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ルドルフのドレス  作者: 木谷日向子
第三章 ドレスにさよならを

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12/22

第二話 すべてがオレンジだった

「おわっぷ……!」


「ははっ、アキラ。大丈夫?」


 リヒトのけらけらとした笑い声だけが、この薄暗い書庫にある、金色のともしびのようだった。

 輝とリヒトは学科の閲覧室にふたりでいた。

 他の学生はもうすでにおらず、扉の開いた書庫と、隣にあるデスクがいくつか置かれた閲覧室。夕日が窓ガラスからいくすじか差し込み、使い込まれて飴色になったデスクの表面を舐めている。きらきらとした鈍い火の粉は、ほこりが夕日色に染められて穏やかに舞い降りているもの。

 今だけーー今だけ、そこは彼らだけのものとなっていた。

 輝はリヒトと共に書庫で選んだ数冊の論文集や図録を両腕に抱えて、閲覧室へと移動した。


「レポートとかマジでめんどい……。なんで文学部なんかに入っちまったんだろうって思うわ」


「4000字とか5000字書いてるとき、自分って文章のマゾなんじゃないかって思うときあるよね」


「あるある」


 他愛無い会話をしながら、リヒトの方が窓に近い席へ、輝がその隣へと座った。


「アキラは何について書くの?」


「あ?」


「レ・ポー・ト」


「あー……」


 リヒトの頬は、西日に当てられて輪郭を橙にじわりと染めている。

 輝は真珠色と暈のように入り混じったその色に魅入られそうになる自分に気づき、あえて興味なさそうに手元の資料に視線を落とした。

 節くれだったゆびさきで、図録のカバーをそっと撫でる。

 ざらりとした質感のそれは、暗緑色あんりょくしょくでかすかに青緑の光沢をしている。細やかなすじを撫でていると、舞い降りるほこりのような気持ちになってくる。穏やかで凪いだ感情だ。 いつの間にか撫でることに意識が集中し、無意識に背中を丸めると、彼が着ている紺青色のベストの毛羽立ちに、リヒトとひとしく橙の日の光がひらひらと撫で始めた。

 リヒトはそれを見やっていたが、閲覧室に漂っていたかすかなほこりが、輝のそれにふわりと落ちたのを見て、そっとかたわらの窓を開けた。金色に染まったほこりは、光を凝縮した粉雪のようで、リヒトの青いひとみの表面にまぶした金がちらつき、一度まばたきをする。


「雪舟にしようかなって考えてる」


 夕方の穏やかな沈黙を破った輝の声は、低いがよく通るものだった。


「セッシュウ?」


「ほら、水墨画家の」


「……ああ」


 輝が図録から顔を上げてリヒトの方を向く。

 その手はいつの間にか分厚いページを開いており、雪舟の一枚の絵画を指し示していた。

 リヒトはわずかに彼の方へ肩を寄せ、あどけなく目を丸くして図録を覗き込む。

 輝が示した先にあったのは、雪舟作・慧可断臂図えかだんぴずだった。ぼかしたほどの薄さで描かれた太い筆の輪郭で描かれた仏の男が、もうひとりの仏の男に切った己の腕を差し出している。仏の男は苦悶の表情を浮かべている。切った己の腕からは、水墨のモノクロの世界に似合わずあざやかな血があふれており、なまなましい痛みを表していた。

 リヒトは思わず形の良い眉をひそめた。だが、目を逸らせないほど、何か心の奥底を惹きつける魅力のある絵画だった。あまりにも有名な絵画。だからこそ伝えられ続け、人々の記憶に残り続ける。


「これ? この絵が雪舟の中で一番好きなの?」


 苦虫を噛み潰したような声出しやがって、と輝は思ったが口には出さなかった。


「まあな」


「ふうん。良いんじゃない。アキラっぽいよ」


 俺っぽいっ、てなんだよ。

 そう突っ込もうかと黒く凛々しく太い眉を寄せて隣のリヒトを見やったが、リヒトも同時に輝の方を振り返ったのか、金色の花弁のような長い睫毛に覆われた青い眸と白い頬、くっきりとした二重が目と鼻の先にあった。輝は身を固くした。

 リヒトは輝と間近で目が合うと、頬を緩くふくらませて、含み笑いを浮かべた。白い頬の頂点が、オレンジの薔薇色に染まる。彼の髪は背後の硝子窓からの逆光を受け、外側から燃えるように橙に染まり、微かな波のごとく揺れていた。

 窓からさす夕日は、透けたうすいシルクのように、幾重にもゆらめいて古い匂いの満たされた閲覧室の中を揺蕩っていた。

 今この時だけ、すべてがオレンジだった。

 時間も、光も、本たちも、リヒトと輝も、すべてがオレンジに染め上げられていた。


  輝は橙に染まるリヒトのまるい瞼とその先に広がる金の睫毛のすじを見ていてぼんやりと己の心に湧き上がるものの輪郭を触ろうとしていた。


(俺がこいつに感じてる、このよくわかんねぇ気持ちはなんなんだろうな……)


 目の前のリヒトが、どこかおぼろに見えるのは、意識を自分の感情へと移しているからであろうか。

 リヒトは輝が自分をまっすぐに見つめているのを感じ取って、うっすらと口角を上げて嬉しそうにしている。頬の頂点は桜色に染まっている。橙の空気の中でもその薄紅は、揺れるようであるが、はっきりと色彩を放っている。

 成熟しきり、あとは時を経て散るのを待つばかりの満開の花のように綺麗だと感じていた。男にこのような感情を抱くのは初めてのことだったので、その感情の輪郭に気づいたとき、彼は無意識に黒の瞳を揺らしていた。

 自分に対し、ほころぶように距離を近くし、心を開いて接してくれるようになったリヒトに対し、輝もどこか彼のことを「可愛い」と感じるようになっていた。その感情は、なんだかこそばゆい。


(俺変なのかなー。男のこと可愛いなんて思うようになるなんて)


 ポーカーフェイスで眉を少し緩め、戸惑う。


(まぁ恋愛感情ではない。確かにない)


 図録に這わせていたゆびさきを離し、両腕をゆるく組む。


(ハインベルグのことを可愛いと思っていることは確か。でもさぁ、これって男に感じてるっていうより、なんてぇの? 懐かなかった猫が、時間かけてやっと懐いてくれた嬉しさってやつ? それじゃね)


 輝は首をかくかくと動かし、自分を納得させた。誰に対しても平等な態度で接し、かつ踏み込みすぎない彼は、自分の新たな感情に戸惑っていた。

 うすい瞼を上げ、リヒトを見やる。

 オレンジのヴェールに包まれた彼は、いつもよりも儚げな印象を纏っていた。

 猫に例えるならば、チンチラゴールデンだな、と感じていた。

橙の陽によって、髪の輪郭が左から溶けて少し焦げた金に染まった女神のようなリヒトを見つめながら、輝はすんなりと素直に感じた。

 図録の古い紙を撫でるオレンジが、より一層濃くなっていく。目の端に捉えたそれが、蜜柑色の光の粒を散らばせていく。

 輝は目の前のリヒトが首を落とし、じっとそれを見つめているのを感じた。儚げなその横顔は、なめらかで少し切なげだ。橙の時の中に白さが際立っている。


「……そろそろ夕日の時間も終わりかな。僕たちもこの部屋を後にしようよ」


「ああ、そうだな」


 リヒトはこの金色の時間を振り切るかのように、ぱっと輝の方を向いた。数秒前と打って変わり、華やかで明るい笑顔の花をその白の中に咲かせている。

 輝は軽く驚いて瞬きをした。


「ねぇ、それじゃあサンドイッチでも食べに行かない?」


「あー、前の公園のところでか?」


「うん!」


 そっと真珠色のゆびさきをデスクの上に揃え、とびきりの笑顔の花を咲かせる。

 輝はきらきらとした夕日色の粒をまばらに宿しているリヒトの魅力的な顔を、動じずもはにかんだ笑顔で見やり、音を立てて席を立った。


「この前は奢ってやったけど、今度はお前が食いたいサンドはお前が金出せよな」


「わかってるって」


「今何食いたいの」


「んー、サーモンとクリームチーズとかかなぁ。輝は?」


「んー俺はー、なんだろうな……あんま腹減ってねぇからリヒトの食いっぷりでも隣で拝んでやろうかな」


「また! やめろよそんな冗談!!」


 にやけ顔で隣のリヒトを見やると、彼は紅葉のように顔を真っ赤に染めていた。


「は? なんだお前ーー」


「うっさい!!」


 輝が訝しんで尋ねる前に、リヒトは顔をしわくちゃに真ん中へ寄せると、輝の肩を片手でバンバンと叩いた。


「いって! てめえ何すんだ!」


「アキラが変なこと言うから!!」


「何も変なことなんぞ言ってねぇだろうが!」


 手の力が叩くたびに増していくので、さすがに毎日の長い自転車通学や、高校時代まで行っていた野球で鍛え上げられた輝の肩甲骨も、うっすらと赤く痛みを覚え始めていた。


「もうやめろって!」


「はは、やめてよ!」


 輝が手を伸ばして、リヒトの手をかわし、彼の白い鼻を摘もうとすると、リヒトは可笑しくなったのか頬の赤みを少し抑えてけらけらと楽しそうに笑い始めた。

 きらきらとした光のような笑い声が、輝の耳朶を麻痺させる。ここは大学の古びた歴史ある閲覧室であるのに、今彼らはあの日の木漏れ日の下にいるような、少し遠くなったあの日の青い闇に包まれていた夜会のシャンデリアの下にいるような。

 その光を錐のように刺したのは、とある女の声だった。重く気だるく響いたその声は、金色の気配を黒く壊すものだった。



 

「おわっぷ……!」

「ははっ、アキラ。大丈夫?」

 リヒトのけらけらとした笑い声だけが、この薄暗い書庫にある、金色のともしびのようだった。

 輝とリヒトは学科の閲覧室にふたりでいた。

 他の学生はもうすでにおらず、扉の開いた書庫と、隣にあるデスクがいくつか置かれた閲覧室。夕日が窓ガラスからいくすじか差し込み、使い込まれて飴色になったデスクの表面を舐めている。きらきらとした鈍い火の粉は、ほこりが夕日色に染められて穏やかに舞い降りているもの。

 今だけーー今だけ、そこは彼らだけのものとなっていた。

 輝はリヒトと共に書庫で選んだ数冊の論文集や図録を両腕に抱えて、閲覧室へと移動した。

「レポートとかマジでめんどい……。なんで文学部なんかに入っちまったんだろうって思うわ」

「4000字とか5000字書いてるとき、自分って文章のマゾなんじゃないかって思うときあるよね」

「あるある」

 他愛無い会話をしながら、リヒトの方が窓に近い席へ、輝がその隣へと座った。

「アキラは何について書くの?」

「あ?」

「レ・ポー・ト」

「あー……」

 リヒトの頬は、西日に当てられて輪郭を橙にじわりと染めている。

 輝は真珠色と暈のように入り混じったその色に魅入られそうになる自分に気づき、あえて興味なさそうに手元の資料に視線を落とした。

 節くれだったゆびさきで、図録のカバーをそっと撫でる。

 ざらりとした質感のそれは、暗緑色あんりょくしょくでかすかに青緑の光沢をしている。細やかなすじを撫でていると、舞い降りるほこりのような気持ちになってくる。穏やかで凪いだ感情だ。 いつの間にか撫でることに意識が集中し、無意識に背中を丸めると、彼が着ている紺青色のベストの毛羽立ちに、リヒトとひとしく橙の日の光がひらひらと撫で始めた。

 リヒトはそれを見やっていたが、閲覧室に漂っていたかすかなほこりが、輝のそれにふわりと落ちたのを見て、そっとかたわらの窓を開けた。金色に染まったほこりは、光を凝縮した粉雪のようで、リヒトの青いひとみの表面にまぶした金がちらつき、一度まばたきをする。

「雪舟にしようかなって考えてる」

 夕方の穏やかな沈黙を破った輝の声は、低いがよく通るものだった。

「セッシュウ?」

「ほら、水墨画家の」

「……ああ」

 輝が図録から顔を上げてリヒトの方を向く。

 その手はいつの間にか分厚いページを開いており、雪舟の一枚の絵画を指し示していた。

 リヒトはわずかに彼の方へ肩を寄せ、あどけなく目を丸くして図録を覗き込む。

 輝が示した先にあったのは、雪舟作・慧可断臂図えかだんぴずだった。ぼかしたほどの薄さで描かれた太い筆の輪郭で描かれた仏の男が、もうひとりの仏の男に切った己の腕を差し出している。仏の男は苦悶の表情を浮かべている。切った己の腕からは、水墨のモノクロの世界に似合わずあざやかな血があふれており、なまなましい痛みを表していた。

 リヒトは思わず形の良い眉をひそめた。だが、目を逸らせないほど、何か心の奥底を惹きつける魅力のある絵画だった。あまりにも有名な絵画。だからこそ伝えられ続け、人々の記憶に残り続ける。

「これ? この絵が雪舟の中で一番好きなの?」

 苦虫を噛み潰したような声出しやがって、と輝は思ったが口には出さなかった。

「まあな」

「ふうん。良いんじゃない。アキラっぽいよ」

 俺っぽいっ、てなんだよ。

 そう突っ込もうかと黒く凛々しく太い眉を寄せて隣のリヒトを見やったが、リヒトも同時に輝の方を振り返ったのか、金色の花弁のような長い睫毛に覆われた青い眸と白い頬、くっきりとした二重が目と鼻の先にあった。輝は身を固くした。

 リヒトは輝と間近で目が合うと、頬を緩くふくらませて、含み笑いを浮かべた。白い頬の頂点が、オレンジの薔薇色に染まる。彼の髪は背後の硝子窓からの逆光を受け、外側から燃えるように橙に染まり、微かな波のごとく揺れていた。

 窓からさす夕日は、透けたうすいシルクのように、幾重にもゆらめいて古い匂いの満たされた閲覧室の中を揺蕩っていた。

 今この時だけ、すべてがオレンジだった。

 時間も、光も、本たちも、リヒトと輝も、すべてがオレンジに染め上げられていた。

 

 輝は橙に染まるリヒトのまるい瞼とその先に広がる金の睫毛のすじを見ていてぼんやりと己の心に湧き上がるものの輪郭を触ろうとしていた。

(俺がこいつに感じてる、このよくわかんねぇ気持ちはなんなんだろうな……)

 目の前のリヒトが、どこか朧おぼろに見えるのは、意識を自分の感情へと移しているからであろうか。

 リヒトは輝が自分をまっすぐに見つめているのを感じ取って、うっすらと口角を上げて嬉しそうにしている。頬の頂点は桜色に染まっている。橙の空気の中でもその薄紅は、揺れるようであるが、はっきりと色彩を放っている。

 成熟しきり、あとは時を経て散るのを待つばかりの満開の花のように綺麗だと感じていた。男にこのような感情を抱くのは初めてのことだったので、その感情の輪郭に気づいたとき、彼は無意識に黒の瞳を揺らしていた。

 自分に対し、綻ほころぶように距離を近くし、心を開いて接してくれるようになったリヒトに対し、輝もどこか彼のことを「可愛い」と感じるようになっていた。その感情は、なんだかこそばゆい。

(俺変なのかなー。男のこと可愛いなんて思うようになるなんて)

 ポーカーフェイスで眉を少し緩め、戸惑う。

(まぁ恋愛感情ではない。確かにない)

 図録に這わせていたゆびさきを離し、両腕をゆるく組む。

(ハインベルグのことを可愛いと思っていることは確か。でもさぁ、これって男に感じてるっていうより、なんてぇの? 懐かなかった猫が、時間かけてやっと懐いてくれた嬉しさってやつ? それじゃね)

 輝は首をかくかくと動かし、自分を納得させた。誰に対しても平等な態度で接し、かつ踏み込みすぎない彼は、自分の新たな感情に戸惑っていた。

 うすい瞼を上げ、リヒトを見やる。

 オレンジのヴェールに包まれた彼は、いつもよりも儚げな印象を纏っていた。

 猫に例えるならば、チンチラゴールデンだな、と感じていた。

橙の陽によって、髪の輪郭が左から溶けて少し焦げた金に染まった女神のようなリヒトを見つめながら、輝はすんなりと素直に感じた。

 図録の古い紙を撫でるオレンジが、より一層濃くなっていく。目の端に捉えたそれが、蜜柑色の光の粒を散らばせていく。

 輝は目の前のリヒトが首を落とし、じっとそれを見つめているのを感じた。儚げなその横顔は、なめらかで少し切なげだ。橙の時の中に白さが際立っている。

「……そろそろ夕日の時間も終わりかな。僕たちもこの部屋を後にしようよ」

「ああ、そうだな」

 リヒトはこの金色の時間を振り切るかのように、ぱっと輝の方を向いた。数秒前と打って変わり、華やかで明るい笑顔の花をその白の中に咲かせている。

 輝は軽く驚いて瞬きをした。

「ねぇ、それじゃあサンドイッチでも食べに行かない?」

「あー、前の公園のところでか?」

「うん!」

 そっと真珠色のゆびさきをデスクの上に揃え、とびきりの笑顔の花を咲かせる。

 輝はきらきらとした夕日色の粒をまばらに宿しているリヒトの魅力的な顔を、動じずもはにかんだ笑顔で見やり、音を立てて席を立った。

「この前は奢ってやったけど、今度はお前が食いたいサンドはお前が金出せよな」

「わかってるって」

「今何食いたいの」

「んー、サーモンとクリームチーズとかかなぁ。輝は?」

「んー俺はー、なんだろうな……あんま腹減ってねぇからリヒトの食いっぷりでも隣で拝んでやろうかな」

「また! やめろよそんな冗談!!」

 にやけ顔で隣のリヒトを見やると、彼は紅葉のように顔を真っ赤に染めていた。

「は? なんだお前ーー」

「うっさい!!」

 輝が訝しんで尋ねる前に、リヒトは顔をしわくちゃに真ん中へ寄せると、輝の肩を片手でバンバンと叩いた。

「いって! てめえ何すんだ!」

「アキラが変なこと言うから!!」

「何も変なことなんぞ言ってねぇだろうが!」

 手の力が叩くたびに増していくので、さすがに毎日の長い自転車通学や、高校時代まで行っていた野球で鍛え上げられた輝の肩甲骨も、うっすらと赤く痛みを覚え始めていた。

「もうやめろって!」

「はは、やめてよ!」

 輝が手を伸ばして、リヒトの手をかわし、彼の白い鼻を摘もうとすると、リヒトは可笑しくなったのか頬の赤みを少し抑えてけらけらと楽しそうに笑い始めた。

 きらきらとした光のような笑い声が、輝の耳朶を麻痺させる。ここは大学の古びた歴史ある閲覧室であるのに、今彼らはあの日の木漏れ日の下にいるような、少し遠くなったあの日の青い闇に包まれていた夜会のシャンデリアの下にいるような。

 その光を錐のように刺したのは、とある女の声だった。重く気だるく響いたその声は、金色の気配を黒く壊すものだった。

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