトはその名前を切なそうに瞳を揺らして見つめていたが、歯噛みし、俯いてわずかに長い前髪を震わせると、名前に抱きつくように頬を寄せた。先ほどチョークの粉を嫌がっていたものと同じとは、思えないほど愛おしそうに。


「ルドルフ……」


 掠れた低い声で、その名前が紡がれる。

 切ない響きを聞いたものは、黒板とリヒトの金色の和毛が生える白い耳だけだった。

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