俺の日常は温くて甘い。
俺視点。
俺の朝は早い。
夜が明ける前にベッドから出、外の空気を肺いっぱいに吸い込む。
ーーー静寂
肌射る緊張感を纏い、目を閉じた。
ヒュッと鋭く息を吐き出し、その気を逃さぬうちに攻撃の型をキめ、次いで防御の構えをとる。
古傷疼く片足に力が入らず重心がずれるが、慣れ親しんだその感覚は転倒まで及ぶ事なく、次の動作への振りと化す。
日々変わらぬ鍛練は、頭から水をぶっかける事で終了。
その後、身支度を整えてからパン2、3枚という簡素な朝めしを掴んで、猟犬連れて山に入るのが俺の日常である。
いや、日常であったと言うべきか。
結婚してからこっち、この日常をこなす事が難しくなっている。
まず時間通りにベッドを出る事から困難になっているのだ。
目が覚めるのは、覚める。
長年身にしみた習慣と言うものは、そうそう抜けるものではないらしい。
朝の覚醒と同時に目に入って来るのは金の髪。
自分のものは黒であるし、何よりここまで長くない。
口元、頬に触れる、その自分のものではない髪の滑らかで柔らかい感触を堪能する。
同時に鼻孔を撫でる優しい香りは離れがたいものがあった。
「………ん」
金の髪の持ち主、………………つまり妻なのだが。………俺の。
妻のくぐもった声が俺の胸元あたりで聞こえる。
そのあたりに湿った空気を感じるのは吐息、もしくは涎のせいだ。
勿論妻の。
「………んん~」
意味の分からない唸り声を上げながら、ぐりぐりと胸元に頭を擦り付けてくるのは正直くすぐったい。
シャツをギュッと掴まれてしまえば、起きるに起きられないだろう。
そして起きたくなくなる。が、それでは駄目なんだ。
そう自分に言い聞かせ、妻に覆い被さるように抱き締める。
圧迫感と熱を感じた妻は、俺の体を押しやりベッドの端へと避難した。
無意識なのだと思いつつも、俺を避ける様に若干傷つく。
離れるよう仕向けたのは俺自身にも関わらずそう思うのだから、勝手なものだ。
緩いイラだちのまま俺を突っぱねる妻の手を取り、その甲を吸う。
湿度を帯びたその音を耳にすると、虚しさが募っていった。
「寝てる女に何やってんだか………」
ため息をつきながら、ベッドを出る事となる。
鍛練に出る前には妻を起こさなくてはいけない。
起こさないと文句を言ってくるのだ。が、これにもかなりの時間を要する。
文句を言うぐらいならさっさと起きて欲しんだがな。
「起きろ、リィナ」
声を掛ける程度では身じろぎ一つしない。
肩を揺らしても一向に起きない。
リィナの寝汚さは一級品だ。
「おい、起きろ」
そう言って気持ちよさそうに寝息をたてる妻を乱暴に起こす、フリをしつつ無駄に髪やら頬やら触ってしまう自分は、堕ちる所まで堕ちた思う。
唯一の救いは俺が妻と夫婦という事だ。
いまだ体温の上がりきっていない妻の体は普段よりも白い。
最後の足掻きと、ぎゅっとシーツを握る妻の指先に視線を移す。
不意に視界に入るのは俺が先ほどつけた、手の甲の赤い印。
ニヤけるどころの騒ぎではない。
高揚感と罪悪感で、頬が赤くなるのが分かった。
「………ん」
目覚めそうな妻の声を聞き、何事も無かったような表情を作る。
そして、さも本気で起こそうとしていたかのように耳元で怒鳴ってみた。が………
「リィナ、いい加減起………んっ!」
引かれたのは、襟元。
グイッと妻が近付いたのは分かった。
そして塞がれる、口。
塞いでいたのは妻の口。
(ああ、そうか。煩かったら口塞げば万事解決だ………。つうか、どんだけ寝たいんだ、コイツは。まったく寝汚いにも程がある………)
現状況に悪態をつかないと、何かの沸点を越えてしまいそうになる俺にはお構いなしに、妻は微笑む。
「……もう少し………寝かせ…て?……おじ、さん?」
スルリと襟から離れる細い手、そして口。
一センチずつ離れるそれらは、ゆっくりとベッドへ落ちてゆく。
その瞬間シーツから覗く鎖骨が視界に入り、はみ出る太股が俺の手に触れて…
いまだ緩やかな笑みをたたえる妻は微かに呟く。
「………ん、…ふふっ…………お、じさん…………だあい、す…きぃ………」
………………………全身から汗が噴いた。
ちょっと整理をしよう。
今俺のやるべき事は何だ?
まずは起こす事だろう、妻を。
そして、鍛練する。
んで、山へ入る。
よし完璧だ。
大丈夫、やるべき事はわかった。
わかったからには実行あるのみだ。
よしよし、汗を拭け。
そして落ち着いて起こすんだ。
さっきみたいな爆弾を落とされる前に。
「リィナ………」
呼びかけた瞬間、バチィ!!!と合った視線。
今起きたとは思えない程はっきりとした笑顔をたたえている。
………………………妻よ、一体いつから…いや、どこから起きていた?
妖艶とは決して言えない、はつらつとした微笑みを見ながら、俺は変な汗をかいていた。
噴き出た汗とは違い、背中を伝うように流れる汗。
寝ていると思っていたからこそ出来た妻への接触…それら知られていたと思うと………居たたまれない。
どこから起きていた、とか関係ない。
脱兎のごとく動く俺、絡んでくるのは白い腕。
背から回されたその細い腕は、ありえない程の力をもって俺を拘束する。
ギュッと抱きしめられた背中が熱い。
「ん~~~」
おはよう、そう俺には聞こえた。
そして密着した身体に響く、妻の鼓動と俺の動悸。
「ん、ふふふ」
背中から聞こえる意味深なその笑い声を、努めて聞かないフリをする。
ぐりぐりぐりぐり………
俺の背中に顔をこすりつける。この意味不明な行動に、俺はどう返せばいいのか。
とりあえず、後ろに居る妻の顔色を見る為に首をひねる。
するとキラッキラの目が。
こすりつけていた額や頬が赤くなっているのはご愛嬌。
イイ笑顔を向けられ、右手を後ろに引かれた。
すると手の甲に感じるささやかな痛み………
痛みの原因である小さな口をニヤッと吊り上げ、自分の手の甲を見せてきた。
そこにあるのは俺が付けた………
「おそろいだね?おじさん」
汗が噴いた(二回目)
「おじさん、すごい汗だね~」
「わおー、顔真っ赤~」
「そんな事より、朝ご飯何食べる~」
妻の言葉は耳に入らず、俺は頭を抱えていた。
「ベーコン焼くよ~」
「卵切れてるし!裏までとりに行ってくるね」
「スープにこれ入れるけど、残さず食べてよ~?」
耳に入って来ない。
「今日の朝ご飯も美味しくできた~」
「洗濯日和だわ~」
耳に入ってこ…「おじさん?今朝の運動はお休み!?」
頭を抱えていた手を解かれ、笑顔を向けられていた。
いや鍛錬は休まんぞ、今日は天気よさそうだな、朝飯のいい匂いがする、………にしてもどこから起きていた?てか悪ぃ、寝てる時に手ぇ出して…………
言いたい事は沢山あるが、何一つ喋る事が出来ず。
「………ん」
目をそらしながらそう言うのが精一杯だった。すると降ってくるキスの嵐。額に頬に顔に頭に。蹲る俺を押し潰すかのように抱きついて来て…
その全身全霊の愛情に目眩を感じながら、更にその上から抱き締め返した。
緩んだ顔を、赤い耳を、分かりやす過ぎる俺の気持ちが見られないように。
腕の中に強く優しく包み込む。
…………………あー、離れがたい。
予定通りに事が進まない幸せを、俺は今日も感じている。