十三話「静界の亀裂」
翌日、午前七時四十分。
アストラ本部、第二作戦会議室。
大型画面には、都市北部の地図が表示されていた。
北部廃棄区域。
建築廃材や使用不能となった車両、大型機械などが集積されている場所である。
居住者はいない。
稼働中の公的施設も存在しない。
その一角から、三つの異常な星素反応が検出されていた。
《昨夜から、反応地点に変化はないよ》
画面の隅に映る扇原蘭が説明する。
《三つとも、これまでに回収された黒い装置と同じ波形を発してる。ただ、候補者の生体反応は確認できてないの》
「既に区域外へ移された可能性は?」
神楽坂玲が尋ねる。
《否定できないよ。地下に観測を妨害する設備がある可能性も残ってる》
玲の隣には、天城・イワノワ・碧が立っていた。
長い白髪。
ターコイズブルーの差し込まれた白い隊服。
その腕には、隊長を示す金色の指揮章が輝いている。
向かい側に立つのは、界航後方支援部隊隊長、御影遼河。
その傍らでは、副隊長の相馬千景が現場周辺の座標情報を確認していた。
《今回の目的は、区域内の捜索と黒い装置の確保。候補者を発見した場合は、保護を最優先にして》
「了解した」
遼河が答える。
「合同部隊の指揮は?」
蘭が答えるより早く、碧が口を開いた。
『玲に任せます』
玲が僅かに目を見開く。
「私に、ですか」
『君にだ』
普段の玲なら、即座に承諾していた。
森羅隊副隊長として、単独で指揮を執った経験は何度もある。
だが、今回は森羅隊だけではない。
界航隊との複隊編成。
しかも現場には、二人の隊長が同行する。
「御影隊長がおられますが」
「俺たち界航隊は、あくまで後方支援だ」
遼河が答える。
「ゲートの維持、物資と人員の輸送、退路の確保。複隊編成に参加することはあっても、前線を含む全体指揮を執ることはまずない」
遼河は画面に表示された北部廃棄区域を見る。
「異常が発生した場合、現場全体を動かす指揮官が必要になる。今回は、お前が適任だ」
「……承知しました」
玲は姿勢を正し、碧を見る。
「必ず、碧様のご期待に応えてみせます」
碧はすぐには答えなかった。
『私の期待ではなく、現場を見ろ』
「はい」
『私も、君の指示に従う』
その一言が、玲の胸へ重く落ちた。
碧が自分の指示に従う。
森羅隊の副隊長として、それ以上の名誉はない。
「神楽坂玲、合同部隊の指揮を拝命します」
◇
午前八時二十二分。
北部廃棄区域の外周に、青白い亀裂が走った。
空間系ギフト――「ゲート」。
縦に開いた亀裂が楕円形へ広がり、その向こうにアストラ本部の転送区画が映し出される。
御影遼河を先頭に、界航隊と森羅隊が現場へ足を踏み入れた。
最後に、碧と玲がゲートを通過する。
周囲には、金属の山がいくつも連なっていた。
潰された廃車。
折れ曲がった鉄骨。
錆びた配管。
解体された大型機械の部品。
どこを見ても、人の生活を終えた物ばかりが積み上げられている。
空には幽星が浮かんでいた。
白い表面の縁で、赤い光が僅かに脈打っている。
「相馬副隊長。撤退用ゲートの座標を固定してください」
「了解しました」
千景が地面へ片手を置く。
「界錨」
淡い紫色の星素が地面を走り、ゲートの周囲へ円形の紋様を刻んだ。
「座標固定、完了。周辺に空間系の妨害反応はありません」
「御影隊長はゲートを維持。界航隊は装置を発見しても、私の許可なく接触しないでください」
「了解した」
「篠宮さん」
「はい」
篠宮澄香が一歩前へ出る。
「区域内の生体反応と、三つの星素反応の正確な位置を確認してください」
「露標」
澄香の周囲に、無数の透明な小球が生まれた。
水滴にも見える小球は、廃材の隙間や地面の亀裂へ入り込み、区域全体へ散っていく。
「土門さんは進入経路の安全を確認。地盤が崩れる可能性のある場所は、地縫で固定してください」
「了解」
土門岳が地面へ触れる。
黄色い星素が地中へ広がり、廃材の重みに耐えられなくなっている箇所を探り始めた。
「碧様には、区域外周の監視をお願いいたします」
『外周でいいのか』
「生体反応を隠蔽した候補者や、敵の別働員が潜んでいる可能性があります。不測の事態へ対処できる方を、内部の捜索だけに割くべきではありません」
碧は玲を見つめた。
命令の意図を確かめるような視線だった。
玲は逸らさない。
『分かった』
碧が区域の外周へ向かう。
『君の指示に従う』
「ありがとうございます」
玲は碧の背中を見送った。
判断に誤りはない。
役割の配分も適切だった。
それでも、自分から離れていく白い背中を見ていると、胸の奥に僅かな緊張が生まれる。
碧様から任された。
必ず、結果で応えなければならない。
「神楽坂副隊長」
澄香の声が、玲の意識を現場へ戻す。
「三つの反応地点を確認しました。事前の観測結果と一致しています」
端末の地図へ、三つの印が表示される。
三角形を描くように、それぞれが数百メートル離れている。
「生体反応は?」
「ありません。地表にも、地下にも人間と思われる熱源は確認できません」
「候補者はいない……」
玲は三つの地点を見比べた。
「第一地点へ向かいます。第二、第三地点には観測要員だけを先行させてください。装置の状態が判明するまで、回収は行いません」
「了解!」
合同部隊が動き出す。
廃材の山の間に作られた細い通路。
土門が足場を固定し、その上を森羅隊と界航隊が進んでいく。
玲は歩きながら、戦術通信端末へ表示された三つの反応を見つめていた。
脈動の間隔は、完全に同じ。
強さも、増減の周期も一致している。
「相馬副隊長」
「何でしょうか」
「この三つは、別々の装置だと思いますか」
千景が端末を確認する。
「物理的には分離しています。しかし、星素の動きだけを見れば、一つの装置にある三つの部品と考える方が自然です」
「三つで一つ……」
玲が呟いた直後。
三つの反応が、同時に大きく脈打った。
《全員、止まって!》
蘭の声が通信へ響く。
《三地点の星素出力が上昇してる!》
「全隊員、防御態勢!」
玲の指示と同時に、廃棄区域の地面が揺れた。
地震ではない。
積み上げられていた廃材が、ひとりでに動き始めている。
廃車が金属の山から引き抜かれる。
鉄骨が空中へ浮かぶ。
無数の機械部品が、三つの反応地点へ向かって飛んでいく。
「絶対静界!」
玲を中心に、無色の領域が広がった。
宙を飛んでいた廃材が、一斉に動きを止める。
潰れた車体。
数メートルの鉄骨。
人の身体よりも大きな機械部品。
そのすべてが、空中へ縫い止められたように静止した。
「負傷者は?」
「いません!」
「第一班は後退。第二、第三地点の観測要員も、その場から離れなさい!」
《第二地点、後退します!》
《第三地点も異常なし!》
玲は空中の廃材を固定したまま、三つの反応へ意識を向けた。
一つではない。
三つの地点すべてで、静界の内側から力が加わっている。
地面が盛り上がった。
埋められていた黒い装置が、赤黒い光を放ちながら地表へ現れる。
第一地点。
第二地点。
第三地点。
三つの装置から、同時に音声が流れた。
「見捨てないで」
これまで聞いた女の声ではない。
男とも女とも判別できない、掠れた声。
「置いていかないで」
玲の周囲で静止していた廃材が震え始めた。
「ここにいるから」
絶対静界に固定されているにもかかわらず、鉄骨が僅かに動く。
玲が星素出力を引き上げた。
「止まりなさい!」
震えが収まる。
しかし、静界の外側にある廃材は止まらない。
三つの黒い装置を中心として、膨大な量の金属が集まり始めた。
廃車が潰れ、引き延ばされ、巨大な胴体を形成する。
鉄骨が腕となる。
機械部品が幾重にも重なり、頭部のない異形を作り上げる。
三つの地点に、三体の怪物が立ち上がった。
いずれも全高は五メートルを超えている。
胸部には、黒い装置を取り込んだ赤黒い核が脈打っていた。
《生体反応はないよ》
蘭が解析結果を伝える。
《三体とも、人間でも星獣でもない。第一確認個体と同じ自律形成反応を確認》
「星魔……」
玲が三体の異形を見る。
《星魔第二確認個体と暫定認定するよ。ただし、反応は三つに分かれてるのに星素波形は一つしかない》
千景が観測器を見つめる。
「三体ではありません」
三つの核の間を、赤黒い星素が細い線となって繋いでいる。
「一つの星魔が、三つの身体を持っています」
《推定星素量、約四万St》
三体の星魔が、同時に腕を振り上げた。
「見捨てないで」
廃材で形成された巨大な腕が、三方向から振り下ろされる。
「静界!」
三つの無色の領域が、それぞれの腕を包み込んだ。
轟音が鳴る直前。
すべての腕が空中で停止する。
拳から放たれた衝撃も、周囲へ飛び散ろうとした金属片も動きを失った。
「三地点を同時に……」
界航隊員が息を呑む。
「対象の動きを固定しました」
玲は三つの静界を維持したまま、指示を出す。
「第一班は第一地点。第二班は第二地点。第三地点には土門さんが向かってください。目標は星魔本体ではなく、胸部の黒い装置です」
「了解!」
「相馬副隊長は、三つの核を繋ぐ星素の経路を調べてください」
「承知しました」
「御影隊長。緊急時の撤退に備え、各地点へゲートを展開できますか」
「可能だ。だが、同時に維持できるのは短時間になる」
「構いません。私が合図するまで、開く必要はありません」
三つの星魔が拘束を破ろうとする。
赤黒い星素が噴き上がり、静界の境界へ衝突する。
玲の黒髪が、行き場を失った星素の圧力で揺れた。
それでも、足は動かない。
三つの腕は、僅かにも下がらなかった。
「これが、絶対静界……」
千景が三地点の観測値を見る。
玲は星魔を拘束しているだけではない。
移動する隊員たちの足場を固定し、崩れかけた廃材の山を止め、黒い装置から漏れ出す熱まで周囲へ広がらないよう抑えている。
条件の異なる静界を、同時に展開していた。
遼河が玲を見る。
「まだ維持できるか」
「問題ありません」
玲の戦術通信端末に表示された星素残量は、三万九千Stを上回っている。
三つの身体へ分散しているとはいえ、相手の推定星素量は約四万St。
それでも玲の静界は、一度も押し返されていない。
外周から状況を見ている碧も動かなかった。
玲の指示どおり、周囲の警戒を続けている。
「第一地点、核へ到達しました!」
「第二地点も配置完了!」
土門が第三地点の星魔へ近づく。
固定された巨大な脚の下へ潜り込み、地面へ両手をついた。
「地縫!」
黄色い光が地面を走り、星魔の脚部を構成する金属と地盤を縫い合わせる。
「第三地点、固定した!」
「相馬副隊長」
「三つの核は、星素を循環させています」
千景が空中へ観測結果を表示する。
第一の核から第二へ。
第二から第三へ。
第三から再び第一へ。
赤黒い星素は三つの核を巡り、一度も流れを止めていない。
「一つの核を破壊すればどうなりますか」
「他の二つへ星素が移ります。残された核の出力が上昇する可能性が高いです」
「同時に切り離す必要があるということですね」
「はい。ですが、物理的に離すだけでは不十分です。星素経路そのものが、三地点の座標を接続しています」
遼河が観測結果を見る。
「俺のゲートで三つの核を別々の場所へ送る」
「転送中も接続が維持された場合は?」
「相馬の界錨で、それぞれを異なる座標へ固定する。座標同士の繋がりを切断できるはずだ」
「準備には、どれほどかかりますか」
「一分」
玲は三つの星魔を見る。
拘束は維持できている。
星素残量にも余裕がある。
「準備を開始してください」
「了解」
遼河が三地点へ向けて右手を広げた。
星魔の胸部周辺に、青白い亀裂が生まれる。
千景は地面へ両手を置き、三つの界錨を同時に刻み始めた。
星魔が再び声を発する。
「置いていかないで」
三つの身体から、同じ声が流れる。
「何も取らないで」
星魔の足元に転がっていた金属片が浮かび上がる。
静界の内側。
玲が既に固定している物質だった。
金属片は細かく震えながら、星魔の身体へ戻ろうとする。
「それ以上、何も取り込ませません」
玲が右手を握る。
静界の境界が狭まり、三つの身体を強く締めつける。
外装の金属が軋む。
星魔は動けない。
「残り四十秒!」
千景が告げる。
三つの核が、激しく脈打った。
その一つ。
第一地点の星魔から、突然すべての星素反応が消える。
「第一地点、出力低下!」
森羅隊員が報告する。
廃材で作られた巨体が、その場へ崩れ始めた。
「静界の効果ではありません」
玲が答える。
自分は身体を固定しているだけで、核の星素循環までは止めていない。
続いて、第二地点の核からも光が消えた。
残されたのは、第三地点だけ。
「第二地点も活動停止!」
《待って》
蘭の声が低くなる。
《星素が消えたわけじゃない》
千景が観測器へ目を落とす。
第一の核から消えた星素。
第二の核から消えた星素。
そのすべてが、第三の核へ流れ込んでいる。
「第三地点へ出力が集中しています!」
土門の頭上で、星魔の巨体が膨張した。
周囲の廃材が静界の境界へ衝突しながら、強引に引き寄せられていく。
玲が拘束を強める。
「止まりなさい!」
第三地点の静界が大きく軋んだ。
それまで三つに分かれていた約四万Stの星素が、一つの核を巡っている。
赤黒い光が巨体の内側を走り、右腕だけへ集まっていく。
三つの黒い装置から、女の声が流れた。
星魔が繰り返していた掠れた声とは違う。
これまでの強制クラフト事件で、何度も聞いた声。
「侵入者を排除しなさい」
玲の表情が変わる。
「核を守りなさい」
「最も脅威となる対象へ、すべてを集中して」
「命令が、残されている……?」
《違うよ》
蘭が三つの装置を解析する。
《同じ音声を反復しているだけじゃない。今の状況に応じて、実行する命令を切り替えてる》
「星魔が判断しているのですか」
《星魔そのものに思考反応はない。三つの装置が、外部から与えられた命令を選択してるの》
星魔は学習していない。
考えてもいない。
それでも、戦うための行動だけは与えられている。
第一確認個体とは違う。
偶然生まれただけの怪物ではない。
敵は、この星魔を戦わせるために用意した。
「残り二十五秒!」
千景の足元で、三つの界錨が形を整えていく。
第三地点の星魔が、固定された右腕を強引に引き上げた。
玲の静界へ亀裂のような光が走る。
「神楽坂副隊長」
遼河が星魔の出力を確認する。
「一度退く。撤退用ゲートは開けられる」
「分離準備は?」
「まだ終わっていない。だが、このままでは静界が破られる」
第三地点の星魔が右腕を振り上げる。
その先には、界錨を維持する千景がいた。
千景が動けば、三つの装置を分離できない。
玲は、三つの静界を解除しなかった。
活動を停止した二つの身体。
そこには、核の分離を待つ森羅隊員と界航隊員が残っている。
二つの静界を解除すれば、崩れた廃材が隊員たちへ降り注ぐ。
周囲に積まれた廃材も固定し続けなければならない。
「続行してください」
「神楽坂副隊長」
「あと二十五秒で、三つの装置を確保できます」
「その二十五秒を維持できる根拠はあるのか」
玲は星魔を見上げた。
星素残量は、まだ三万を超えている。
第三層で星魔第一確認個体を制圧したときも、半分以上の星素を残していた。
今も、領域そのものが崩壊したわけではない。
出力を上げれば止められる。
「私が止めます」
玲は答えた。
「作戦を続行してください」
遼河は数秒、玲を見る。
しかし、指揮官の命令を無視することはなかった。
「……了解した。相馬、急げ」
「残り二十秒!」
星魔の右腕が、さらに巨大化する。
腕以外の身体が崩れ始めた。
脚も。
胴も。
頭部も。
身体を維持していた廃材まで右腕へ集まり、一本の巨大な杭のような形へ変わっていく。
《玲、対象は身体の維持を放棄してる》
蘭の声が響く。
《約四万Stを、一度に放出するつもりだよ!》
「分かっています!」
玲は第三地点を覆う静界を収縮させた。
巨大な腕だけを包み込み、外部への変化を拒絶する。
だが、他の領域は解除できない。
第一地点。
第二地点。
界航隊の転送拠点。
周囲を埋め尽くす廃材。
すべての静界を維持したまま、玲は第三地点へ出力を集中させる。
「絶対静界!」
無色の境界と、赤黒い星素が衝突した。
空気が歪む。
廃棄区域全体が、低く震え始める。
「残り十五秒!」
星魔の腕が僅かに動いた。
一センチ。
静界の内側で、停止していたはずの切っ先が下がる。
「止まりなさい……!」
玲が出力を引き上げる。
星素残量が急速に減少する。
二万八千。
二万五千。
二万一千。
それでも、星魔の腕は止まらない。
無色の境界に、一本の亀裂が走った。
「静界に損傷を確認!」
千景が叫ぶ。
「神楽坂副隊長、もう持ちません!」
「残りは!」
「十二秒です!」
十二秒。
それだけ耐えれば、三つの核を分離できる。
玲は奥歯を噛み締めた。
「続けてください!」
「全員を退かせろ!」
遼河の声が飛ぶ。
「装置はまた探せる! だが、人間は戻らない!」
「私が止めると言っています!」
玲の声が、廃棄区域へ響いた。
その瞬間。
玲の脳裏に、作戦会議室での碧の言葉が浮かんだ。
私の期待ではなく、現場を見ろ。
見ている。
自分は現場を見ている。
三つの装置を確保するために。
この星魔を倒すために。
碧様から任された指揮を、完遂するために。
亀裂が増えた。
一本。
二本。
静界全体へ、無数の光が走る。
「あと十秒!」
星魔の腕が落ちてくる。
玲は両手を前へ伸ばした。
「止まりなさい!」
星素出力を限界まで引き上げる。
絶対静界は、あらゆる外部変化を拒絶する。
熱。
衝撃。
圧力。
動き。
玲が止めると決めたものは、何一つ領域の中で変化することを許されない。
そのはずだった。
乾いた音が鳴った。
無色の境界が砕けた。
絶対静界が破られる。
星魔の腕が、一気に振り下ろされた。
「神楽坂!」
遼河がゲートを開こうとする。
間に合わない。
玲は反動で吹き飛ばされ、地面へ叩きつけられた。
呼吸が止まる。
視界が揺れる。
それでも、玲は顔を上げた。
巨大な腕の先に、千景がいる。
界錨を維持したまま、動けずにいる。
「相馬、副隊長……!」
玲は右手を伸ばした。
もう一度、静界を展開しようとする。
星素が乱れ、形にならない。
巨大な腕が千景へ迫る。
玲は立ち上がれない。
自分が続行させた。
遼河は撤退を求めた。
それを退けたのは、自分だ。
「碧様……!」
白い影が、玲の前を横切った。
次の瞬間。
地面が轟音を立てて隆起した。
巨大な岩盤が星魔の腕を下から貫き、空中へ押し上げる。
廃材の塊が砕け、赤黒い星素が飛び散った。
『――磐根ノ神』
長い白髪が、吹き荒れる星素の中で揺れている。
碧が玲と千景の前に立っていた。
「碧様……」
玲の声には、安堵よりも先に震えが混じった。
碧は星魔から目を離さない。
『玲、下がれ』
「まだ、終わっていません」
玲は地面へ手をつき、立ち上がろうとする。
「静界を展開し直します。今度こそ、私が――」
『下がれ』
「ですが、碧様!」
『これは命令だ』
玲の身体が止まった。
碧の声は穏やかだった。
怒鳴ってはいない。
それでも、拒むことはできなかった。
「……承知しました」
玲は俯いたまま答える。
碧が遼河へ顔を向けた。
『遼河さん。分離準備の進行は』
「八割を超えている。だが、相馬を一度下げる」
『お願いします』
「相馬、界錨を解除しろ!」
「しかし、ここで解除すれば最初から――」
「生きていれば、やり直せる! ゲートへ入れ!」
「……了解!」
千景が三つの界錨を解除する。
遼河が開いたゲートへ飛び込み、星魔の攻撃範囲から離脱した。
玲が守っていた第一、第二地点からも、隊員たちが撤退を始める。
静界の消えた廃材が崩れ落ちる。
だが、その下に残っている者はもういない。
碧は全員の退避を確認すると、地面へ片手を触れた。
『土門さん』
「はい!」
『三つの核と地面を繋ぐ星素経路を、地縫で固定できますか』
「止めることは無理です。ですが、位置なら押さえられます!」
『十分です』
土門の黄色い星素が、三地点へ走る。
崩れた廃材の下にある黒い装置を捉え、その位置を地面へ縫い止める。
『澄香さん。三つの核の正確な位置を遼河さんへ』
「了解しました!」
露標が廃材の隙間へ潜り込む。
三つの核の座標が、遼河の端末へ送られた。
『遼河さん。今度は一つずつで構いません』
「同時に分離しないのか」
『先に、星素の循環を断ちます』
碧の指先から、ターコイズブルーの星素が地中へ流れ込む。
大地が動いた。
三つの核を繋いでいた地層が、深く割れる。
赤黒い星素の経路が引き延ばされ、細くなっていく。
星魔が右腕を再生しようと、周囲の廃材を引き寄せる。
碧が地面へ触れたまま告げた。
『させません』
核の周囲を、岩盤が覆う。
廃材が動きを止めた。
絶対静界のように、変化を拒絶したのではない。
星魔が引き寄せる力よりも遥かに強い力で、大地そのものが廃材を押さえ込んでいる。
玲は、その光景を見ていた。
自分が複数の静界を維持し、必死に止めようとしたもの。
碧は周囲の力を使い、短い指示だけで封じている。
「第一地点、開くぞ!」
遼河がゲートを展開する。
土門によって位置を固定された黒い装置が、廃材ごとゲートの向こうへ落ちた。
接続先は、北部廃棄区域から数十キロ離れた無人の観測施設。
核同士を繋いでいた星素経路が、一つ切れる。
星魔の出力が低下した。
「第二地点も転送する!」
二つ目のゲートが開く。
黒い装置が、別の隔離施設へ送られた。
残された第三の核が激しく点滅する。
《第三地点の装置に異常!》
蘭が警告する。
《内部温度が急上昇してる。自壊するつもりだよ!》
「見捨てないで」
星魔の掠れた声が流れる。
「置いていかないで」
胸部に残された最後の核が膨張する。
赤黒い星素が、周囲へ噴き出そうとした。
碧が右手を上げる。
星魔の周囲から、巨大な岩壁が立ち上がった。
前後。
左右。
頭上。
何重もの岩盤が星魔を覆い、外界から完全に隔離する。
直後、内部で黒い装置が爆発した。
岩壁が内側から膨らむ。
表面へ無数の亀裂が走る。
それでも、破片も炎も外へは漏れなかった。
数秒後。
赤黒い光が消える。
《星素反応、急速に低下》
蘭が三つの地点を確認する。
《第二確認個体、活動停止したよ》
廃棄区域へ静寂が戻った。
地面には砕けた金属と、星魔を閉じ込めた巨大な岩塊が残されている。
森羅隊と界航隊に死者はいない。
重傷者も確認されていない。
二つの黒い装置は、別々の隔離施設へ送られた。
三つ目は失われたが、任務目的は達成されている。
「任務完了だ」
遼河が告げる。
隊員たちから、安堵の息が漏れた。
玲は何も言えなかった。
自分の目の前に、碧が立っている。
また、碧様に守られた。
だが、以前とは違う。
あの地盤沈下では、玲が持たせた時間によって全員が救われた。
碧は、玲が果たした役目の続きを引き受けた。
今回は違う。
玲が判断を誤った。
玲が退却を拒んだ。
玲が千景を危険へ晒した。
だから碧が、自分の前へ立つことになった。
◇
同日、午後一時二十分。
アストラ本部、第二作戦会議室。
任務結果が、大型画面へ表示されていた。
星魔第二確認個体の討伐。
黒い装置二基の回収。
人的被害なし。
候補者の生体反応なし。
回収された装置からは、これまでに確認されたものより古い記録が発見されている。
記録された日付は、最初の強制クラフト事件が起きる以前。
御門朔夜たちは、アストラが事件を把握するよりも前から、何者かを使って実験を続けていた可能性が高い。
《現在捜索中の十五人とは、星素波形が一致しなかったよ》
蘭が報告する。
《第二確認個体の起源になった人物は、別にいると思う。ただ、人体組織も星脈も残ってないから、今の段階では身元を特定できない》
「回収した二つの装置は?」
遼河が尋ねる。
《分析区画へ移送済み。二基とも機能の一部が残ってるよ》
「なら、任務の目的は達成したな」
《うん。正式な判定も作戦成功になる》
画面に、任務記録が表示される。
現場指揮官。
前半――神楽坂玲。
後半――天城・イワノワ・碧。
玲の視線が、その二行で止まった。
作戦成功。
人的被害なし。
黒い装置を確保。
どれも間違いではない。
それでも、玲には自分が任務を成功させたとは思えなかった。
会議が終わり、隊員たちが退室していく。
遼河が玲の前で足を止めた。
「相馬に怪我はない」
「……はい」
「界錨を解除したあと、医療区画で検査を受けさせた。星脈にも異常はなかった」
「御影隊長」
玲は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「俺に謝ることじゃない」
「私の判断で、相馬副隊長を危険に晒しました」
「そうだな」
遼河も否定しなかった。
「だが、今ここで謝られても、俺はお前を許すとも許さないとも言えない」
玲が顔を上げる。
「指揮官の判断が正しかったかどうかは、謝罪の回数で決まるものじゃない。次に同じ状況が起きたとき、お前が何を選ぶかだ」
「……承知しました」
遼河はそれ以上何も言わず、会議室を出ていった。
残ったのは、玲と碧だけだった。
大型画面には、まだ任務結果が表示されている。
「碧様」
玲が碧へ向き直る。
「申し訳ありませんでした」
碧は答えない。
「私は、碧様から託された部隊を危険に晒しました」
『ああ』
胸の奥が痛んだ。
否定してほしかったわけではない。
慰めてほしかったわけでもない。
それでも、碧の口から事実を告げられると、玲は息をすることさえ苦しくなった。
『君は、遼河さんの撤退提案を退けた』
「はい」
『星魔の出力が変化したあとも、当初の作戦を続けた』
「はい」
『なぜだ』
玲は答えようとした。
三つの装置を確保できると考えた。
残り十二秒ならば耐えられると判断した。
自分には、まだ星素が残っていた。
どの言葉も、喉の奥で止まる。
それらはすべて、あの場でも考えていたことだった。
だが、その底に別の感情があった。
「私なら、止められると……思いました」
『それは分析か』
碧のターコイズブルーの瞳が、玲を見つめる。
『それとも、君の願望か』
玲は何も答えられなかった。
碧様から任された。
碧様も自分の指示に従うと言ってくれた。
その任務で、撤退を命じたくなかった。
失敗したくなかった。
碧様に、自分なら任せられると証明したかった。
現場よりも先に、碧の期待を見ていた。
「……願望でした」
玲は両手を強く握った。
「私は、自分が止められると信じたかったのです」
『そうか』
「指揮官として、誤った判断でした」
『ああ』
碧は玲の誤りを否定しない。
『忘れるな』
「……承知しました」
玲は深く頭を下げた。
「失礼いたします」
会議室を出る。
扉が閉まるまで、碧は呼び止めなかった。
◇
同日、午後十一時四十分。
森羅隊の個人訓練室に、玲は一人で立っていた。
机の上には、北部廃棄区域の任務報告書が置かれている。
現場指揮官。
前半――神楽坂玲。
後半――天城・イワノワ・碧。
何度閉じても、その二行が頭から消えなかった。
玲が右手を上げる。
「絶対静界」
無色の領域が、訓練室を満たした。
空調の風が止まる。
机から落ちかけていた紙が、傾いた状態で静止する。
壁の時計も、秒針を動かさない。
音も。
熱も。
空気の流れも。
すべてが完全に固定されている。
絶対静界は正常だった。
境界に亀裂はない。
制御にも乱れはない。
玲は星能を解除した。
止まっていた紙が、机の上へ落ちる。
小さな音が、誰もいない訓練室へ響いた。
「私なら、止められると……」
あのときの自分の声が蘇る。
続けて、絶対静界が砕けた音。
地面へ叩きつけられた痛み。
千景へ迫る巨大な腕。
自分の前へ立った、碧の白い背中。
玲は目を閉じた。
碧様は間違えない。
だからこそ、自分がその隣に立たなければならないと思っていた。
碧様の力を誰よりも理解し、その命令を誰よりも正確に実行できる者。
それが自分だと信じていた。
だが今日。
碧がいなければ、玲は部下を死なせていた。
自分も死んでいたかもしれない。
玲は机の上の報告書を伏せた。
任務は成功した。
星魔は倒された。
黒い装置も回収された。
全員が生きて帰った。
失敗したのは、神楽坂玲だけだった。




