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九話「残響の怪物」

 中央区地下第七街区。


 合同訓練中に発生した星脈異常から、一夜が明けていた。


 地上へ通じるすべての出入口は封鎖され、周囲には星務庁の監視装置が設置されている。


 橘灯子の身体。


 強制クラフトを引き起こした黒い装置。


 現場に残されていた星素。


 そのすべてを回収したはずだった。


 午前八時十二分。


 地下第三層へ入った合同調査班から、最初の異常が報告された。


《こちら第三調査班。工房区画へ到着しました》


 五人の調査員が、灯子の倒れていた工房へ足を踏み入れる。


 前日の高熱によって、壁や天井は黒く焼け焦げていた。


 床には、冷えて固まったガラスが散乱している。


 そのはずだった。


《おかしい》


 先頭を歩いていた調査員が立ち止まる。


《回収記録と現場の状態が一致しない》


《具体的に報告してください》


 地上の管制員が応じる。


《ガラスが減っています。鉄骨と配管の一部もなくなっている》


《撤収時の映像と照合します。その場で待機を》


《いえ、待ってください。床に何か――》


 調査員が照明を下へ向ける。


 コンクリートの床に、太い溝が刻まれていた。


 重い何かを引きずったような痕跡。


 工房の中心から始まり、崩れた壁の向こうへ続いている。


《移動したのか?》


《何がです》


《分かりません。ですが、この痕跡は昨日の映像にはありません》


 一人が携帯型観測器を取り出す。


 生体反応はない。


 温度にも大きな異常はない。


 しかし、地下第三層の奥から微弱な星素反応が検出されている。


 一定ではない。


 収縮と膨張を繰り返すように、規則正しく数値が上下していた。


《星素脈動を確認。間隔、〇・八秒》


《〇・八秒……?》


《橘灯子の心拍と同じです》


 五人の間に沈黙が流れる。


 灯子の心臓は、既に止まっている。


 身体もアストラ本部へ搬送され、この地下には存在しない。


 それでも、彼女の心拍と同じ間隔で何かが脈打っている。


《第三調査班、直ちに撤収してください》


 地上の管制員が命じる。


《繰り返します。調査を中断し、第二層まで――》


 通信へ、別の音が混じった。


 硬いもの同士が擦れ合う音。


 調査員たちのものではない足音。


 一歩ごとに、床のコンクリートが砕けている。


《誰かいる》


《生体反応は?》


《ありません》


 調査員が照明を通路の先へ向ける。


 暗闇の奥で、赤黒い光が点滅した。


 一度。


 〇・八秒の間隔を置いて、もう一度。


 光は、人の頭よりも高い位置にある。


《後退しろ》


 調査員たちがゆっくりと下がる。


 闇の中から、半透明の腕が伸びた。


 幾層ものガラスによって形作られた、巨大な腕。


 その内側には、鉄骨と配管が骨のように通っている。


《走れ!》


 五人が一斉に背を向けた。


 直後、地下第三層を轟音が揺らした。


《第三調査班、応答してください!》


 返事はない。


 代わりに通信端末が、一人の女の声を拾った。


「みんな……逃げられる?」


 掠れた声。


 それは、前日に亡くなった橘灯子の声と完全に一致していた。


     ◇


 警報を受けてから八分後。


 第二層中央区画に、青白いゲートが開いた。


 御影遼河を先頭に、界航隊と森羅隊が地下へ足を踏み入れる。


 遼河の隣では、相馬千景が床へ界錨を刻んでいた。


「地上側との座標固定、完了しました。周辺の空間にも異常はありません」


「ゲートは維持しろ。調査班を確保次第、ここから地上へ戻す」


「了解しました、御影隊長」


 遼河が地下第三層へ続く階段を見る。


 昨日、鷲宮彩乃の白亜と片桐茜のツグカネによって補強された避難路。


 その一部が、内側から抉り取られている。


「使われているな」


 遼河が破損箇所へ手を触れる。


「白亜だけじゃない。既存の鉄骨まで持っていかれてる」


《消失した物質は、第三層の星素反応地点へ集まってるみたい》


 通信端末から扇原蘭の声が届く。


《生体反応は確認できない。でも、動いてるものが一つあるよ》


「大きさは?」


《現在は推定三・八メートル。今も少しずつ増えてるの》


「物質を取り込んで成長しているのか」


《その可能性が高いね》


 遼河の後方に、天城・イワノワ・碧が立っていた。


 その傍らには、森羅隊副隊長の神楽坂玲がいる。


 玲は端末に表示された星素の波形を見つめていた。


 〇・八秒ごとに繰り返される脈動。


 昨日、静界の内側で感じ続けていた灯子の鼓動と同じだった。


「橘さんが、生きている可能性はありませんか」


 玲の問いに、蘭が僅かに沈黙する。


《橘さんの遺体は、今も本部の医療区画にあるよ。生命反応も、精神反応も確認されてないの》


「ですが、先ほどの声は」


《音声の照合率は九九・八パーセント。橘さん本人の声と考えて間違いないよ》


 玲の表情が強張る。


 碧は、そんな玲を横から見ていた。


『現物を確認する』


「碧様」


『声だけで結論を出すな』


「……承知しました」


 碧が遼河へ顔を向ける。


『遼河さん。第三層へ直接ゲートを接続できますか』


「反応地点の周囲は無理だ。脈動に合わせて座標が歪んでいる。少し離れた南側通路なら開ける」


『お願いします』


「ああ」


 遼河が右手を前へ向ける。


 何もなかった空間に、青白い亀裂が走った。


 縦へ広がった亀裂が楕円形のゲートとなり、向こう側に暗い地下通路を映し出す。


 千景がすぐに界錨を展開する。


「接続先を固定しました。ただし、安定を保証できるのは十分程度です」


「十分あれば足りる」


 遼河がゲートを通過する。


 碧、玲、千景、森羅隊と界航隊の隊員たちがあとに続いた。


 最後の一人が通過すると、ゲートは背後で閉じる。


 地下第三層。


 昨日まで通路を覆っていた白亜の壁が、各所で抉られている。


 破壊されたのではない。


 白亜を構成していた物質だけが、何かに剥ぎ取られていた。


 床には、ガラス片を引きずったような痕跡が残されている。


《第三調査班の端末を確認したよ》


 蘭が位置情報を送信する。


《五人とも、そこから北へ百二十メートル。星素反応と重なってる》


「生体反応は?」


《四人分は確認できる。一人は反応が弱くて、判別できないの》


「急ぐぞ」


 遼河が歩き出す。


 その背後で、玲が右手を握り締めた。


     ◇


 通路の先に、広い吹き抜けがあった。


 かつて複数の工房が並んでいた共同作業区画。


 中央に、それは立っていた。


 全高は四メートルを超えている。


 身体の表面を覆うのは、何層にも重なった透明なガラス。


 内側には折れた鉄骨が骨格のように張り巡らされ、隙間を黒く焼けたコンクリートが埋めている。


 頭部らしき部分は存在する。


 しかし、顔はない。


 滑らかなガラスの表面に、赤黒い星素が浮かんでは消えている。


 胸部の奥には、拳ほどの大きさをした核があった。


 一度、収縮する。


 〇・八秒後、膨張する。


 鼓動に合わせ、巨体の内側を赤黒い光が走った。


 その周囲には、五つの半透明な殻が並んでいた。


 内部に調査員たちが閉じ込められている。


「生きています」


 千景が携帯型観測器を確認する。


「五人とも生命反応があります。ただし、殻の内部で温度が上昇中。早急に救出しなければ危険です」


 遼河が異形を見上げる。


「人間を捕らえているのか」


「違います」


 玲が答えた。


「守っているつもりなのだと思います」


「守る?」


「あの殻は、昨日、橘さんを覆っていたガラスと同じものです」


 異形の胸部が脈打つ。


 そこから、女の声が流れた。


「みんな……逃げられる?」


 玲の瞳が揺れる。


 前日、灯子が最後に口にした言葉。


 声色だけではない。


 掠れ方も、息の漏れ方も同じだった。


「私が必ず守ります」


 玲は無意識に、昨日と同じ言葉を返していた。


 異形の頭部が玲へ向く。


「よかった……」


 巨体の両腕が動いた。


 周囲に散らばっていたガラス片が、一斉に浮かび上がる。


「来るぞ!」


 遼河の声が響く。


 数百枚のガラス片が空中で細長く伸び、灼熱の槍へ形を変えた。


 その先端が、玲たちへ向けられる。


「全員、俺の後ろへ――」


 遼河がゲートを開こうとする。


 それよりも早く、玲が右手を上げた。


「静界」


 無色の星素が、共同作業区画へ広がった。


 放たれたガラス槍が、一斉に止まる。


 玲の眼前。


 最も近い切っ先は、彼女の眉間から数センチの位置で静止していた。


 熱が消える。


 風も止まる。


 異形の一撃によって崩れかけていた天井材まで、空中で動きを失った。


「全部、止めた……」


 森羅隊の隊員が呟く。


 玲が指を僅かに動かす。


 空中で静止していたガラス槍が、重力を取り戻す。


 次々と床へ落ち、甲高い音を響かせた。


 異形は止まらない。


 巨大な右腕を振り上げ、床へ叩きつけた。


 鉄骨とコンクリートで形作られた巨大な拳。


 それが床へ届く直前、再び動きを失う。


 玲は一歩も動いていない。


「止まりなさい」


 異形の腕が、床から数センチの位置で固定されていた。


 赤黒い星素が、玲の静界へ激しく衝突する。


 床が軋む。


 静止していたガラス片が細かく震え始める。


 異形は周囲の壁へ星素を伸ばした。


 コンクリートが剥がれ、鉄骨が引き抜かれ、ガラスの身体へ吸収されていく。


 先ほど床へ落とされた槍も、再び浮かび上がった。


「破損した部分を直している」


 千景が異形の右腕を見る。


 玲に止められた衝撃で生じた亀裂が、取り込まれた物質によって塞がっていく。


「周囲に瓦礫がある限り、再生を続けるということですか」


《その可能性が高いよ》


 蘭が星素の流れを解析する。


《本体の核から、地下第三層全域へ細い星素の経路が延びてるの。接触していなくても物質を取り込めるみたい》


「先に調査員を救出する」


 遼河が閉じ込められた五人へ手を向ける。


 その前方へ、玲が左腕を伸ばした。


「待ってください」


「どうした」


「あの殻も、対象の身体と星素で繋がっています。無理にゲートを開けば、調査員ごと引き裂かれる可能性があります」


 遼河が星素の流れを確認する。


 調査員を包む殻と異形の胸部。


 両者の間には、目視できないほど細い赤黒い星素が繋がっていた。


「よく見えたな」


「昨日、同じ星素を間近で観測しました」


 玲が異形を見つめる。


「私が切り離します」


「どうやってだ」


「対象が物質を取り込めない状態を作り、殻の星素だけを固定します」


「本体からの供給を止めるのか」


「はい」


 玲が両手を広げた。


 無色の星素が、地下第三層へ急速に広がっていく。


 共同作業区画。


 そこへ続く通路。


 隣接する工房。


 さらに遠くの階段と、崩落した避難路。


 星素は壁も床も越え、第三層全体を覆った。


《環境変化、停止》


 蘭の声が通信へ流れる。


《地下第三層の全域で、玲が指定した無機物の移動が止まったよ》


 異形から伸びた赤黒い星素が、壁へ絡みつく。


 だが、コンクリートは剥がれない。


 鉄骨も動かない。


 床に散らばるガラス片も、その場へ縫い止められたように静止している。


 異形が胸部を脈打たせる。


 星素出力が上昇する。


 それでも、周囲の物質は一片も動かなかった。


「第三層全域を……」


 界航隊員が息を呑む。


「これだけの範囲を一人で固定しているのか?」


「違います」


 千景が観測器の画面を見る。


「それだけではありません」


 調査員たちを包んでいた殻から、赤黒い光が消えていく。


 玲は第三層の無機物を固定しながら、五人それぞれの周囲へ別の静界を展開していた。


 殻の内部で上昇していた温度。


 調査員の身体を圧迫していたガラス。


 本体から供給される星素。


 それらを個別に見分け、人体へ影響を与える変化だけを止めている。


「一つの領域ではない……」


 千景が呟く。


「少なくとも、七つ」


 第三層全域を固定する静界。


 五人の調査員を守る静界。


 そして異形本体を拘束する静界。


 合計七つの領域を、玲は同時に維持していた。


「御影隊長!」


 玲が呼ぶ。


「調査員と本体を繋ぐ星素を切り離しました。今なら救出できます」


「ああ」


 遼河が五つの小さなゲートを開く。


 ガラスの殻の内側と、玲たちの後方。


 二つの空間が直接接続され、意識を失った調査員たちが一人ずつ運び出されていく。


「第五調査員、呼吸が弱いです!」


「地上へ搬送しろ」


「ですが、御影隊長のゲートは第三層へ接続できないのでは」


「ここから第二層へ送る。そこに地上へ続く別のゲートを開いてある」


 遼河が後方へ、新たなゲートを開く。


 その向こうには、第二層で待機する救護班の姿があった。


「了解!」


 界航隊員たちが調査員を抱え、第二層へ続くゲートを通過する。


 玲は五人がゲートを通過するまで、それぞれを守る静界を維持していた。


 最後の一人が第二層へ送られる。


 玲は五つの静界を解除した。


 残るのは、第三層全域を固定する領域と、異形本体を拘束する領域。


 その二つだけだった。


 直後。


 異形の胸部が大きく膨張した。


 赤黒い星素が、ガラスの外殻を内側から満たしていく。


 玲の領域と衝突し、空間そのものが軋んだ。


 床へ亀裂が走る。


 停止していたガラス片が震え、天井から細かな粉塵が落ち始める。


「神楽坂副隊長の領域が崩れます!」


 森羅隊員が声を上げた。


 千景も観測器を確認する。


 異形から観測される星素出力は、上昇を続けていた。


 周囲の物質を取り込んで身体が大型化するほど、核を巡る星素の循環が加速している。


「御影隊長。援護した方がよいのではありませんか」


「そうだな」


 遼河が碧を見る。


「碧。玲一人に任せたままでいいのか」


 碧は動かなかった。


 異形へ攻撃を仕掛けることも、玲の隣へ並ぶこともしない。


 ただ腕を組み、戦況を見つめている。


『必要ありません』


「ですが、静界が押し返されています」


『押し返されているのではない』


 碧の視線が、異形を包む無色の境界を捉える。


『玲が、自分で狭めている』


 千景が観測器へ目を戻す。


 第三層全体へ広がっていた領域は、少しも縮小していない。


 第二層へ続くゲート周辺にも、異常は発生していなかった。


 変化しているのは、異形本体を覆う静界だけ。


 玲は押し返されているのではない。


 異形を内側へ閉じ込めるように、領域を意図的に収縮させている。


「では、あの亀裂は……」


「外殻へ圧力を集中させているのか」


 遼河が玲の狙いに気づく。


 異形は外へ広がろうとしている。


 玲は、その力を正面から押し返しているのではない。


 膨張する力を外へ逃がさず、異形自身の外殻へ蓄積させていた。


 森羅隊員が碧を見る。


「天城隊長。それでも、神楽坂副隊長の消費は相当なはずです。このままでは――」


『玲はまだ、保有星素の半分も使っていません』


「半分……?」


 玲の保有星素量は、四万八千St。


 ギフト保有者の中でも突出した数値。


 だが、碧が信頼しているのは、その量だけではない。


 異なる条件を持つ七つの領域を同時に維持し、救助対象へ一切の負荷を与えない制御力。


 敵の出力を利用しながら、周辺被害を完全に防ぐ判断力。


 碧は、誰よりも玲の力を知っている。


『玲の力は、あんなものではありません』


     ◇


 異形の出力が、さらに上昇する。


 巨体の内側で熱と圧力が膨れ上がり、透明だった外殻が赤く染まっていく。


 顔のない頭部が玲を向いた。


「みんな……逃げられる?」


 灯子の声。


 玲の指が僅かに震えた。


 その一瞬を狙ったかのように、異形が両腕を広げる。


 胸部から衝撃波が放たれた。


 玲の静界へ亀裂が走る。


「よかった……」


 同じ言葉が繰り返される。


「橘さん……」


 玲の声が掠れる。


 理性では分かっている。


 橘灯子は亡くなった。


 目の前にいるものから、生体反応も精神反応も確認されていない。


 それでも。


 昨日、自分の領域の中で息を引き取った女性の声が聞こえる。


 助けると約束した。


 全員を逃がしたら戻ると伝えた。


 だが、間に合わなかった。


「橘さんの意識が、残っている可能性はないのでしょうか」


 玲は異形から目を逸らさずに尋ねた。


 碧が答える。


『ない』


「ですが、声が」


『あれは記憶ではない』


 異形が再び脈打つ。


「みんな……逃げられる?」


『橘灯子の最期を、意味も理解せず繰り返しているだけです』


「感情の一部は、残っているのではありませんか」


『残っているのは痕跡だ』


 碧の声は冷静だった。


 玲を慰めるために、曖昧な言葉を選ぶことはしない。


『足跡を見て、その人間がそこにいるとは言わない』


「……はい」


『だが、決めるのは君だ』


 玲が僅かに振り返る。


 碧は変わらず、その場から動いていない。


『あれを橘灯子だと思うのなら、君には倒せない』


 異形の内側で、赤黒い星素が限界まで膨張する。


『違うと思うのなら、終わらせろ』


 玲が正面へ向き直る。


 灯子の声が、三度繰り返された。


「みんな……逃げられる?」


 玲は静かに答える。


「全員、無事に逃げられました」


 異形の動きが一瞬止まる。


「昨日の十九人も、今日ここへ来た調査員たちも、全員生きています」


「よかった……」


 返ってきた言葉は、それだけだった。


 灯子ならば。


 本当に灯子の意識が残っているならば。


 全員が無事だと聞いた今、もう一度同じ問いを繰り返すことはない。


 だが、目の前の異形は玲の答えを理解していなかった。


 灯子の言葉を発しているだけで、その意味を知らない。


「あなたは、橘さんではありません」


 玲の指から震えが消えた。


「橘さんが最後に残した言葉を、これ以上利用させません」


 異形が咆哮した。


 声ではない。


 ガラスと鉄骨が激しく擦れ合い、地下第三層全体を震わせる。


 床へ散らばっていた数千のガラス片が、一斉に浮かび上がる。


 玲の静界によって固定されているはずの物質。


 異形は星素を注ぎ込み、強引に拘束を破ろうとしていた。


「天城隊長!」


 森羅隊員が叫ぶ。


 碧は動かない。


『見ていろ』


 浮かび上がったガラス片が、鋭い槍へ変わる。


 異形の周囲を埋め尽くすほどの数。


 すべての切っ先が玲へ向けられた。


『玲は、守るだけの星能者ではない』


 無数の槍が放たれた。


 同時に、異形の巨体が玲へ突進する。


 熱。


 圧力。


 衝撃。


 ガラス。


 鉄骨。


 異なる現象が一斉に玲へ襲いかかる。


 玲は右手を握った。


「静界」


 ガラスと鉄骨が擦れ合う音が途切れた。


 数千本のガラス槍が止まる。


 異形の脚が止まる。


 周囲へ広がろうとしていた衝撃波も、吹き上がった熱も、床を走る亀裂さえ停止する。


 それだけではない。


 異形の内部を巡っていた赤黒い星素。


 〇・八秒ごとに続いていた核の脈動。


 そのすべてが、一瞬だけ静止した。


「今です」


 玲が二つの静界を操作する。


 第三層全域を固定していた領域は残す。


 異形の外殻を覆っていた領域だけを、一瞬解除した。


 内部に閉じ込められていた熱と圧力が、逃げ場を得る。


 外殻が内側から砕けた。


 轟音。


 巨大なガラスの身体が、無数の破片となって弾け飛ぶ。


「防御を!」


 千景が叫ぶ。


 だが、飛散した破片は誰にも届かなかった。


 玲が解除したのは、異形の外殻を固定していた領域だけ。


 周囲の空間は、今も静界に包まれている。


 数万に及ぶガラス片が、空中で完全に静止していた。


 赤黒い核が露出する。


 人間の肉体内部で起きる変化に、静界は干渉できない。


 だが、目の前の異形には生命反応がなかった。


 ガラスと鉄骨で作られた身体。その内側に収められているだけで、核は生物の心臓でも、星能者の星脈でもない。


 核を巡る星素も含め、そのすべてが玲にとっては外部の環境だった。


 ならば、止められる。


 核が一度、収縮する。


 次の膨張へ移る直前。


 玲が右手を核へ向けた。


「静界――収束」


 無色の領域が、拳ほどの核だけを包み込む。


 脈動が止まった。


 異形は核を動かそうと、残された星素を注ぎ込む。


 収縮。


 膨張。


 放出。


 吸収。


 身体を維持するために必要な、あらゆる変化。


 そのすべてを玲の静界が拒絶する。


 赤黒い光が、核の内側で行き場を失った。


 外へ噴き出すことも許されない。


 周囲の物質を取り込むこともできない。


 星素が内部で衝突し、核の表面へ細い亀裂が走った。


「みんな……」


 灯子の声が、途切れながら流れる。


「逃げられ……る?」


「はい」


 玲が答える。


「私が守りました」


「よかっ……た……」


 核が砕けた。


 赤黒い光が消える。


 空中で静止していたガラス、鉄骨、コンクリートが、星素の支えを失った。


 玲は隊員たちの周囲だけ静界を残し、それ以外の固定を解除する。


 異形を構成していた物質が、一斉に床へ崩れ落ちた。


 凄まじい音と粉塵が、共同作業区画を満たす。


 それでも、誰一人として破片には触れていない。


 救出された調査員にも、新たな傷はなかった。


 玲が右手を下ろす。


 隊員たちの周囲に残されていた無色の境界が、ゆっくりと消えていく。


《星素反応、消失》


 蘭の声が告げる。


《核の脈動も完全に止まったよ》


 玲は、粉々になったガラスの中心を見つめていた。


 もう灯子の声は聞こえない。


 熱も、圧力も、赤黒い星素も残されていなかった。


「碧様」


 玲が振り返る。


「任務、完了しました」


 碧が短く頷く。


『ああ。見事だった』


 その一言を聞いた瞬間。


 玲の張り詰めていた表情が、僅かに緩んだ。


 身体が傾く。


 碧が倒れる前に肩を支えた。


「申し訳ありません」


『謝る必要はない』


「星素は、まだ残っています」


『知っている』


 玲の戦術通信端末には、三万近い星素が残されていた。


 七つの静界を同時に展開し、地下第三層全域を制圧しながら、消費した量は全体の半分にも届いていない。


 玲が膝をついたのは、星素を使い果たしたからではなかった。


 灯子の声を、自分の手で消した。


 その事実に、今になって身体が耐えられなくなったのだ。


 遼河が二人へ歩み寄る。


「最初から、こうなると分かっていたのか」


『玲が負けないことは分かっていました』


「随分と信頼しているんだな」


『事実を述べただけです』


「そうか」


 遼河は砕けた核へ目を向ける。


「俺には、最後まで危うく見えた」


『玲が危うかったのは、力ではありません』


 碧は玲の肩を支えたまま答える。


『相手を、橘灯子だと思いかけていたことです』


「……否定はできません」


 玲が小さく答える。


 碧は責めなかった。


『それでも、自分で見極めた』


「はい」


『なら、次も間違えない』


 玲が崩れた異形を見る。


「これで、よかったのでしょうか」


『それを決めるのは私ではない』


 碧の視線が、第二層へ続くゲートへ向けられる。


『だが、君がいなければ彼らは死んでいた』


 玲も同じ方向を見る。


 開かれたゲートの向こう。


 第二層へ搬送された調査員たちが、界航隊の救護班によって地上へ運ばれていく。


 一人。


 二人。


 最後の一人まで、確かに呼吸を続けていた。


「橘さんが守ろうとした人たちです」


『ああ』


「今度は、守れました」


『ああ』


 玲は目を閉じる。


 頬を伝った一滴が、床へ落ちた。


     ◇


 同日、午後二時。


 アストラ本部、第一分析室。


 透明な隔壁の向こうに、地下第三層から回収された物質が並べられていた。


 ガラス。


 コンクリート。


 鉄骨。


 配管。


 どれも星素反応を失い、ただの無機物へ戻っている。


 中央の密閉容器には、玲が破壊した核の破片が収められていた。


 複数の分析装置が、破片の組成を調べている。


 室内には、空、桜、碧、彩乃、遼河が集められていた。


 それぞれの副隊長も、壁際で報告を聞いている。


《分析結果が出たよ》


 大型画面に、蘭の姿が表示される。


《先に結論から伝えるね。地下第三層で確認された対象は、橘灯子さんではありません》


 画面へ、人間の星脈構造と核の内部構造が並べて表示される。


《人体組織は一切含まれていなかったの。脳も、心臓も、星脈も存在しない。精神系の検査でも、人間の意識や魂に相当する反応は確認できなかったよ》


『では、橘さんの声は何だったのでしょうか』


 桜が尋ねる。


《星素に残された感情の痕跡だと思う》


「感情の痕跡?」


 彩乃が画面を見る。


《星素は、使った人間の意思によって性質を変えるよね。橘さんが亡くなる直前に放出した星素には、周囲の人たちを心配する強い感情が残されていたの》


 灯子は最後まで、自分より他人の避難を気にしていた。


 みんなは逃げられる。


 よかった。


 その二つの言葉と感情だけが、残された星素へ刻みついた。


《残滓はその感情を理解していたわけじゃないよ。ただ、残された性質に従って行動していたの》


「だから、人間を殻へ閉じ込めたのか」


 遼河が言う。


《うん。守るという結果だけを再現しようとして、相手が苦しんでいることも、死にかけていることも理解できなかった》


「橘さんの優しさだけを、歪んだ形で真似したってことね」


 彩乃の表情が曇る。


《あれは橘さんが変化したものじゃない。橘さんの魂が宿った怪物でもないよ》


 蘭がはっきりと告げる。


《強制クラフトによって放出された星素が周囲の物質を取り込み、新しく形成した別の存在なの》


『星獣との違いは?』


 空が尋ねる。


《星獣は、星脈異常によって生物が変異したもの。でも、今回の対象には元になる生物が存在しないの》


『物質だけでできた怪物ってことか』


《そうなるね》


 画面が切り替わる。


 地下第三層で記録された戦闘映像。


 異形が周囲の物質を取り込み、破損した外殻を再生する様子が映し出される。


《さらに、対象は身体を大型化させるほど、核を巡る星素の循環を加速させていたの。放置していれば、地下街だけではなく、地上の建造物まで取り込み始めていた可能性があるよ》


「玲が倒していなければ、どこまで成長していた?」


 彩乃が尋ねる。


《分からない》


 蘭は首を振る。


《成長限界を示す情報が、どこにもなかったの》


 室内に沈黙が流れる。


 遼河が腕を組む。


「今回の個体だけとは限らないな」


《うん》


 画面へ、旧西央放送局で発見された二十七人の写真が表示される。


 既に所在と経過が判明した十一人には印がつけられ、残る十六人の写真だけが暗い画面に残されていた。


《大門さんは、星脈が崩壊する前に救助できた。だから、あの異形は生まれなかった》


「強制クラフトを発現させられた人間が死亡すれば、同種の存在が生まれる可能性があるということですね」


 玲が言う。


《可能性は高いと思う。ただし、どんな姿になるか、どんな性質を持つかは分からないよ》


『生前に抱いていた感情と、発現したクラフトの性質によって変化するのでしょうか』


 桜が分析結果へ目を通す。


《おそらくね。今回の対象がガラスや建材を取り込んだのは、橘さんがガラス職人だったことと、熱を生み出すクラフトが関係してると思う》


「なら、二つとして同じ個体は生まれない」


 遼河の言葉に、蘭が頷く。


《うん。一体ごとに能力も、行動原理も違うはずだよ》


『面倒だな』


 空が率直に呟く。


「隊長が言うと、面倒の意味が別物に聞こえるんだよ」


 蓮司が壁際から口を挟む。


『なんだよ。あたしだって何が出てくるか分からねえ相手は面倒だぞ』


「倒せるかどうかの心配じゃねえだろ」


『倒し方を考えるのが面倒なんだよ』


「ほらな」


 蓮司がため息をつく。


 張り詰めていた室内の空気が、僅かに緩んだ。


 しかし、画面に並ぶ十六人の写真は消えない。


 彼らは、まだ敵の手中にある可能性が高い。


 救助が間に合わなければ、最大であと十六体の異形が生まれる。


「呼称を決める必要があります」


 星務庁から派遣された分析官が口を開く。


「現行の分類では、星能者にも星獣にも該当しません。今後、同種の発生を想定するならば、暫定的な名称が必要です」


 画面へ複数の候補が表示される。


 人から放出された星素。


 意思を持たず、感情の痕跡だけに従う異形。


 生命ではないにもかかわらず、怪物として動く存在。


 分析官が一つの名称を選択する。


「星素によって生まれた、人ならざる魔性」


 表示された文字が大きくなる。


 星魔。


「以後、今回の対象を星魔第一確認個体とし、新たな分類名を『星魔』とします」


 蘭が十六人の写真を見つめる。


《急がないといけないね》


『ああ』


 碧が答える。


『次も救助が間に合うとは限らない』


「次じゃねえ」


 蓮司の声が低くなる。


「発生させる前に止めるんだ」


『そうですね』


 桜が十六人の写真へ目を向ける。


『残された方々を探し出しましょう』


『ああ』


 空が拳を握る。


『一人も、あんなもんにはさせねえ』


     ◇


 場所も時刻も分からない、暗い部屋。


 壁一面を覆う画面に、地下第三層の映像が映し出されていた。


 無数のガラス槍を止める玲。


 七つの静界を同時に展開する玲。


 最後に、異形の核を完全に破壊する玲。


 白衣姿の女が、映像を停止する。


「自律形成を確認」


 卓上の端末へ情報を入力する。


「感情残滓の定着を確認」


 次の項目。


「周辺物質との同化。核を中心とした星素循環。いずれも正常」


 部屋の奥に、一人の男が立っていた。


 アストラの制服ではない。


 その身体から感じられる星素量も、決して多くはなかった。


 だが、男の視線は、並の星能者とは比べものにならないほど鋭い。


「橘灯子を選んだ理由は、それか」


「何のことでしょう」


「あの怪物を作るために、強制クラフトを発現させたのかと聞いている」


 女は画面に映る異形を見る。


「星魔」


 アストラがつけたばかりの名称を、既に知っている。


「悪くない名前ですね」


「答えろ」


「いいえ」


 女が椅子ごと男へ振り返る。


「橘灯子は、外部の星素を受け入れる段階まで進めなかっただけです」


「外部の星素?」


「強制発現に耐え、別の星素を通しても崩れない星脈へ変わる。それが、今の私たちが求めている器です」


 画面の中で、異形が崩壊する。


「死亡し、星素だけを残した彼女は失敗作です」


 男の眉が僅かに動く。


「地下街一層を取り込もうとした怪物が、失敗作か」


「ええ」


 女は興味を失ったように映像を閉じる。


「自律性が低すぎます。生前の感情を反復するだけで、思考も学習能力もない。あれでは兵器として使えません」


「だったら、なぜ観測していた」


「失敗にも利用価値はあります」


 新たな画面が開く。


 十六人の顔写真。


 その中の一人へ、赤い枠が表示される。


 年齢。


 職業。


 過去の星脈検査記録。


 星素の潜在量。


 強制発現への推定耐性。


 複数の数値が並んでいる。


 最後に、画面中央へ一つの文字が表示された。


 適合。


「星魔の発生条件は確認できました」


 女が微笑む。


「次は、外部の星素を受け入れられる器を作りましょう」


 暗い部屋の中。


 選ばれた一人の写真が、赤黒い光に照らされていた。

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