四十八話「隣に立てなかった一人」
誰にも触れられない。
シュダルがそう告げた直後。
空の姿が、視界から消えた。
「――っ」
シュダルが反応するより早く、スカイブルーの光が眼前へ到達する。
空の右拳が、その顔面へ放たれた。
だが。
拳が触れる寸前、空の腕が横へ逸れた。
自ら軌道を変えたわけではない。
拳へ込められた力も、前進する身体も、シュダルを中心として外側へ押し流されている。
空の拳がシュダルの頬を掠め、背後の壁へ突き刺さった。
轟音とともに壁面が崩れる。
シュダルは一歩も動いていない。
「無駄です」
空は壁から拳を抜いた。
『近づけねえんじゃなく、触れる直前に逸らしてんのか』
「理解したところで、結果は変わりません」
空が再び腰を落とす。
次の瞬間。
地下から、赤黒い星素が広がった。
壁と床を伝い、僅かな振動となって地上区画まで届く。
空の身体が止まった。
シュダルが、僅かに目を細める。
「どうしました?」
空は答えなかった。
赤黒い星素。
三年前とは性質が変わっている。
それでも、間違えるはずがない。
『迅……』
地下にいる。
碧が向かった封印区画。
そこに迅がいる。
今すぐ地下へ行きたかった。
三年前、何も告げずに姿を消した理由を問い詰める。
桜の前へ現れながら、再び逃げたことを責める。
緋環に加わり、何をしようとしているのか。
聞きたいことも、言いたいことも、山ほどある。
空の右足が、僅かに地下へ続く通路へ向いた。
だが、それ以上は動かなかった。
地下には碧がいる。
迅が何も答えずに去った夜。
最も多くのものを置き去りにされたのは、碧だった。
そして今の碧なら、迅を止められる。
空は地下から意識を外し、シュダルへ向き直った。
『碧に任せる』
「仲間のもとへ行かなくてもよろしいのですか?」
『お前に関係ねえ』
シュダルの背後。
高出力型の星殻兵が、封印区画へ続く通路へ進もうとする。
『伊織!』
「はい!」
『そいつをここから引き離せ! 記録区画へ近づけんな!』
「了解しました」
伊織が星殻兵の視界へ滑り込む。
クラフト「盲点」によって認識の外側へ移動しながら、星殻兵を別の通路へ誘導していく。
『遼河の兄貴! 避難は!』
「現在、第三班を移送中だ。残り二班」
『千景と続けてくれ。地下には送るな』
「分かった」
空は拳を鳴らした。
迅を碧へ任せる。
なら、自分はここから一人も通さない。
全員が生きて戻ったあとで、迅の胸倉を掴み、自分の口で問い詰める。
「私を相手にしながら、別のことを考える余裕があるのですね」
『逆だ』
スカイブルーの星素が、空の全身を覆う。
『今、あたしは最高に機嫌が悪い』
床が沈む。
『死にたくなきゃ、そこを動くな』
◇
地下封印区画。
碧は、通路の先に立つ男を見つめていた。
黒い隊服。
変質した星脈から溢れる、赤黒い星素。
姿を消す前よりも痩せている。
顔立ちも、纏う雰囲気も変わった。
それでも、碧には分かった。
『迅』
名を呼ばれた迅の肩が、僅かに動いた。
三年前。
最後に自分の名前を呼んだ声と、何も変わっていない。
「碧」
碧の左腕には、森羅隊の隊長腕章が巻かれている。
士官学校を卒業し。
アストラへ入り。
隊長となり。
世界最強の一人と呼ばれるようになった。
迅がいなかった三年間を、その腕章だけで見せつけられているようだった。
二人の間を、冷たい空気が流れる。
先に口を開いたのは碧だった。
『三年前の問いに、まだ答えを聞いていない』
「こんな場所で昔話をするつもりか」
『君が答えなかったから、終わっていない』
「俺たちは記録を奪いに来た。お前はそれを守るためにいる。それで十分だろ」
『所属を聞いているのではない』
碧の声は変わらない。
責めるでもなく、縋るでもない。
『君自身が、私の敵なのかを聞いている』
迅の指先に、僅かに力が入った。
「見れば分かるだろ」
『分からない』
「俺は緋環側にいる」
『だから、それは君の立場だ』
「同じことだ」
『違う』
碧は一歩も退かない。
『次に会った時、敵だったらどうする』
三年前。
校門の前で問われた言葉。
迅は、また答えられなかった。
「随分と余裕だな」
瀬川が保管庫の端末へ視線を向ける。
「俺たちの目的を忘れるな」
その進路へ、玲が立った。
「あなたの相手は、私です。瀬川」
瀬川の周囲へ、黒い物質が生み出される。
銃器。
刃物。
幾つもの兵装が、宙に展開された。
「神楽坂玲。天城碧の忠実な副隊長か」
「碧様のお名前を、親しげに口にしないでいただけますか」
「事実を言っただけだ」
「それを不快だと申し上げています」
玲の周囲から、赤い星素が広がった。
「碧様。瀬川はこちらで止めます」
『頼む』
迅も瀬川へ目を向ける。
「記録を取れ」
「一人で天城碧を止める気か?」
「そのために俺が来た」
「分かった」
瀬川が後方へ下がる。
玲も、その動きに合わせて距離を取った。
長い通路の中央。
碧と迅だけが残される。
『私を止めるのか』
「止める」
『敵だとは言えないのに?』
「黙れ」
迅の身体から、赤黒い星素が噴き出した。
◇
迅が床を蹴った。
一気に距離を詰める。
碧の周囲で、大気が僅かに圧縮された。
風が来る。
迅は発生するより先に身体を沈めた。
頭上を突風が通り過ぎ、背後の壁へ亀裂を刻む。
床へ湿気が集まり始める。
次は水。
迅は濡れる前の床を蹴り、右側へ飛ぶ。
着地地点へ、植物の蔓が伸びていた。
「相変わらずだな」
迅は身体を捻り、蔓を避ける。
「今いる場所じゃなく、俺が次に動く場所を潰してくる」
『君も変わっていない』
碧が右手を動かす。
迅の足元が隆起した。
大地に押し上げられ、身体が宙へ浮く。
その先へ、横殴りの風が吹き抜けた。
「くっ……!」
迅は両腕を交差させる。
風圧が身体を捉え、通路の壁へ叩きつけた。
背中へ強い衝撃が走る。
碧は追撃しない。
迅の様子を見ている。
「余裕か?」
『確認している』
「何を」
『君が、どれほど変わったのかを』
迅は壁から背を離した。
「なら、よく見てろ」
赤黒い星素が、全身を巡る。
風に打ちつけられた皮膚。
圧力を受けた筋肉。
大気の流れに乱された星脈。
そのすべてが、受けた現象へ適応するように変化していく。
迅が再び踏み込む。
碧の風が正面から吹きつけた。
先ほどと同じ出力。
だが今度は、迅の足が止まらない。
衣服と髪が激しく後方へ流れる中、風を押し分けて前進する。
『適応したのか』
「三年前の俺と同じだと思うな」
迅が拳を振るう。
碧は首を傾け、最小限の動きでかわした。
迅の拳が、背後の壁を砕く。
碧は迅の懐へ踏み込む。
掌を胸部へ当てた。
雷光が弾ける。
「がっ……!」
迅の身体が吹き飛んだ。
床を転がりながらも、片手をついて体勢を立て直す。
胸部から腕へ、痺れが広がっている。
焦げた隊服から煙が上がった。
碧は同じ場所に立ったまま、迅を見ていた。
『これにも適応するのか』
「試してみろ」
雷が落ちた。
迅の身体を、青白い光が包む。
肉の焼ける臭いが広がる。
それでも迅は倒れない。
歯を食いしばり、雷撃の中を前へ進む。
一歩。
さらに一歩。
星脈が変わる。
雷の熱。
電流による筋肉の硬直。
星素へ伝わる衝撃。
受けたすべてを記憶し、身体が生存できる形へ作り替えていく。
碧が雷を止めた。
迅の呼吸は乱れている。
だが、その身体は動いていた。
「どうした。もう終わりか」
碧が腕を下ろす。
次の瞬間。
風が迅を横から捉えた。
「なっ――」
迅の身体が大きく流される。
壁へ叩きつけられる直前、床へ手をつき、辛うじて着地した。
最初の風へ適応したときよりも、明らかに影響が大きい。
碧はその変化を見逃さなかった。
『新しいものへ適応するたび、それ以前の適応が薄れている』
迅が顔を上げる。
『適応した状態に期限はない。だが、無限に保持できるわけでもない』
最初の風へ適応したときよりも、明らかに影響が大きい。
その変化を見逃すほど、碧は迅の力に疎くない。
「……相変わらず、よく見てる」
『君の力は知っている』
迅が立ち上がる。
「だから何だ」
『何がだ』
「全部へ同時に適応できない。それが分かったから何だ」
迅が再び構える。
「お前の七つすべてに耐える必要はない」
赤黒い星素が、右脚へ集まる。
「お前へ届く瞬間まで残っていれば、それでいい」
迅が床を蹴った。
風に適応し直した身体が、一気に加速する。
碧は大地を隆起させ、正面の進路を塞いだ。
迅は壁が完成するより先に左へ切り返す。
その先には、水が流れている。
迅は構わず踏み込んだ。
足を取られながらも、碧へ向かう。
碧の周囲へ雷が集まる。
迅は雷を受ける直前に右へ動いた。
それでも、光の一部が肩を焼く。
動きは止まらない。
碧が植物を伸ばす。
迅は避けず、左腕で受けた。
蔓が皮膚を裂く。
血が流れる。
その痛みの中で、迅の星脈が再び形を変え始めた。
碧の作る戦場を。
碧の選ぶ順番を。
迅は知っている。
それでも、一歩届かない。
次の現象を予測できても、その先に別の力が用意されている。
避ける方向を選んだ時点で、碧はさらに次の進路を潰している。
三年前と同じだった。
何をしても、碧の方が先にいる。
◇
三年前。
国立星律士官学校、山岳訓練区画。
訓練終了地点へ最初に到達したのは、空だった。
『遅え!』
振り返った空が、後方へ怒鳴る。
その白い訓練服には、ほとんど汚れがない。
道を塞いでいた障害物を避けることなく、正面からすべて破壊してきた。
少し遅れて、桜が坂道を上がってくる。
負傷者役として配置された二人の生徒を連れ、誰一人脱落させていない。
『空。まだ訓練は終わっていません』
『分かってるよ』
最後に碧が到着した。
後続の生徒が通れるよう、崩落した地面を固め、増水した川の流れを変えてきたため、三人の中では最も遅い。
それでも、迅の姿はなかった。
空が来た道を見る。
『迅のやつ、何してんだ』
『右脚を負傷していたようです』
桜が答える。
『迎えに行く』
碧が来た道を戻ろうとする。
その先から、迅が姿を現した。
右脚を引きずっている。
訓練服は泥と血で汚れ、呼吸も大きく乱れていた。
「来るな」
迅が碧を止める。
『歩けるのか』
「これくらい、何でもない」
『そうか』
碧は迎えに行かなかった。
だが、終了地点から動こうともしなかった。
空も桜も、その場へ残っている。
迅は一歩ずつ坂を上った。
三人との距離が、いつまでも縮まらないように感じた。
ようやく迅が終了地点へ入る。
教官が四人の訓練終了を告げた。
「お前ら、先に終わらせればよかっただろ」
迅が息を切らしながら言う。
『はあ?』
空が眉を寄せる。
「俺を待つ必要はなかった」
『四人で始めた訓練だろ。お前抜きで終われるかよ』
空は、本当に意味が分からないという顔をしていた。
『迅が到着していないのに、終わったことにはできません』
桜も当然のように答える。
碧は迅の右脚へ視線を落とす。
『君が来るまで、待つつもりだった』
同情ではない。
気遣っているつもりさえない。
三人にとって迅は、同じ訓練を受ける仲間だった。
だから待った。
ただ、それだけだった。
それでも迅には、その事実が苦しかった。
三人は、とっくに終わっていた。
自分がいなくても、最後まで到達できる。
自分だけが遅れ。
自分だけが傷つき。
自分だけが、三人を待たせている。
空も。
桜も。
碧も。
既に、自分の手が届かない場所に立っている。
それでも三人は、迅が追いつくと信じていた。
その信頼が。
迅には、何より苦しかった。
◇
碧の大地が、迅の進路を塞ぐ。
迅は三年前と同じ場所へ追い込まれていた。
前には碧。
背後には、自分が通ってきた道。
そして自分だけが、また遅れている。
「昔から、そうだった」
迅が呟く。
『何がだ』
「お前たちは、いつも先に着いてた」
碧の周囲で吹いていた風が、僅かに弱まった。
「空も、桜も、お前も。俺がどれだけ必死になっても、当たり前みたいに先へ行く」
『だから、私たちは君を待っていた』
「それが嫌だったんだよ!」
迅の声が、地下通路へ響いた。
碧が黙る。
「お前たちにとっては、仲間を待ってるだけだったんだろうな」
迅の拳が震える。
「でも、俺にとっては違った。俺だけが追いつけないって、毎回突きつけられてた」
『迅』
「何も知らないくせに、追いつけると信じて待ってる。その場に立ち続けて、俺が来るのを待ってる」
赤黒い星素が、迅の周囲で揺らぐ。
「それが、どれだけ惨めだったか分かるか」
碧はすぐには答えなかった。
三年前まで。
迅がそんなふうに感じているとは、考えたこともなかった。
遅れているとも。
劣っているとも思っていなかった。
同じ場所へ向かっているのだから、到着するまで待つ。
碧にとっては、それだけだった。
『分からない』
碧は偽らなかった。
『私は、君ではない』
「だったら――」
『それでも、君を置いていくつもりはなかった』
迅の言葉が止まる。
『空も、桜も同じだ』
「だから嫌なんだ」
迅が碧を睨む。
「お前は今でも、俺が追いつくと思ってる」
『違う』
「何が違う」
『追いつく必要などなかった』
迅の表情が固まった。
『私は、君を後ろに置いた覚えはない』
「ふざけるな」
迅の声が低くなる。
「今のお前を見て、それを信じろっていうのか」
隊長腕章。
七つの自然現象。
四十八万Stを超える保有星素。
世界最強と呼ばれる力。
それらを前にして、自分が隣にいたなどと思えるはずがない。
「お前は世界最強の一人になった」
迅の赤黒い星素が強まる。
「空も、桜もだ」
三人は並んでいる。
自分だけが、その隣に立てなかった。
「俺は、お前たちみたいにはなれなかった」
『それで、いなくなったのか』
「……何?」
『私たちの隣に立つには、同じ強さが必要だと思ったのか』
「当たり前だろ」
『違う』
碧の声は静かだった。
それでも、迅が三年間積み上げてきたものを切り裂くには十分だった。
『君が私たちの隣に立てなかったのは、弱かったからではない』
「なら、何だ」
『君が、いなくなったからだ』
迅の呼吸が止まる。
『何も話さず、自分で決めて、自分からいなくなった』
「俺は……」
『君を置いていった者など、誰もいない』
迅の中で、何かが崩れた。
追いつけなかった。
隣に立つ資格がなかった。
三人を巻き込みたくなかった。
そう思うことで、三年間を耐えてきた。
だが碧は、そのすべてを否定した。
迅が隣に立てなくなった理由は、力ではない。
自分で逃げたからだと。
「黙れ……」
赤黒い星素が、通路全体へ広がる。
床と壁が軋む。
「何も知らないお前が、俺を分かったように言うな!」
迅が踏み込む。
これまで以上の速度。
適応した脚部が床を砕き、一瞬で碧の眼前へ到達する。
拳が碧の頬へ迫る。
その直前。
碧の周囲で、七つの力が同時に目を覚ました。
大地が揺れる。
風が渦を巻く。
水が通路を走る。
雷が天井を這う。
炎熱によって空気が歪む。
植物が床を突き破る。
白い霜が床を覆い、冷気が碧の背後で立ち上がる。
迅の拳が止まった。
触れてはいない。
碧が動いたわけでもない。
それでも、目前に広がる力の密度が、これ以上の前進を許さなかった。
『迅』
碧が告げる。
『今度は、答えを聞かせてもらう』
三年前。
迅が背を向けた夜に残された問い。
『次に会った時、敵だったらどうする』
迅の拳に、さらに赤黒い星素が集まる。
「今度は逃げない」
碧の周囲で、七つの自然現象が激しく脈動した。
「お前を越えて、答える」
世界最強の一人。
その隣に立てなかった一人。
三年前に途切れた二人の時間が、ようやく再び動き始めた。




