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第一章

AIRLINE、E・Dに続き新たな連載を開始します。しかし、これは一年以上前に執筆した作品をただ投稿するだけです。読みにくいところもあるかもしれませんが、ぜひ読んでみてください。

《 1 》

 薄暗い曇天の空から一粒の雫が零れた。

 鈍い輝きを伴い、音が周囲に弾けた。散り散りになった水滴はある表面を伝い、地面へと短く落下する。

 雨粒がなぞった軌跡はくっきりと残っている。通った表面の色合いが映る一筋の線を描いていた。土台と成る物体の質感までも見て取れる。

 突然、曇天に光が溢れた。そして分厚い雲から一つの光芒が物体に差し込まれる。眩い陽光は物体が眠る周囲まで顕にして、その一切の全容を明らかにした。

 そこは古く壊れた部屋だった。

 天井は大半が破壊され、家具らしき物の殆どが燃え尽きていた。唯一残っていたのは片隅に残る粗末なベッド。それさえも人が眠るには困難なほど原型を留めていなかった。

 しかし、ベッドの上に人影は確かに存在する。

 眠っているのは十代後半の少女だ。成長途上の身体に、長い髪をもってそう読み取れる。横たわる姿は気品が漂っており、元は高貴な出であったのだろうか。閉ざされた口は何も語らず、まるで人形のようであった。

 かつん。

 一つ分の足音が少女の眠る部屋に近づいている。ベッドの上では何も反応が無い。虚無的な静けさが一歩分の音を幾つも積み重ねさせていった。

やがて足音が部屋の前で止まる。

「…………」

 掠れた音を引きずって古びた扉が開かれた。現れたのは何処か少年のような若さを持つ青年だった。銀色を重くした灰色の髪に、切れ味がある鋭い双眸。全身に纏った黒い衣服は聖職者の如き威風を感じさせる。それに反して足を踏み出す動作は荒々しかった。

 コート調の衣服を乱暴に翻し、青年はベッドの傍へと寄り立つ。そして鋭い瞳で無言のまま眠る少女を見下ろした。

 視界に瞼を閉じた眠り姫が掴まされる。

 その少女の肌は何処までも蒼かった。病的だ、と表現するには足りない蒼。肌の蒼さは全身にくまなく回り、包んだ衣服まで同じ蒼い色だった。色の変化は時々ちらつく金や白の斑のみである。

 一色に染まった少女を見つめ、青年は呟いた。

「……“cry”か」

 少女は人の皮膚に覆われていなかった。

 眠り姫の全身を構築しているのは蒼い宝石だ。瞼の窪みや円のある唇の形。少女の長い髪の毛先まで見事に宝石で再現されている。

 人差し指が青年から無造作に伸ばされた。蒼い表面をなぞり、指が雨粒の軌跡を拭って行く。

 その感触は冷たく、宝石としての硬さを保っていた。

 少女の頬を拭った片手を腰に回す青年。次の瞬間、長いコートの下からある物が慣れた動作で取り出された。

 ――黒い回転式拳銃。

 弾丸を吐き出す口が鈍い音を立てて宝石に接触した。少女として見るなら心臓の真上。そこに突き刺すように黒い拳銃が屹立している。

「お前は……」

 鋭い瞳に躊躇が小さく滲む。

「……“生きている”のか。それとも“死んでいる”のか?」

 心臓の鼓動さえ伝わらない身体が答えることは無かった。青年の重い拳銃を握る手には、先ほど少女の肌をなぞった感触が残っている。青年はそれが単なる雨粒だと知っていた。だが、蒼い宝石で出来た少女の顔は安らかさと悲しさの両方で溢れていた。

 まるで、涙を流すように。

「――」

 短い息を吐いて、青年は双眸を暗闇で覆った。その瞳が再び開くのに長い時間は掛からなかった。

 それと同時に拳銃の引き金へ力が徐々に込められる。

 古びた部屋に響く銃声。

 

 ――ラピスラズリの少女に弾丸は打ち込まれた。



《 2 》

 自然に満ちた街並みを進む一つの馬車があった。車内からはなだらかな丘陵が四角い枠を通して後方へ流れている。

 その光景に一人の少女が真剣に見入っていた。蒼い髪を二つお下げにした活発な雰囲気を纏った少女だ。できものや黒子の一つも無い純粋な白い肌。細い四肢は精緻に出来た人形を思わせるほど形が良い。十代後半のようなその外見は美しい妖精を彷彿させた。

 ただし、服装は少女の年齢と調和していなかった。黒地のノースリーブに肘まで覆う白いアームウォーマー。そして腰には刃を隠した大振りなナイフが数本吊り下げられている。年頃の少女にしては物騒な装備だった。

「あーるーじーどーのー?」

 少女の呼びかけに間髪入れず、がたんがたん、と揺れる音が割り込んでくる。

「………………」

 正面から目を放さないまま、少女は反応がない相手へもう一度尋ねてみた。

「主殿? 何故この土地はこれほどたくさんの林檎を作っているのだ?」

 少女が指差した先。そこには幾つもの赤い果実が木々に実っていた。少女はそれらが触れられずに後ろへ流れていくのを残念そうに見つめている。

 ついには手を伸ばして、窓の外を数度か泳ぎ回させる。上半身を狭い枠から出そうともしていた。しかし、林檎への距離は未だに果てしなかった。

「おい。見っとも無いから座れ、ラピス」

 少女の奇行を遮るようにして、低い声音が投げかけられた。

 声の主は鋭い瞳を持った青年だ。灰色の髪にコート長の黒い衣服という出で立ち。どこか聖職者のような空気も持ち合わせている。

 ラピスと呼ばれた少女は青年の指示に瞳を開いた。

「どうして駄目なのだ?」

「意外そうに言うな。とにかく人前では駄目だ」

 青年は風に揺れるラピスのお下げを一つ掴んだ。縄を引くような手つきで素早く引っ張る。好奇心ではしゃぐ少女は有無を言わさず青年の隣に座らされた。

「な、何をするのだっ、主殿!?」

 疑問が尽きないラピスは片方のお下げを押さえて青年へと訴えた。好奇心と少々の痛みに溢れた瞳が戒めを籠めた鋭い視線と対決する。

「俺達は観光に来たんじゃない。正式な依頼を受けてここに来たんだ。身の振る舞い方に少しは気を使え」

「……では、後どれ位で目的地に着くのだ? 私は何時まで退屈していれば良いのだ?」

 少女が両足を前後させて己の暇を表した。馬車に乗って既に一時間は経っている。青年はラピスの言葉にも一理ある、と身体を前方へと乗り出した。

 こんこん、と青年は軽く壁を叩いた。呼び出しに気づいた乗り手が質疑応答に身構えた顔を覗かせる。二人を運んでいたのは年季の入った執事で、幾つかの皺が見て取れた。

「ちょっと訊きたいんだが、目的地まで後どれくらいだ?」

 青年の問いに答えたのは何故かラピスだった。

「おお! もしかしてあれではないのか!?」

 目を放した隙にラピスの顔は再び車内から脱していた。窓から見える光景に騒ぐ姿はとても大げさだ。青年は美しいながらも常識の無い少女の背中を眺め、不満と諦めが混じった顔を浮かべる。

 直後、微細に揺れていた馬車が止まった。

 目的地に着いた、と乗り手からも催促される。二人は馬車から降りて地面へと足をつけた。最初に目が行くのは巨大な建物だった。広大な土地に古城とも呼べる歴史がありそうな館が聳え立っている。

煉瓦の館は十個以上の窓を備え、玄関へと続く螺旋階段は見た目から堅固な造りだ。

「ん?」

 青年の瞳が一段と細められた。

 発見したのは螺旋階段をゆっくりと下りてくる人影だ。整備された一本道を通り、真っ直ぐ二人へ近づいてきた。

「お待ちしておりました」

 館に相応しい高貴な格好をした女性が穏やかな語勢で話しかける。二人の目前までやってきた彼女は、すがるような双眸で青年を見上げた。

「あなたが“蘇生師”ですね?」

 女性の反応で青年は彼女が誰か悟った。

「ああ。……あんたが俺の依頼主だな」

「はい」

 迷わず頷いた後、女性に逡巡の表情が一瞬だけ浮かぶ。決然とした態度へ切り替わった途端、青年への依頼は即座に紡ぎ出された。

「お願いします。妹を……、コレンを“cry”から救ってください」


《 3 》

 ――cry。それは数十年前から世界各地で発症者が続出した奇病だった。感染症とは完全に確定していない。けれども発症した者が出る地域は突如として広まっていった。

 その病状は唯一つ。

 身体全てが宝石となること。

 天然の輝きを持った鉱物へと体が変成するのだ。全身が結晶化を終えると、発症者は意識不明へ陥り、身体を動かせずに硬直状態となる。生死も外からは判断できない。

 cryの存在を知った当初の人々は発症者を畏怖して遠ざかっていった。果てには魔女狩りの如く宝石と化した者達を根絶することまで試みた。

 発症の原因も数十年が経過した現在でさえ定かでない。研究者が解明に日夜勤しんでいる中、曖昧な噂だけが世間に広まってはいた。生きる気力を失くした者――生きることに失望した者が発症しやすいという話だ。

 噂の真偽を突き詰めると、もう一つの噂が明らかになる。

 不治とされるcryに差した一筋の希望。

「……発症者の周囲を調べ、生と死を判断し、そしてcryから蘇生する者。――蘇生師」

 女性の声が陰鬱と響く。

 絢爛なシャンデリアが余す所無く照らす応接間。青年とラピスはそこのソファーへと腰掛けていた。二人の前に現れた女性も対面に座している。

「私はルミナ。ルミナ・エーデルシュタインと申します。恥ずかしながらこの館の主人でもあります」

 シニヨンにまとめられ、空を反映させたような青さを持つ長い髪。二十代中盤に見える外見。派手に着飾られた衣服。その女性かの特長は何処か高貴さを不釣合いに思わせた。

 依頼主の自己紹介を受け、青年と少女も簡潔に名前を名乗り始める。

「俺はカーラだ」

 続いて青年が隣の少女を指差す。

「こいつはラピス。……悪いが、仕事上の都合で本名全部は遠慮させてもらう」

「主殿? 私の本名はラピスの三文字ではないのか? 全てを名乗っているのではないのか?」

「お前はちょっと黙ってろ」

 抑圧を促す青年の指示にラピスは首を傾げていた。左右に三回ほど首を振った後、天井の大きなシャンデリアに興味の全てが抱かれている。シャンデリアは金魚鉢と一体になった珍しいもので、明かりに透かされた金魚の泳ぎ回る姿が際立って眩かった。

「ふふ……。これはアクアリウム・シャンデリアと言って、世界にも三個しかないそうです」

「三個しかないのか!?」

「父の趣味が世界各地の珍しい物を集めることでした。それは貿易商の友人から買い取った物だと聞いております」

 一通りの説明を述べるルミナ。その表情が先刻と同様に暗さが灯るのを青年は見逃さなかった。

「ラピス。話が進まないから……終わるまで口を開けるな」

「んももむうむむ?」

 律儀に口を両手で押さえたラピス。素直に従う姿へカーラは小さく頷く。これでいいのか? という伝達は二人の間でのみ行われた。

「さて」

 二人の関係にルミナは微かな驚きを覚えているようだった。カーラの切り替えに多少の誤差を持って追ってくる。

「は、はい。私が依頼したいのは妹の蘇生なんです。十年前、妹はある事件をきっかけにcryを発症してしまいました。それから長い間、私達は彼女を治す為に多くの手段を探しています。しかし、今に至るまで全く見つかりませんでした」

「……じゃあ、蘇生師のことは?」

「きっかけは父の死です。一ヶ月前、この館の主人であった父が老衰で亡くなりました。そのことを悔やんだ父の友人達が手紙を送ってきたのです。跡を継いだ私は彼らの手紙に目を通し、そして蘇生師の存在を知りました」

「成る程……手紙に蘇生師の情報が書いてあったということか…………」

 カーラがルミナから蘇生師としての依頼を受け持ったのは数日前だ。程なくして遣いの馬車が来て、二人はこの館へと案内された。彼女の話は確かに筋が通っている。

 概ねの事情を理解した蘇生師は次の行動を促した。ルミナへとcry発症者の元へ連れて行くよう頼んだのだ。

「まずは発症者の状態をこの目で確認する。これはどの依頼にも共通している。案内してもらえるな?」

「分かりました」

 了承したルミナは二人の前で立ち上がった。

「では、着いて来て下さい」


 館の階段を昇って三階まで上がる。ルミナが案内した先は色あせた扉の前だった。

「ここは父が集めた収集物が置いてある部屋です。日の光もあまり射さず、保管には適しています。彼女はこの中で眠っています」

 ルミナの手が扉を押し開けた。カーラとラピスは彼女の背を追って部屋の中へと進む。彼らの後ろで色あせた扉が錆びた音を立てて閉まっていった。

 部屋の大半を暗く冷たい空気が占めている。もう暖かい季節に差し掛かったというのに、三人がいる場所だけ時期が危うく感じられた。

「ちょっと待って下さいね」

 闇が深い中、ルミナが慣れた足取りで部屋を歩いてゆく。壁に接したかと思うと、彼女の両腕が左右へと伸びた。すると、開いた両腕を覆うように光が一斉に溢れ出た。

 部屋中に満ちた光が顕にさせたのはルミナの手の先にあるカーテンだ。ルミナはカーテンを左右に畳み込むと部屋の奥を振り返った。一際暗く、輝く矢の先が申し訳程度に射抜く部屋の隅。見慣れない品物に囲まれて、陽光とは全く異なった煌きが放たれていた。

 ――紅い輝きがくっきりと薄暗い部屋に浮かぶ。

「……これが…………いえ」

 重い足取りがその奥へと近づいた。ルミナは紅い輝きの前ですぐに止まる。カーラとラピスは彼女の後姿を一瞥し、紅い輝きを放つ物へと必然的に視線を移した。

 ルミナの眼前に置いてあるのは古いベッドだ。紅い輝きはそこから生まれていた。

 感情を抑揚した女性の声が滔々と聴こえる。

「この子がコレンです」

 ――紅い輝きを持ったルビー。

 指し示されたのは真っ赤な宝石で出来た少女だった。深みのあるワインのような濃い赤色。濁りが無い透明感のある材質は人の身体を全て埋めている。

 寸分の違いなく弧を描く肌は人工物にはとても見えない。

 カーラは確信した。目の前で眠る少女は確かにcry発症者である。年齢は十代中盤から後半近く。ベッドの上で彼女はずっと眠り続けていたのだろう。

「……了解した。俺達は仕事を始めよう」

 黒い衣服の青年はルミナの隣に立ち並んだ。鋭い眼光でルビーの少女を見下ろす。

「cry発症者を治すことが蘇生師の仕事。……だが、事前に言ったように…………必ず治すわけじゃない」

 言葉を一旦区切ったカーラがルミナへ鋭い視線を当てた。

「発症者が“生きている”と判断できた場合のみ蘇生させてみせる。――――けれども、“死んでいる”と判断したら勝手に処理させてもらう」

 処理。それは宝石になった少女を処分することを意味していた。ルミナはカーラに問われた覚悟に不安を抱くが、彼女の顔は最終的に固い決意を示す。

「……はい」

「この子は“生きている”のか“死んでいる”のか」

 ルビーと化して長い月日を過ごした少女。ルミナが語る事件とは未だ見当はつかないが、カーラが少女にするべきことは決まっていた。

 この現在において少女の生と死を見極めること。生を見失った理由を見つけ出し、最後に命の在り処を答えるのだ。

「…………コレン」

 部屋に差し込んでいた光芒の一つがルビーの上に流れ込み、紅い輝きを放ちながら、落ちた。


《 4 》

「ももんむ、んんもも、もうむもむんもむむんむ?」

「さすがに分からん」

 ラピスが両手に口を当てている姿を見て、カーラはまだ続けていたのかと嘆息した。

「もう普通に喋っていいぞ」

 ぷはっ、と溜まった空気を吐き出すラピス。頭を左右に振って、ルミナとは質が違う二つのお下げで弧を描かせた。絵の具を思わせる蒼い髪を整えると、彼女はカーラへと同じ言葉を繰り返す。

「私は、いつまで、こうしていればいいのだ? と訊いたのだぞ?」

 白いベッドの上でラピスはカーラの方へと身を乗り出した。対する青年は特に返事をせず、手元に握られた古い手帳に視線を落とした。

 二人が居るのはルミナによって用意された部屋だった。館の一階で余っている部屋だと言う。使われていなかったと聴いたのだが、部屋の意外な清潔さには多少驚かされた。

 鋭い両目を上げないまま、カーラが二つ置かれたベッドを指差す。

「お前はそこで寝ろよ」

「主殿は私の隣で寝ないのか?」

「妙な言い方はやめろ。俺は床の上が一番寝つきやすいんだ」

 カーラはそう呟くと、近くにあった革張りのソファーへ無造作に腰を下した。部屋には他にラピスしかいない。遠慮なく足を組んで無作法ながら楽な姿勢をとった。

「それは先ほど渡されたものか……?」

 枕を手繰り寄せて抱きつけたラピスが疑問を振って来る。カーラが手にした手帳を見つめ、中に何が書かれているか脳内で予想していた。

「これはあの発症者……コレンさんが十年前まで付けていた日記だ」

「日記?」

 ラピスが興味を抱いたような顔付きになり、カーラは特に隠すことも無く唇を滑らせた。

「……ルミナさんから渡されたものでな。この日記で“生きている”か“死んでいる”か。判断して欲しいんだとさ」

 発症者の生と死の境界線は蘇生師が自ら決めることになっている。口を閉ざしてしまった発症者から話を聴く訳にもいかず、こういった本人の人生を客観的に知りえる物に触れておく必要があった。

 そもそも自身の生と死は本人が主張するべき問題だ。しかし、cry発症者は何も語ることが出来ない。それ故に本人の周囲から情報を集め、発症者の人格を判断する。

 カーラは依頼を請け負った時から依頼主に使用人を通してこのことを伝えていた。手に握った日記が彼女からの返答なのだろう。

「だが」

 ――皮肉だな。彼はラピスにさえ聴こえない音量で言葉にした。人の生と死を他人が決め付ける。その役目を背負うのが蘇生師という職業だった。

「コレンさんという人を俺は全く知らない。だから、知らなければいけない」

 鋭い瞳を研ぎ澄ませ、蘇生師はコレンの日記を読み始めた。十年前の事件を知り、発症の原因を探り出す為だ。

 そんなカーラの姿を見つめ、ラピスは口を開ける。

「主殿……、主殿にさん付けは似合わないと思うのだが」

 あまり関係がないことだった。

「やっぱりお前は口を塞いでいろ」

 ラピスは彼の言葉にありのまま従った。


『私は今日、恋をしました。父の友人の御子息という方。遠方からやってきたという彼は知識が豊富で、私の知らない話を沢山語ってくれます。その話に私とルミナ姉さんは心の底から楽しみました』

 二本の指が文の書かれた紙を一枚めくった。

『今日、私は一日中天井を見上げていました。父の友人とその息子さんが持ってきたシャンデリア。それは大変珍しく、水槽と一体になったものです。今日になってようやく入った金魚の泳ぎ回る姿は美しく、つい夢中になってしまいました。でも、こんな私を見て彼が暖かく微笑んでくれたことが一番嬉しかったです』

 敬語調で綴られた紙面が閉ざされる。

「ふう」

 一定量の日記を読み終えたカーラは晴天を見上げた。彼はラピスと共に館の外に出ていた。コレンの人物像をより詳しく組み立てる為、彼女の過去を実際に辿っているのだ。

 二人が館に来てから既に二日目。日記を読み解くにつれて、コレンの人格は徐々に確定しつつあった。

「おい、ラピス」

 広い牧場の風景を視界に納め、カーラは少女の名を呼ぶ。

「もしや……」

 ラピスは太陽に蒼い髪を輝かせ、牧場に建てられた柵の前で立っていた。彼女の目の前にいるのは家畜として育てられている一匹のヤギだ。

「貴君は名高いヤギなのではないか?」

 少女が睨むヤギはむしゃむしゃと草を咀嚼していた。特に名高いと言えるような素振りは全く無い。

「……何をやっているんだ、お前は」

 しゃがみこんでヤギに語りかけるラピスが反応した。

「おお、主殿。日記は読み終えたのか?」

「まあ半分ぐらいまでは進んだ。……次に行くぞ」

 柵の前で座り込んでいるラピスから目を逸らし、青年が目的となる場所を見つめた。

 紅い林檎が多く実る果樹園だ。この牧場とはあまり離れていない。熟成した甘い匂いが二人の元まで漂ってくる。

 蘇生師は読んでいた日記を目前まで持ち上げた。手帳には十年前の日付が書かれている。そしてその奥にある景色も、十年前から存在したものらしい。

『私は今日もヤギさんに「お早う」と声をかけました。どうやらそれはあの人にも見られていたようで、とても恥ずかしかったです』

 ――十年前、コレンもラピスと同様にヤギへ声をかけていたらしい。もちろんヤギの身分など尋ねていないが、充分童心を感じさせる行為だ。

 コレン・エーデルシュタイン。彼女は純粋な心を持ち、格好は貴族そのものでありながら活発な行動が多かったと言う。街中の大半とは知り合いで、今から行こうとする果樹園もよく通っていたらしい。いつも貰える林檎が美味しかった、という記述が多かった。

 そんな少女がある日cryを発症した。

「恋をしました、ね」

 恋心が綴られた日記を太陽にかざし、青年は目を細めた。

「鯉をしました? とは何だ?」

「まず魚じゃないな」

 カーラは日記を目前から下し、果樹園を目差して更に歩き出した。


中世風な物語です。三部作の予定です。手ごろな頃合いで第二章を投稿します。

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