四五 無愛想なやつ
カチン。
微かな音をたてて指の先くらいの透明な塊が、石の床に落ちる。
──これ……貰って……いいのよね?
おそるおそるつまみあげた。
──案内人さんは、なんて言ってたんだっけ……?
他人の水晶を奪うと、壊れるんだったか、戻るんだったか。
よく覚えていない。
今のところまだ、水晶は砕けないし、消えてもいない。
ロータは水晶を出したのが自分ではないと思っているような言いかたをしていた。
──どういうこと?
ハジュメ村では、五歳の幼児でも『感謝の水晶』のことを知っていたのに。ここでは違うのだろうか。
それとも知らないのはロータだけなのか。確かに才気煥発なタイプではなさそうだけれど。
──まぁ……いいか……
よく考えてみれば、マレビトとバレてもたいした問題はない。ここまで連れてきた隊商の人々も、ジェイとその仲間も知っていることだ。
圭太が文句を言うのが面倒臭いだけ。
杏子は手の中の水晶へ目を落とす。
まだ消えていない。
──ラッキー。大したこと、してないのに……
ハジュメ村で水晶が出るほどの感謝を得るのは、かなり難しかった。命にかかわるとか、そのレベルの働きが必要だったのだ。
──あ! もしかして〈多幸運〉?
部屋を出てきたとき、〈多幸運〉のおはじきを一つ投げた。そのおかげで水晶が手に入ったのなら、納得できる。
──そっか。こういう運も百万円分に入るわけね……あと、何個残ってたっけ?
いつも腰につけている巾着袋を開けたところに、不機嫌な声がした。
「朝メシ」
声変わり前の高音でも、口調は百パーセント十七歳思春期の息子だ。
杏子は急いで水晶を巾着袋へ放りこみ、口に紐を巻く。
「あら、圭ちゃん。起きたの? 迷子にならないで、ちゃんと来れたのね。凄いじゃないの……ママねぇ、ロータさんに『感謝の水晶』もらっちゃった! あ、ロータさんっていうのは、ここのお屋敷の家政婦さんでね、通いなんですって。足をくじいちゃったから、ママ、手伝ってあげたのよ。それで水晶がでてきたなんて、不思議じゃない?」
巾着袋を腰につける杏子を一瞥して、圭太はふんと鼻を鳴らす。
「ババァってのは、よく喋るよな。くっだらねーことばっかよー」
その言いかたとスツールに座りこむ態度でわかった。
圭太はしばらく前に台所へ来たに違いない。ロータがいたから廊下に隠れていたのだ。引きこもりの癖がまだ治っていない。
──ちょっと顔を出して、おはようございます、とか、こんにちは、とか言ってくれればいいのに……
ロータだって、十二か三に見える女の子に大した話は振らないに決まっている。簡単な挨拶さえしてくれれば、すぐに朝ごはんを作ってあげたのに。
──朝……昼か、もう……
太陽の位置を見て訂正する。
それでも圭太には充分早起きだ。家にいたころは日が暮れてから起きてくることも珍しくなかった。
──ここには電気がないものね……
そのおかげで、昼夜逆転は物理的に不可能になっている。それを考えると、ここの生活も悪いことばかりじゃない。
そんなこんなをつらつら考えつつ、杏子の身体は自然に動く。
朝食の残りのベーコンと卵と野菜でオムレツを作り、パンを切る。
スープに味をつけてはいけないと、ロータは念を押していった。魔法使いの好みの塩加減は難しいらしい。だからスープはボウルによそってから塩とスパイスを加える。
テーブルにだしてやると、圭太はものも言わずに飛びついた。
「いただきます」
さっき朝食を食べたばかりの気がするのに、しっかり食べられるのは、この身体がとても健康だから。荷馬車に閉じこめられていたときと違って、身体を動かしたから余計に気持ちよく腹が減る。
──運動不足、だったよね……
荷車の中で一週間、ちゃんと立つことも歩くこともできなかった。その後なのに、昨日は家具を覆っていた重い布を何枚もはがして振り回した。
そんなことをしたら絶対にくる腰や肩や背中や腕の痛みは、一つもない。
今朝からずっと水汲みや掃除に動きまわっていても、ちょっとお腹がすくだけ。
胡椒多めのピリッとしたスープと、暖炉であぶったパンとバターが美味しくて、幸せ。
──それに、圭ちゃんも、部屋に閉じこもってないで、一人で出てきた!
少女の姿とはいえ、息子が歩きまわっている。
この五年間の悲願がかなったのだ。
幸せでないはずがない。
──あとは、せめて挨拶ができるようになってくれたら……
笑顔と挨拶。
それだけで、他人との交流はぐんと簡単になる。普通に暮らせる。
──急いじゃだめ、なんだっけ……フリースクールの先生が、言ってたじゃないの!
頭を振って頬をぱんと叩くと、圭太の肩がびくっとした。
「あ、大丈夫よ、圭ちゃん。ママは……」
言いかけて、息子の視線がこっちに向いていないことに気がつく。次に、石がこすれるような音にも。
「あ。おはようございます。魔法使いさん……お食事ですか?」
身体をひねりつつ腰を浮かす。
昨日、確かに名乗ってくれたと思うのだけれど、一欠片も覚えていない。
もともとカタカナ系の名前は、右の耳から左の耳へ抜けてしまうたちだ。ニータとかロータとかジョンとかジェイとか、短い名前は覚えられるけれど、魔法使いの名前はやたらめったら長かった。間違えて怒らせるより、ロータと同じ呼び方が無難である。
魔法使いは台所を見回して、白く長い眉を少し寄せた。それから重々しくうなずく。
「マレビトがいたのだったな……うむ。食事じゃ」
「お先に頂かせてもらってます。よろしかったら、ご用意しましょうか? なにを召し上がられます? スープはロータさんが作っていってくれたもので、もう充分よく煮えてます。オムレツかハムエッグかなにか、作りましょうか? ソーセージのボイルとかは、いかがです?」
尋ねながら、奥の用具室へ行き陶器のスープ皿を出してくる。少々割れやすいけれど、屋敷の主人に木のボウルというわけにはいかないだろう。
魔法使いはなぜか面喰った顔になった。
「う…………むむむ」
口の中で唸るのを肯定の返事と受け取る。夫もだいだいこんな感じだから、明確な返事がないのには慣れているのだ。
スープをよそい、別の小皿に塩とスパイスを一つまみずつのせて出す。ついでに、取ってきておいた新しめの布巾を折って、スプーンとフォークとナイフを並べる。どのサイズのどの形が正しいカトラリーなのかわからないから、適当だ。文句を言われたら、別のを取ってくればいい。
魔法使いが普段好んでいるという、しっとり黒パンも薄くスライスして平皿に並べ、バターの塊を端にのせる。
「卵はどうします? 目玉焼き……チーズオムレツやスクランブルエッグなら、すぐできますけれど?」
「いらん」
枯れ木のような手が振られた。
「え? でも、卵は完全栄養食品なんですよ。昔はコレステロールが良くないって言われてたんですけれど、最近では、老人も食べたほうが健康になるって……あ、それじゃ、チーズはいかがです? スープのベーコンだけでは、タンパク質が足りないですし……」
一粒か二粒の塩と、緑色のスパイスをスープに落としかき混ぜる魔法使いが、杏子をじっと眺めてくる。
慌てて杏子は口を閉じた。
さっき圭太が言った通りだ。おばさんのお喋りは長くなりがち。台所仕事をしていたせいで、つい、いつもの調子になってしまった。他人の家の台所だというのに。
圭太は完全に他人のふり。ほとんど気配も消えている。
「すみません。よく知らなくて……魔法使い様は、いつも、スープとパンだけしか、召し上がらないんですか?」
害のない笑みを作って訊く。
魔法使いはスープを一口飲み、パンを口に入れた。ゆっくりと噛んでのみこんでから、ようやく口を開く。
「マレビトは、世界の外から来ると言われておる。キョーコーは、世界の外の世で、家庭教師かなにかをしておったのかね?」
「あ、いえ。わたしはただの主婦です。子供を二人育てたもので、つい、子供にするように言ってしまって……」
「ふうむ……」
考えこんだ様子で、魔法使いは黄色のスパイスを少し足す。スープは明るい黄緑になった。
「クリームは、あるかね?」
「あ。出してきます」
一番小さい小鉢に生クリームを注いで渡すと、魔法使いはたっぷりとスープにかけた。スープがパステルカラーになる。食事というよりスイーツみたいな色合いだ。
なにか考えている様子の魔法使いは黙々とパステルスープと黒パンを口へ運ぶ。
杏子は黙って自分の食事を終えた。
ちょっとでしゃばりすぎたかもしれない。
卵を食べなくても、魔法使いはこの年齢まで生きてきたのだ。それで大丈夫な体質なのだろう。
もちろん本当の年齢を知っているわけではないけれど、見た感じは七十かそこらの元気なお年寄りに見える。認知症とは無縁だろうなと思わせる様子だ。
食事を終えた魔法使いはカトラリーをのせていた布巾で口元を拭った。
見計らって、杏子は暖炉の端にかけておいた小鍋から熱いミルクをカップに注ぎ蜂蜜を垂らして出す。
「デザートがわりにいかがですか? 温まりますよ」
圭太が小さく舌を鳴らした。余計なことをするなと言っているらしい。
魔法使いは奇妙なものを見るような目つきで、カップと杏子を交互に見た。杏子は安心させようと微笑む。
「大丈夫です。変なものじゃないですから。さっきまでいた家政婦のロータさんに教わった作りかたですから」
魔法使いが一口すすり、長い息を吐く。
「……マレビトは……」
「はい? なんですか?」
甘いホットミルクを飲んでくれた嬉しさで聞き逃した杏子は、明るく訊き返す。
魔法使いは咳払いした。
「マレビトは皆、遠い世界、この世ならぬ場所からやって来ると言われておる。それは本当かね?」
「あ、はい。そうです」
凄い目をした圭太は無視する。少なくとも案内人は、それを秘密にしろと言わなかった。それなら嘘をつかなくてもいいのじゃないだろうか。
「その旅は、肉体を伴わぬものなのか?」
「あ、はい。そうです」
気楽に答えた瞬間、圭太が鋭く息を吸った。
──ん? さっきの質問と、なにか違ってたっけ……?
考える暇もなく、魔法使いが言葉を継ぐ。
「元来の肉体と、今の姿は、どのくらい似ておる?」
「えーと……全体の形は一緒です。手が二本足も二本、頭は一つで、目鼻口の位置や形も大体一緒ですけど……似ているかって言われると……うーん…どうかなぁ」
普通に返事していると、圭太が光線でも出しそうな眼で睨んでくる。
──えー? だって、ほかにどう答えたらいいのよ? 怒るんなら、圭ちゃんが返事すればいいじゃない……
圭太が話を引き受けてくれるなら、杏子は黙っても構わないのだ。だけど二人でだんまりをする気はない。
失礼すぎる。
魔法使いは悠然とホットミルクを飲む。
「ふむ。確かに、メイドと同じ味だ。ということはだ。キョーコー、お前は、元来、女なのではないかね?」
杏子は圭太を窺ったけれど、睨んでちょっぴり首を左右に動かすだけで、かわりに話をしてくれる気配はない。指示もしてこないから、杏子はいつもどおりにするしかなかった。
「あ、はい。そうですけど……」
「では、この娘は?」
突然指さされて、圭太がたじろぐ。
杏子はうなずいた。
「わたしの息子です」
魔法使いが手をひらめかせると、いつの間にか石板とチョークを手にしていた。
「本来の性別と、ここでの性別は、必ず逆転するのか?」
「あ、いえいえ。偶然です。この前出会ったマレビトさんは、向こうでもこちらでも、男性でしたし」
ルーレットの〈男〉と〈女〉はほぼ半々。確率は同じだ。
魔法使いが片眉を動かす。
「偶然? なぜ、そう言いきれる? 何らかの法則が見えぬだけではないのか?」
「あ、そうですね。えーと、ルーレットを回して止まるときの法則ですよね」
「るーれっと?」
「あ、えーと……なんて言ったらいいのかな……」
こういうものだと知っているものを口で説明するのは難しい。
首をひねる杏子を、魔法使いはじっくりと眺めた。次に、圭太へと目を向ける。
圭太はうつむいたまま動かない。
やがて魔法使いはうなずいた。
「よい。また時間を取って話を聞こう」
岩人形が立ちあがる。
杏子は急いで声をかけた。
「ちょっと、いいですか?」
岩人形の腕に腰かけている魔法使いへ、確認する。
「昨夜、ジョン・スミスさんに言われたんですけれど、この屋敷の、鍵のかかっていない場所のものは、自由に使っていいというお話、本当ですか? 案内されたお部屋には、どなたかのお洋服が、たくさん掛けられていたので、何枚かお借りしているんですけれど……」
魔法使いは興味を失ったように、枯れ木の手を振る。
「服は、お前達のために用意させたものだ。好きにして良い」
「えええっ? そんな……ありがとうございます」
「うむ」
身体を返す魔法使いへ、杏子はもう一度声をかけた。
「あ! それと、物置とか納戸とか、奥の噴水なども……?」
「お前達が手を触れるべきでない、特別な部屋には、鍵がかかっておる。そこは開けてはならぬ。ゴーレムも決して壊してはならぬ。それだけは、心せよ」
「はい! わかりました!」
とってもわかりやすい指示。夫や圭太の話はいつもひどくわかりにくいから、これはありがたい。見習ってほしいものだ。
「それでは、窓とか開けて、お掃除しても構いませんか? このお屋敷、ちょっと暗くて湿気ぽいですよね。このままでは病気になりそうで、心配なんです」
もちろん〈頑健〉な杏子は大丈夫だろうけれど、圭太が心配だ。華奢でひ弱そうな体形は、埃やダニにすぐやられてしまいそう。
魔法使いはもう、振り返りもしなかった。
「細かいことはポチに訊け。儂は忙しい。記録と分析にかからねばならぬ」
「あの、ポチさん、じゃなくて、ジョン・スミスさんって、どういう人なんですか? なんか、影から出てくるし……」
魔法使いは当然の顔でうなずく。
「あれはヴァンパイアじゃ。吸血鬼の一種、上位種じゃ。だが心配はない。あれは安全じゃ。人は襲わぬ」
──は? ヴァンパイア? キュウケツキ?
意味がとれない。
──ヒトハオソワヌって……どういうこと?
混乱しているうちに、魔法使いが空中に呼びかける。
「ポチ! マレビトの世話! お前がすると言ったであろう?」
なんだかペットの世話をしろと言っているみたいだ。
「我が主。ワタクシは、ジョン・スミスと……」
「わかった、わかった。頼んだぞ」
岩人形の腕から手を振って、魔法使いは行ってしまった。
「ま、待って……」
追いかけようとした杏子の前に、影が立ちあがる。長く伸びた影は長身のジョン・スミスになった。
「我が主の邪魔は許さぬ、マレビト」
ハイソでセレブな空気をまとったジョン・スミスより、偏屈な老魔法使いのほうが話しやすいのだけれど、それはいけないことらしい。
ちょっと気後れするけれど、杏子ももう小娘じゃない。五十歳にもなれば心臓に毛が生える。
──ジョン・スミスさん、どう見ても、人間よねぇ……
無理に見れば、肌が白すぎるかもしれない。白いを通りこして青っぽい。鼻は細くて長くて、日本人の顔とは明らかに違う。
とりあえず、杏子は人好きのする笑顔を作った。
「ジョン・スミスさんって、人間ではないんですよね? ヴァンパイアって、なんですか?」
侮蔑の目が返ってきた。
本来の身長と違って、今の杏子はものすごく背が高い。一九〇センチのジョン・スミスより、さらに十センチばかり大きいのだ。
それなのに、細い鼻筋ごしに見下された。
──すごぉーい。さすがは、セレブ!
ぱちぱちと手を叩きたいところだけれど、そんな子供じみたことをしない程度の常識はある。
ジョン・スミスは、圭太よりだいぶ品良く鼻を鳴らした。
「愚かな。なぜ、我が主は、このようなモノを研究なさるのだ? 主の気まぐれにも、困ったもの……」
──はいはい。そうでしょうとも!
気に入られていないのは、よくわかる。
だからといって、快適な暮らしを諦めるつもりはない。二人の子供を持つオバサンは、湿気や埃を放っておけないのだ。
ヴァンパイアやキューケツキがなんだろうと、この際どうでもいい。
自分に気合を入れて、一気に話す。
「このお屋敷、家事をしているのは、ロータさんだけなんですよね? だから、わたし達の部屋や廊下、埃が凄いんです。それで、お掃除したいんですけど、いいですか? ロータさんに教えてもらったんですけれど、納戸や物置の道具を使わせてもらいたいんです」
なんとか言いたいことを言えた。杏子は肩で息をする。
──やった! セレブに言ってやれた!
ジョン・スミスはたじろいだように一歩下がった。
ここで引くわけにはいかない。
埃にはダニがいる。テレビでハウスダストを調べたら、六畳一間に何十万匹だか何億匹だかのダニがいたと言っていた。減らすには、こまめな掃除と換気が最も有効だとも。
人間じゃないジョン・スミスは平気かもしれないけれど、杏子達は違う。
「あの。人間は、埃とかダニとかバイキンで、病気になるんです。だから、お掃除させてください!」
いつの間にかジョン・スミスを壁際に追い詰めてしまっていた。火事場の馬鹿力っていうのは、こういうことだろうか。
違うか。
単に図体の大きさのせい。
助けを求めるように、ジョン・スミスが左右を見る。
もちろん魔法使いの姿はとっくにない。
圭太は窓の外を眺めている。誰にも加勢する気はないようだ。
不意にジョン・スミスの身体が溶け始めた。背後の影へするすると入っていく。
「待って! どれに触っていいのか、いけないのか、はっきり言っといてもらわないと、わたし、適当にやっちゃいますよ!」
「どうぞ……」
完全に消える前に、確かにそう聞こえた。
杏子は影に向かって声を張りあげる。
「知りませんからね! めちゃくちゃにしちゃっても!」
返事はなかった。




