第2話「探しものは、帰り道に」
『今日はね、帰り道で……いいことがあるみたいなの』
占奈さんの告げた言葉が、なお耳の奥に残っている。
何が起こるとも知れず、どこで起こるとも知れない。けれど、まだ見ぬ幸いに思いを馳せ、その訪れを待つことさえ、今の直生には楽しかった。
昨日までは顧みもしなかった道端の草花に、今日は思わず足を緩め、風が梢を渡るたび、足元に移ろう木漏れ日にまで目を留める。
見慣れた曲がり角さえ、その向こうにまだ知らぬ幸いを忍ばせているようで、いつもの帰り道が、今日は何とも心躍る道のりに思われた。
そんなふうに、目に映るものの一つひとつへ密かな期待を寄せていると、ふいに風が吹き、道端に咲く花から一片の花びらを攫っていった。
いつもなら、気にも留めずに通り過ぎたろう。けれど今日ばかりは、その一片がどこへ行き着くのかさえ気にかかり、直生は思わず目を留めた。
びらはひらり、はらりと風に弄ばれ、曲がり角の向こうへ流れてゆく。その行方を追ってふと顔を上げると、少し先の歩道に、見覚えのある薄藤色が揺れていた。
見間違いかと目を凝らしたものの、朝から幾度となく胸に描いていたその面影を、今さら誰かと見紛うはずもなかった。
折しも、花びらをさらった風が、その薄藤色の髪にも戯れた。頬にこぼれた髪を指先で掬い上げ、少女はふと顔を上げた。
目が合った。
「……占奈さん?」
「あっ、天夜くん!?」
占奈さんは大きく目を見開き、しばし呆気に取られたように直生を見つめていた。けれど、その驚きが解けるや、たちまち相好を崩し、頬には嬉しげな色が差した。直生もまた、思いがけぬ再会に笑みを抑えきれず、気づけば彼女のもとへ足を速めていた。
「どうしたの、こんなところで?」
「えっ?」
「こっちの道って、占奈さんの家とは逆じゃなかった?」
「あ……」
占奈さんは、つい先ほどまでの笑みを口元に残したまま、ふいに言葉を失った。鞄の持ち手をそっと握り直し、何やら答えを探すように目を伏せる。
「えっと、その……ちょっと探し物をしてて……」
「探し物?」
「そ、そうなの!」
何やら、尋ねた直生よりも、答えた本人のほうが、よほど心許なげであった。
よほど大切なものを落としたのだろうか。直生もつられて辺りを見渡したが、歩道には、それらしいものの影も形も見当たらない。
「何か落としたの?」
「えっ? あ、ううん、その……」
「よかったら、僕も探そうか? 二人で探したほうが、きっと早く見つかると思うし」
占奈さんは思いも寄らぬ申し出に、しばし直生を見つめていた。けれど、ふと我に返ったように目を瞬かせると、慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫! もう見つかったから!」
「そうなの? それならよかった」
「……うん!」
占奈さんは大きく頷くと、改めて直生を見上げた。何かを確かめるようにじっと見つめていたが、やがてその面差しに、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
どうやら探し物は、よほど大切なものだったらしい。
「ちなみに、何を探してたの?」
「……え?」
「そんなに嬉しそうだから、ちょっと気になって」
「そ、それは……!」
占奈さんは、たちまち返事に窮した。先ほどまでの柔らかな微笑みもどこへやら、唇を開いては閉じ、直生を見上げてはまた目を伏せる。ようやく言葉が見つかったかと思えば、それも声になる前に消えてしまった。
探し物はもう見つかったというのだから、その正体をことさら詮索するのも、いささか無粋というものだろう。
「あ、ごめん。聞かない方がよかった?」
「ち、違うの! そうじゃなくて……!」
占奈さんは、直生の言葉を引き留めるように、慌てて首を振った。
やがて占奈さんは、鞄を胸元に抱き寄せ、思い定めたように直生を見上げた。
「あのね、天夜くんには……」
占奈さんは、言葉の続きを探すように一歩後ずさった。
その踵のすぐ後ろには、花壇の石縁があった。
「占奈さん、後ろっ!」
「えっ?」
直生の声も間に合わず、占奈さんは踵を石縁に引っかけた。咄嗟に踏みとどまろうとしたものの、足元はすでに覚束なく、小柄な身体があえなく後ろへ傾いてゆく。薄藤色の髪が、束の間、宙にひとつの弧を描いた。
「きゃっ……!」
考えるより先に、直生の手が伸びていた。
彼女の手を掴み、咄嗟に力を込めて引き寄せた。思いのほか軽い身体が勢い余って胸元へ倒れ込み、直生も一歩、たたらを踏んだ。
直生はすかさず空いた腕を彼女の背に回し、どうにか踏みとどまった。占奈さんも縋るように直生の制服を掴み、二人は危ういところで互いの身体を支え合った。
そのとき、すぐ傍らで、何かが石を打つ乾いた音がした。
けれど、直生は音のしたほうへ目を向けることもなく、腕の中の占奈さんに声をかけた。
「……大丈夫?」
占奈さんは直生の胸元に顔を伏せたまま、小さく頷いた。どうやら怪我はないらしい。
直生もようやく胸を撫で下ろしたが、ひとつの心配が去れば、また別の難儀が顔を出す。
何しろ、好きな女の子が、今まさに腕の中にいるのである。
見下ろせば、薄藤色の髪がすぐそこにあった。風に乱れた毛先が制服の袖をかすめ、ふと鼻先に、花にも似た甘やかな香りが届く。彼女が小さく身じろぎすると、その香りはいっそう近くなり、直生は思わず息を呑んだ。
近い。あまりにも近すぎる。
朝は、机ひとつ隔てて目を合わせるだけで、あれほど胸が騒いだというのに。今はその机さえなく、顔を覗き込むことも憚られるほど、近くにいる。
そのあいだも、占奈さんは直生の制服を握りしめたまま、いっこうに顔を上げようとしなかった。薄藤色の髪のあわいから覗く耳は、見ているこちらまで気恥ずかしくなるほど、朱に染まっている。
これほど胸が騒がしくては、占奈さんにまで聞こえてしまうのではないか。そう気づいた途端、どうにか鎮めたい鼓動が、ますます言うことを聞かなくなった。
「あ、あの……天夜くん……」
胸元から、消え入りそうな声がした。
「ご、ごめん!」
直生は我に返り、慌てて腕を解いた。占奈さんも制服を掴んでいた指をそっと離し、半歩ばかり身を退く。
けれど、顔はなお伏せられたままで、薄藤色の髪の陰からは、彼女の表情を窺うことも叶わなかった。
「……本当に大丈夫? どこか痛くない?」
「う、うん……大丈夫……」
その返事にひとまず安堵した直生は、ふと足元に目を落とした。
そこには、占奈さんの鞄が転がっていた。
「あっ、鞄……!」
その一言に、占奈さんもはっと顔を上げた。
花壇の石縁に寄りかかるように、占奈さんの鞄が横倒しになっていた。どうやら、先ほど彼女を引き寄せた拍子に、手から滑り落ちたらしい。半ば開いた口からは、見覚えのある小さな布袋が覗いていた。
占奈さんは急いで鞄を拾い上げると、中から布袋を取り出した。両の掌に包んだまま、しばらくその口を開こうとはしなかった。やがて、何かを恐れるように指先を動かし、そろそろと袋の口を広げてゆく。
直生も、思わず彼女の手元を覗き込んだ。
布のあわいから姿を現した水晶は、傾く陽を湛え、朝と変わらず澄みわたっていた。
よかった。
直生がそう安堵したのも束の間、占奈さんが水晶をわずかに回したところで、その指先がぴたりと止まった。
澄みきった球面に、ひとすじの亀裂が走っていた。
糸ほどの、頼りない白い筋だった。見る角度によっては水晶の奥へ紛れてしまうほど細く、それでいて、ひとたび陽を受ければ、澄みきった球面にくっきりと浮かび上がる。
朝には、なかったはずの傷だった。
「……ひび、入っちゃった」
占奈さんは水晶を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
占奈さんが転ばずに済んだことは、何よりだった。それだけは間違いない。けれど、彼女を守れたという安堵が、その大切なものまで守れなかった悔いを、少しも慰めてはくれなかった。
もう少し、うまく抱きとめていれば。
せめて、鞄だけでも落とさずに済んでいたなら。
いくつ悔やんだところで、目の前の亀裂が消えるわけではない。それでも、あの一瞬を思い返さずにはいられなかった。
「……ごめん。僕がもっと上手く支えられていたら、鞄も落とさずに済んだかもしれない」
「ち、違うの!」
占奈さんは、弾かれたように顔を上げ、まっすぐ直生を見つめた。
「天夜くんは悪くないよ! だって、私が……」
そこまで言って、占奈さんはふいに口を噤んだ。両手の中の水晶へ目を落とし、何かを堪えるように唇を結ぶ。
「……もう、行くね」
占奈さんは水晶をしまうと、鞄を胸に抱き寄せた。顔を伏せたまま、直生の返事を待つこともなく、そっと身を翻した。
「あ、占奈さん……!」
初めこそためらいがちだった足取りも、一歩ごとに速さを増し、やがて夕映えの道を駆けてゆく。風に靡く薄藤色の髪が、傾く陽を受け、ひとひらの霞のように揺れていた。
翻る髪のあわいに垣間見えた頬を、ひとしずくの光がこぼれた。
直生はただ、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
あとには、夕陽の差す道があるばかりだった。風はなお梢を渡り、街のざわめきも変わらず聞こえてくる。つい先ほどまで二人が並んでいた場所にも、何事もなかったかのように、いつもの午後が流れていた。
直生は、行き場を失ったように垂れた両手へ目を落とした。そこにはもう何もない。それでも、つい先ほどまで彼女を抱き留めていた腕には、なお消え残る温もりがあった。
「……はぁ」
深く息を吐いたところで、胸のつかえが晴れるわけでもなかった。
夕暮れの道にひとり残された直生の耳に、ふと、今朝の占奈さんの声が蘇る。
『今日はね、帰り道で……いいことがあるみたいなの』
帰り道で、嬉しいことがある。
思えば、あの言葉ひとつで、今日という日は朝から少しばかり特別だった。何が待つとも知れぬ帰り道を、あれほど待ち遠しく思ったことが、かつてあっただろうか。
そして、確かに彼女に会えた。
思いがけない道の途中で、あの薄藤色の髪を見つけたときの喜びは、今も偽りなく胸に残っている。けれど、その嬉しさを思い返そうとするたび、浮かんでくるのは、ひび割れた水晶を見つめる占奈さんの姿ばかりだった。
あれほど待ち焦がれた帰り道が、よもやこんな結末になろうとは。
……占いは、外れてしまったのだろうか。
それとも。
当たるはずだった幸せを、自分が壊してしまったのだろうか。
明日、教室で会えたなら、彼女はいつものように笑ってくれるだろうか。
今朝までは当たり前のように思えていたその笑顔が、明日も変わらず自分に向けられるのか、今は少しも確信が持てなかった。 直生はしばらく、彼女の消えた曲がり角を見つめていた。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
○ ● ○ ● ○
部屋へ戻っても、真理の頬から熱はなかなか引かなかった。
大切にしていた水晶に亀裂が入ったことを思えば、胸が痛まぬはずもない。けれど、ひとたび目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは傷ついた水晶ではなく、倒れかけた自分を迷わず抱き留めてくれた、天夜くんの姿だった。
忘れたい失敗と、忘れたくない一瞬が、同じ帰り道に重なっていた。
あのとき、強く手を引かれたかと思えば、次の瞬間にはもう、天夜くんの腕の中にいた。
倒れまいと夢中で掴んだ制服は、足元が確かになってからも、どうしてか離せなかった。頬に触れた胸元は思いのほか硬かったのに、背に回された腕は驚くほど優しく、すぐ耳元には、自分を案じる天夜くんの声があった。
何もかもが夢のようだった。
けれど、夢と現の境さえ曖昧になるほど心を奪われたあの一瞬は、今もなお、どんな記憶より鮮やかだった。
「……天夜くん」
そっと名を呼んでみただけなのに、胸の奥がくすぐったくなった。返事などあるはずもないのに、耳の奥にはまだ、あの優しい声が残っている。
今にも名前を呼び返してもらえるような気がして、真理はたまらず両手で頬を覆った。
けれど、その幸福にいつまでも浸っているわけにはいかなかった。
真理は鞄を膝へ引き寄せ、中から小さな布袋を取り出した。いつもなら慣れた手つきでほどく結び目も、今日はどこか覚束ない。ようやく布を開くと、両の掌へそっと水晶を載せた。
透明な球は、なお朝と変わらぬ澄明さを湛えていた。けれど、わずかに傾ければ、澄んだ光の奥から、ひとすじの白い傷が浮かび上がる。
今朝までは、なかったものだった。
あれほど大切にしてきたのに。
真理はいつもの癖で布を手に取り、傷のあたりをそっと拭った。けれど、いくら磨いたところで、その白い筋が消えるはずもなかった。
「……ごめんね」
返事のない水晶へ詫びながら、真理はそれを両手で包み込んだ。
……天夜くんに、嫌われちゃったかな。
転びかけた自分をあんなにも心配し、水晶に亀裂が入ったことまで、自分のせいだと謝ってくれた。
それなのに、自分は。
「……何してるんだろ、私」
真理は膝の上の水晶を見つめた。
助けてもらえたことが嬉しかった。何より、危ないと見るや迷わず手を伸ばしてくれた、その優しさが嬉しかった。せめてその気持ちだけでも伝えたかったのに、とうとうまともに顔を上げることさえできず、逃げるように帰ってきてしまった。
水晶の傷を悲しむあまり、天夜くんを責めているように見えなかっただろうか。あんなふうに背を向けてしまっては、怒っているのだと誤解されても仕方がない。
考えれば考えるほど、先ほどまでは気にも留めなかった部屋の静けさが、ひどく身に沁みた
せっかく会えたのだから、もう少し一緒にいたかった。学校ではなかなか話せないことも、帰り道なら、何気なく言葉にできたかもしれない。特別な話などなくてもよかった。ただ隣を歩いて、ときどき顔を見合わせて笑う。そんな帰り道が叶っていたなら、どんなに嬉しかっただろう。
「……明日、ちゃんと謝らないと」
真理は膝の上の水晶へ目を落とした。細い亀裂の向こうには、なお変わらぬ透明な光が宿っている。その澄んだ奥を眺めていると、ふと、朝の教室に満ちていた陽だまりが思い浮かんだ。
帰り道で、嬉しいことがある。
天夜くんにそう告げたとき、真理自身もまた、その幸いがどんな形で訪れるのか、胸を躍らせていた。
けれど、二人の帰る道は正反対だった。いつもの道を辿るかぎり、天夜くんとの帰り道が重なることはない。
だから放課後、真理はいつもの道を外れた。
ほんの少し、勇気を出して。
天夜くんの家がある方角へ歩いてみたものの、彼がどの道を通るのかまでは知らなかった。
もう帰ってしまったのか、それとも、どこかで行き違ってしまったのか。そんな心細さが胸をよぎるたび、それでも次の角を曲がれば、もしかしたら、と淡い期待が芽を出して、真理の足を先へと運んだ。
そうして、ようやく会えたのだ。
探していたのは自分のほうなのに、先に見つけてくれたのは天夜くんだった。
『……占奈さん?』
あの声が、今も耳の奥に残っている。
真理は両の掌に水晶を包み、そっと胸元へ寄せた。
けれど、目を閉じれば、そこにはなお、あの腕の温もりがあった。
水晶には、ひびが残った。胸には、幸いが残った。
そう思うと、いつしか真理の口元に、淡い笑みが綻んだ。
「……当たった」




