第四十九話 side 菊鞠と夫の天使4
それは突然だった。その日は雲が高い冬の空が青くきれいな日だった。そんな綺麗な冬の空に無数に何かが浮かんでいる。それは一つや二つでは無く何百何千と言う数だと一瞬で分かるほどの量だった。
誰が最初に発見したのだろう。そう、誰かは分からないが、皆が見る方向に何かが居た。
「あれは何かな?琥珀」
距離がありすぎるのと逆光によって良く見えなかった私は琥珀にそう尋ねた。しかし、琥珀からの返事が無い。不思議に思った私は琥珀の横顔を見た。その横顔は…。
「…菊鞠、今すぐここから逃げろ」
「え?なんで?」
「あれは…天使だ。あれは天使だ!」
急に声を張り上げた琥珀に驚く。私が何が何だか分からなくてあたふたしていると、琥珀は私の手を握りながら周囲に叫んだ。
「みんな逃げろ!あれは天使の大群だ!こっちに来るぞ!」
皆もすぐには理解できるものは居なかったのか、直ぐに動けるものはいなかった。しかし、ポツポツと理解する人間が現れ始めた。その小さな波から始まった恐怖は徐々に加速していき、村全体に広がるのにさほどの時間はかからなかった。
「「キャーァ!」」
徐々に走り出した波は直ぐに広がり、皆が天使から逃げるべくして、同じ方向に走っていく。
その波とは違い、琥珀は集団から逃げるように外れた道へと私を引っ張って行った。
「はぁはぁ。急に走り出して何?」
「菊鞠よく聞くんだ。いいかい、ここから少人数で行動して大和都市にに向かってくれ。あそこならば安全だ」
琥珀は今までに見た事が無いほど怖い顔をしてそう言ってきた。
私は混乱していて良くは理解していなかったが、何となく琥珀が言いたい事が分かってきた。
「な、何よ急に」
「これは一生のお願いだ」
「琥珀はどうするのよ」
「僕は此処に残って天使の相手をする。だから菊鞠は…」
「バカ言わないで!琥珀が残るなら私も残るわ!」
琥珀を残して行くなんて私には考えられない。私はそれほどまでに琥珀を愛しているし、大事に思っている。
私にだって琥珀が死ぬならば自分も死ぬ覚悟はできている。
しかし、琥珀は私の言葉を聞いて懇願したような表情になると、両手を私の方に乗せて目を覗き込んできた。
「…菊鞠、これは俺からの最初にして最後のお願いだ。菊鞠は逃げてくれ」
「私も…」
私が琥珀と行くと言いかけた瞬間に、それを遮って言葉を発した。
「それにその子だっている。菊鞠はその子を守ってくれ」
それは私の頑固な気持ちを揺るがされる言葉だった。
確かに今は私だけの命では無い。お腹にはこの子がいる。そう思うと、私は次の言葉を発せなくなっていた。
「菊鞠、分かってくれるか?」
「……そう…ね。分かったわ。……でも約束して琥珀も生きて合流するって」
「…ああ、分かった。それとちょっといいか。その子にプレゼントをしたい」
「うん?いいわよ。でも何を…」
琥珀は私のお腹に両手を当てると目を閉じて集中し始めた。何をしているのか全く分からない私は疑問符がいくつもついていたが、一分もしたら琥珀は両手を離した。
「何をしていたの?」
「この子にプレゼントを…ね。この子の役に立つかは分からないけれどもしかしたらこの子の助けになるかもしれない」
琥珀が言っている事が全く理解できなかった私はもう少し具体的な事を聞こうとした。しかし、その時間はもう無いようだった。
天使が空からゆっくり降りてきているのが分かる。さっきよりも天使の数が増していて、空を埋め尽くすほどに多く居た。
「どうやら時間みたいだ。いいかい菊鞠。なるべく少人数で大和に行ってくれ。大勢だと残党の天使に攻撃される恐れがある。それと、その子の事を頼んだよ」
そう言うと琥珀は私の唇に一つキスを落とすと、天使の翼を出現させて空へと飛び立って行ってしまった。
「まって琥珀!」
私が彼を止めるようにそう叫んでも彼は一切振り返ることなく天使の群れの方へ飛んで行ってしまった。
私はただただ立ち尽くすしかなかった。もしも私が強い超能力を持っていたら琥珀と一緒に闘えたのかもしれない。そのことを思い自信を恨むが今は自分一人の身じゃない。お腹には琥珀との子供が居るのだ。
私は琥珀に言われた通りに一人で道を走っていく。
アスファルトの間から伸びた木々が空を見にくくするが、琥珀の姿ははっきりと見えた。一対数万と言う絶望的な対立の仲てその立派な三枚の翼が私を守るかの様に大きく広げられていた。
ドン!と大きな音が鳴る。
上空では琥珀と天使の戦いが始まったようだ。幾万もの光の矢が琥珀に対して撃たれるが、目にも止まらぬ速さで光の矢を避けていく。
私は地面に突き刺さる流星のごとき光の矢から逃げる為に必死に走った。所々光の矢によって地面が抉れている。こんなものがもし当たれば命が無いのは明白だった。
私は上空の戦いを見ながら走っていた結果、必然的に転んでしまった。だけども、擦りむいた足を気にすることなく立ち上がりまた走り始める。
上空の戦いは琥珀が何千もの天使を撃墜していて優勢に見えるが、琥珀と同じ三枚の翼をはやした天使が出てきてからそれが一転した。
その天使は琥珀に対して何かをした。そう、何かをだ。私には見えなかったそれは琥珀の左上の翼を消し飛ばした。
「琥珀!」
声が届かないのは分かっていても叫んでしまう。
琥珀は必死に回避運動をするが、その見えない何かは琥珀の右下の翼を削った。まるでそれは弄んでいるかのように見えたが、それは間違いないのだろう。ここからの距離では顔は見えないが、その行動が狩猟を楽しむ狂気犯の様に私には見えた。
「はぁはぁ、くっ」
息が切れて苦しいが、私は必死に逃げる事しかできない。琥珀が頑張って戦っているのだ、私がここで死んでしまったら琥珀の頑張りは意味が無くなってしまう。
私は歯を食いしばって走る。琥珀がどんどんと翼をなくしていく姿を見ながら、何もできない自分に怒りと悔しさ、いら立ちと焦燥感が募る。
涙があふれて前が見えなくなっていくが、琥珀の頑張っている姿を見たい私は涙をぬぐった。
それでもあふれ出る涙が視界をぼやけさせる。
そして、ついに見えない何かが琥珀のお腹を貫いた。
「琥珀!」
明らかに致命傷の一撃は琥珀の動きを止めるには十分な物だった。
私は今すぐに引き返したくなる気持ちを抑えて必死に走る。息が苦しくて、心が痛くて涙が止まらない。
それでも琥珀の最後の頼みと、私たちの子供の命を守るために私には止まる権利は無かった。
琥珀が三対六枚の天使につかまり首を片腕で絞められていた。
「っ!」
私は目を逸らしたくなるが、それは絶対にしてはいけない。
どんどんと首を絞められていく琥珀を見て胸が苦しくなる。
そして、天使が腕を一閃すると…琥珀の首が落ちた。
「こは…くぅ」
その自然落下していく首を私はただ見つめる事しかできない。
体から力が抜けていく感覚があったが、琥珀の最後の言葉を思い出して踏ん張った。琥珀が作り出した数十分。これを無駄にしたら何のために琥珀が戦ったのか分からなくなってしまう。
あふれ出る涙をよそに私は必死に走る事しかできなかった。
それからどれぐらいは知っただろうか。太陽が沈み真っ暗になってなお、私は走っていた。
しかし、ついに力も尽きて私はその場に倒れ込んでしまう。
走っている間は考えないようにしていた琥珀の最後。その最後の光景が倒れ込んだ瞬間に何度もフラッシュバックする。
「お、おぇぇ」
私は何もない胃酸を吐いた。
もう何もしたくない虚無感が全身を襲うが、私は今一つ踏ん張ると、持っていたライターで火を起こした。
急に逃げ出してきた為に食料などは無くお腹が減っても食べるものが無い。水も落ちているペットボトルで川の水をよそったのが少しだけだった。
このまま、炎に飲み込まれて灰となり大地の栄養分になりたいと考えていると、後ろで物音がした。
「だ、だれ!」
私が飛び起きて警戒の体制を取ると、そこから二人の男女が出てきた。
両手を挙げて敵意が無い事を示しながらこちらに歩いてくる。
「ごめんなさい。私たちにあなたを攻撃する気はないわ。ただ焚火が遠くから見えたから来てみたの」
女の方がそう言って背負っていたリュックを下ろした。
男の方もそれに倣ってリュックを下ろすと両手を再度上げて敵意が無い事を示した。
「そうなのね。ところであなた達は旅人?」
「うん、そう。私たちは旅をしていたんだけど昼の天使の集団を見て危険だと思ったから大和に向かっている所よ」
この人たちもあの天使たちから逃げてきたようだ。
「私も大和へ向かっている最中なの」
「あらそれは偶然ね。じゃあ目的地も一緒だし一緒に行く?」
この人たちが信用できるかは置いといて一人で行くよりかは安全だ。
大和までの旅路はそこまで無い。今の場所は昔の地図で言う八王子市だ。目的地の大和都市は東京湾に浮かんでいる。そこまで行くには東京を突っ切っていった方が良いのだけど、そうもいかない。
東京二十三区は天使の出現と共に消滅している。さらには天使の出現ポイントでもある所を通る気にはなれない。
一度埼玉まで出て、荒川に沿って進み、足立区当たりで千葉方面に向かう。千葉側の東京湾に大和の入り口がある。そこが今回の目的地になる。
遠回りになる故に100キロほどの距離だが三日もあれば余裕を持って到着できる。たかだか三日の旅路ならば大丈夫だろう。
私はこの二人と短い三人旅をすることにした。
旅を始めて直ぐに分かった。この人たちは危ない人ではない、と。気のいい人たちで私も昔旅をしていたこともあって、話が弾んだ。
なんだかんだで予定道理に進んで三日で大和に着いた。
二人と別れを告げて私は大和のD番区へと入っていく。




