第五話 オフィーリアになった弟
僕はハインベルグ家の廊下を走っていた。
昨日僕が女装したルドルフから逃げるために走っていた廊下だ。
白とこげ茶色のマーブル模様の大理石の床は、いつもメイド達によって綺麗に磨かれ、庭に面した右側を覆う灰色の硝子窓の桟は、埃一つ無い。
僕の心は淀んで荒み切っていた。そのよどみは、不安から生まれていた。
不安に思っていることは起こっていない、ということを確かめるために、僕は走っていたのだろうか。
いつの間にか息は上がり、握りしめすぎた両こぶしは白くなっていたが、気にしている余裕がなかった。
(違う、違う……! 絶対に違う。そんなことは起こらない。起こるはずがない!)
血走ったまなこで、瞳だけは海のように青く、自分にそう強く言い聞かせていた。
廊下から庭へ飛び出すと、初夏の空気が、そよ風となって僕の周囲を包み込む。
僕のかいた汗が、ブロンドの頭皮全体から汗の玉となって、首すじを伝い、白い鎖骨や背へと流れ落ちてゆく。
僕は中庭の中央にある、みどりの水を張った池へと近寄って行った。
最初は荒く息を吐きながら、速度を落とさず近づいて行ったのだが、徐々に足の速度が落ち、息も静かになっていった。そうならざるを得なかった。
蓮の花とそれを彩る丸い葉が、幾つも池に浮いている。外側が白い花弁は中央に向かう度に紅色を濃くしてゆく。その中央にある主張された花托は色鮮やかで、僕たちの髪よりも濃い金色をしていた。
だが、今の僕の瞳には、清らかでうつくしい夏の蓮の花は、映らなかった。
蓮の花の咲き乱れる中央、仰向けになって浮き上がっていたのは、ルドルフだった。
泳ぎを楽しんでいるようなそんなポーズで、彼は死んでいた。
両袖と襟を細かなパールで縁取った、純白のドレスを着て、瞳は伏せていた。僕と同じ、金の長い睫毛が、彼の白い頬に影を作っていた。短かくやわらかな光の色をした髪も、みどりの池に後頭部がついて、ふわりと広がっている。蒲公英の花弁のように。
両の手首はすっと横に切られていた。そこから流れる血が、水彩のように池の中を漂っている。
僕の弟は、オフィーリアのように死んでいた。
しばらく体が固まってしまい、動くことができずにいた僕は、ただ呆然と池に浮かぶルドルフを見つめているだけだった。
どれくらい時が経っただろう。
僕は池にゆっくりと入った。
彼の周囲を、水が波紋となって流れていく。
ぱちゃぱちゃという音がしたが、僕にはそのすべてが聞こえていなかった。
ルドルフの傍へ近寄ると、その腹の上にそっと手を置く。
つめたく、硬くなっている腹。
そして、翼のように広がった手に、己の手を重ねる。
僕が眠れない夜は、いつも傍に寝ているルドルフの手を握って眠っていた。あたたかく、やわらかなその手は、今はつめたく硬くなっていた。
「ルドルフ……」
僕はルドルフを抱きしめる。水に濡れたルドルフは、驚くほど軽かった。濡れたドレスが含んだ水が、まだ濡れていなかった僕の体の箇所を、ぽたぽたと濡らしていく。
「ルドルフ、ごめんよ。許しておくれ。僕は君の事を何にもわかってあげられなかった。君はきれいだ。ドイツの街の、どんな女の子よりも、君はきれいだったのに」
熱い涙が、まなじりから溢れて止まらない。
白い頬を濡らし、みどりの池に落ちていく。透明なそれの奥には、赤い花が咲いていた。
物音が、何もしなかった。
ただ、僕の身を絞るような鳴き声だけが、残酷なまでにうつくしい夏の中庭に響いていた。
僕は、あんなに綺麗な遺体を、その後何年経っても見ることはなかった。水辺に漂う白いドレス姿のルドルフは、まるでオフィーリアの絵画のようだった。草木は息吹き、蓮は満開だというのに、ルドルフだけが死んでいた。僕と同じ顔。僕のかたわれ。