第一話 リヒトとルドルフ
古きドイツの闇は、透き通るようだった。
ゆびさきをそっと空気の中にかざすと、肌に溶けて消えてゆく。
指を蝋燭にして、月光を先に灯 ともすような、僕と弟の冬のあそびだった。
僕たちが生まれた時から住んでいるハインベルグのお屋敷は、墨を刷いたような漆黒の夜闇の中でも、蒼白くひかっていた。まるで嘘の空に、地上に月光があると示している。
人里離れた森の中に、ぽかんと浮くように建っている僕らの屋敷を、訪れ、帰る人は「怖い」というのだが、僕は馬車で街に出掛けて人込みに晒されるよりも、永遠にこの屋敷の中で弟のルドルフと共に過ごす方が良いと思っていたし、その願いは変わらずに続くと信じ切っていた。
夜風は鬱蒼とした森を揺らし、音を鳴らす。
僕は深夜にうすく瞳を開けた。
隣で眠るルドルフが、その風の音を聴きながら、安らかに眠っているのを見たことがある。彼の髪と同じ、金に白をひとしずく混ぜたような、淡いブロンドの睫毛が揺れて、月のように光っていた。
僕にとっての月は空ではなく、隣にあった。
――あの辛く悲惨な日が来るまでは。
「チェックメイト」
本棚で四方を覆った壁の、大きな部屋の中央で、まだ成長途中の13歳だった僕たちは、丈の長い椅子に座って盤を広げ、チェスを打っていた。
白のポーンを指で摘まみ、ルドルフの黒のキングの前に置く。
ルドルフはしばらく、サファイア色の大きな瞳でじっとキングを見つめていた。海のように深く、覗くと透き通った輝きを見せるその瞳は、僕のひとみと同じ色だった。
やがてルドルフは形の良い金の眉を寄せると、あからさまに残念そうな顔で肩を落とす。
「ああ、また負けた。やっぱリヒト兄さんは強いなぁ」
彼が白い手を後頭部に回し、がしがしと頭を掻くと、線の細いやわらかなホワイトブロンドが、庭に面した大きな硝子窓から差し込むしろい陽射しに当たって、きらきらと煌めいて落ちる。
僕と同じ色艶をした弟の髪が、天へ惹かれて舞い上がっていくのを、チェスの黒白を見るふりをしながら、ちらちらと見ていた。
「ねえ! もう一回やってよ! お願い!」
ルドルフが身を乗り出し、僕に顔を近付ける。彼の着ている白いシャツの、首元で結んだ赤いリボンが、ひらりとひとつ揺れた。
僕は考えるふりをして顎に手をつけた。だが答えはもう決まっていた。
「いいけど。また僕が勝っちゃうよ?」
そんな意地悪なことを言っていても、僕はルドルフともう一度チェスがやりたいと思っていた。
「ありがとう! リヒト兄さん」
ルドルフは手を胸の前で合わせてぱっとあかるい笑顔の花を咲かす。
僕はそれを見て満足して、口角をうっすらと上げた。
互いのチェスを崩し、再び盤の上で立てる音が室内に響く。
結局僕は弟に弱いのだ。僕と同じ顔をした、同い年のこの弟に。
ハインベルグ家の中庭には、広いテニスコートがある。僕はそのテニスコートでよく父とテニスをして遊んでもらうのが好きだった。一方運動音痴なルドルフは、僕たちがテニスに誘っても一向にのらず、テニスコートが見える位置の木陰に腰を下ろして、分厚い本を読んでいるのがいつもの光景だった。
だが今週の日曜日は、何故かルドルフは僕の誘いに乗って、珍しく僕とテニスをすることになった。
何故急にテニスをしてくれることになったんだろう。わからないが、積極的な弟の態度はとても嬉しかった。得意不得意が双子なのに違っている僕らは、いつも趣味が合わないが、互いが互いを肯定し、認め合って成り立っている。ルドルフは僕に合わせようとしてくれているのかもしれない。
確かに、父とテニスをすることもとても楽しいが、大好きな弟と大好きなテニスが出来ることは、何にも代えられない喜びだ。
「ルドルフ、行くよ!」
「う、うん!」
僕の右手に掴まれた黄色いテニスボールが、天へ高く舞い上がる。父とよく使っているので、少し毛羽立っているテニスボールは、5月の太陽のひかりで、うっすらと金色の糸を纏っているように見えた。太陽と重なると、逆光となって黒い点となる。そしてルドルフのコートへと加速度を増して降りてゆく。
ルドルフは天高く昇ったテニスボールを茫然と見上げていたが、徐々に自分の元へ近づいて来るにつれて、動揺し、あたふたと体を動かした。白いシャツを腕まくりした、彼の華奢な腕に掴まれたブルーのテニスラケットが震えているのが、こちらのコートからもはっきりと見える。
「あっ、あっ、あっ」
ようやく地面へと降り立とうとするテニスボールに、ルドルフの動揺はさらに大きく鳴り、どっちつかずに左右へ大きく揺れる。だが、面を天へ向けて変な構えをした彼のラケットにボールは落ちることはなく、狙ったように彼の額と鼻の間にぶつかり、勢いをなくして彼のコートへぽとり、と落ちた。
「あいたっ」
ルドルフは一拍置いて尻餅をついた。
緑のやわらかなテニスコートは、彼の体を傷つけることはなかったが、彼は両手できつく握っていたラケットを手から落とした。そして上半身を両腕で支えると、胸を張るように天へ向け、鼻をゆびさきで擦る。
「ルドルフ!」
僕は自分の赤いラケットを右手に握ったまま、ルドルフへ向かって駆けた。
「大丈夫か?」
僕がルドルフの傍へ膝をつき、彼の後頭部と背中に手を入れて支えると、ルドルフは僕に気付いてこちらを見た。サファイア色の彼の大きな瞳が揺れていた。
「兄さんごめん。せっかく兄さんが投げやすい球出してくれたのに」
「ほら、掴め」
僕は彼の背中から左手を離すと、彼に向かって手を差し伸べた。
ルドルフは僕の白いてのひらをしばらく茫然と見つめていたが、やがてゆっくりと片手を僕のてのひらの上に乗せた。彼の少し冷えたてのひらを感じると、僕はぎゅっと掴み、力を入れて彼を引っ張り上げて立ち上がった。
互いにしっかりと両脚がコートの上に立ったのを確認すると、ルドルフは僕の手を離し、代わりに微笑みを浮かべた。
「兄さんはすごいや。ボク、テニスもできやしない」
「何言ってるんだ。君は絵も上手いし、読書家じゃないか」
「兄さんはチェスと乗馬とテニスが上手い。僕達見た目はそっくりな双子だけど、得意不得意は似てないね」
「確かに」
ルドルフはそういうと、微笑みが徐々にうすれ、真顔になった。そして俯く。
一方その時の僕は、彼の様子に気付かず、ずっと笑ってしまっていた。今にして思えば、僕は馬鹿だった。何故あのとき、彼の変化に気付いてあげられなかったのだろうと、時々、自分で自分の胸を引き裂いてしまいたい衝動に駆られる。