第1話 水晶玉と、ふたりだけの朝
「天夜くん。……もう少しだけ、目を合わせててね」
好きな女の子からそんなお願いをされて、断る理由があるだろうか。
少なくとも、天夜直生には思いつかない。
何しろ、もう少しと言わず、いつまでも見つめていたいのはこちらの方なのだから、願ってもない申し出である。
「うん、もちろん」
返事こそ至って平凡だったが、果たして声に浮ついたところはなかったか、口元に笑みが綻んではいなかったか、果ては喜色を隠しきれず、何とも締まりのない顔を晒してはいなかったか。
ひとたび気にかかれば疑念は尽きず、日頃は何の造作もなく済ませている平静の装いが、今朝ばかりは思いのほか難儀なものとなった。
もっとも、何でもない顔をするのと、何でもない気持ちでいるのとは、どうやら別の話らしい。
夏めく六月の朝。
まだ二人きりの教室には、窓からの陽があまねく射して、机を隔てる水晶玉がひとつ、玲瓏と澄みわたっていた。
水晶の向こうでは、占奈さんの淡紫の瞳が、まっすぐ直生へ注がれていた。長い睫毛に縁取られたその眼差しは、ひたむきで、いささかの衒いもない。
それだけに、見つめ返す直生の方が、かえって息をひそめてしまうのだった。
その少女の名は、占奈真理。
直生と同じ中学二年生である。
背に流れる薄藤色の髪は、わずかな身じろぎにも絹糸さながらに揺れ、その柔らかな房のあわいに、耳の後ろで結ばれた黒いリボンが見えつ隠れつしていた。
小柄なその身に、笑えばなお幼さの残る面差し。あどけなさのうちにも、どこか慎ましい風情があった。
けれど、ひとたび占いとなれば、柔和な面持ちにも凛とした気配が宿り、日頃の控えめな物腰からは思いも寄らぬほど、その言葉は生彩を帯びるのだった。
普段の教室でも、ふとした拍子に目が合うことはある。そんな折、占奈さんは一瞬、不意をつかれたように目を見開くものの、やがてその眼差しに、花の綻ぶような笑みを浮かべる。
直生もつられて微笑み返すのだが、ほどなくどちらからともなく目を逸らし、交わした眼差しは束の間でも、その余韻ばかりは、いつまでも胸を離れないのだった。
さりとて、名残惜しいからと、いつまでも見つめているわけにはいかない。目が合うのはほんの偶然、その眼差しをいつまでも独り占めにしたいなど、いささか欲張りというものだろう。
ところが、占いとなれば話は別だった。
何しろ、目を合わせることに、誰憚るでもない立派な理由ができるのである。
初めて占奈さんに占ってもらった日のことを、直生は今でもよく覚えていた。
「最初にね、目を合わせて、心を落ち着かせるの」
占奈さんはそう教えてくれた。
それ以来、占いの前には、しばし目を合わせることになっていた。まだ数えるほどしかない機会ではあったが、改めて約束を交わすまでもなく、今では彼女が顔を上げれば、直生もおのずとその眼差しに応えるようになっていた。
もっとも、心を落ち着かせるという本来の目的は、いまだ一度として果たせたためしがない。
何しろ、目が合えば胸が騒ぎ、見つめられればなおさら落ち着かず、鎮めようとすればするほど鼓動ばかりが耳につくのだから、少なくとも直生にとっては、この手順の効能など、甚だ疑わしいものであった。
とはいえ、占いに必要なこととあらば、疎かにするわけにもいかない。たとえ逆効果であろうとも、占奈さんの教えには忠実でありたいというのが、直生の偽らざる本心だった。
ところが、そうして律儀に目を合わせているうちに、占奈さんの面差しに、何やら見慣れぬ色が差し始めた。
初めこそ真剣そのものだった眼差しが、いつしかかすかに揺らぎ始めた。
長い睫毛は落ち着きなく伏せられては、また直生の方へと持ち上がる。心なしか眉尻も頼りなく下がり、何かを言いかけては躊躇うように、薄く開いた唇がそっと結ばれた。
それでもなお彼女は目を逸らさず、困ったような、けれどどこか訴えるような面差しで、じっと直生を見つめていた。
いったい、何があったのだろう。
教わったとおりにしているはずなのに、どうやら何か勝手が違うらしい。
かといって、こちらの一存で目を逸らしては、せっかくの占いに差し障るやもしれず、どうにも進退に窮してしまう。
そんな直生の逡巡をよそに、占奈さんはなおも懸命にこちらを見つめている。そのひたむきな眼差しに応えるには、やはり自分も、きちんと見つめ返すのが礼儀というものだろう。
「あの、天夜くん……」
「うん?」
「えっとね……そんなに、じっと見つめられると……」
そこで占奈さんは言葉を途切れさせ、困ったように睫毛を伏せた。頬にはいつしか薄紅が差し、言いあぐねた唇が、きゅっと小さく結ばれている。
「……あ、ごめん。でも、目を合わせててって……」
「そ、それはそうなんだけど……!」
占奈さんは慌てて顔を上げたものの、直生と目が合うや否や、せっかく持ち上げた眼差しを、惜しむ間もなく伏せてしまった。
目を合わせてほしいと言ったのは占奈さんの方なのに、いざ見つめれば困ってしまうらしい。何とも勝手が分からず、直生が戸惑っていると、占奈さんは胸元で両手をそっと重ね、小さく息を整えた。
「……も、もう大丈夫なのっ」
「えっ、そうなの?」
「そうなの……!」
何がどう大丈夫になったのか、直生には皆目見当がつかなかったが、本人がそう言うからには、ひとまず信じるほかあるまい。
占奈さんは小さく息を整えると、改めて直生へ微笑みかけた。
「……じゃあ、占うね」
その声に直生もおのずと居住まいを正し、静かに頷いた。
「うん。お願いします」
占奈さんも小さく頷き返すと、水晶の上へ指先をかざした。触れるともなく触れぬともなく、その寸前で手を留め、わずかに身を乗り出して、澄みきった球の奥を覗き込む。
先ほどまで柔らかな笑みを湛えていた唇は慎ましく結ばれ、淡紫の瞳は、今や水晶の奥の一点へ、ひたと注がれていた。
占奈さんが水晶に見入っているあいだ、直生はそんな彼女に見惚れていた。
物言わぬ水晶に向かい、物言わず心を澄ませる。その佇まいは慎ましく、しかもどこか華やいで、わずかな身じろぎにさえ、言葉には尽くしがたい風情があった。
何を飾るでも、誰に見せるでもなく、ただ一心に水晶を見つめる少女の、あえかにして凛とした面差し。
直生には、彼女が何を見いだそうとしているのか分からない。それでも、見えぬものを追うその姿ばかりは、いつまでも見飽きることがなかった。
「……あ」
水晶の奥を辿っていた占奈さんの眼差しが、ふと一点に留まった。何かを見いだしたのだろうか、しばし瞬きも忘れたように見つめていたかと思うと、言葉に先んじて、その口元に微かな笑みが兆した。
その微笑みは、やがて頬へ、目元へと静かに広がり、ひそやかな喜びが、彼女の面差しをほのかに華やがせていった。
「何か見えた?」
「うん。……見えたよ!」
占奈さんが顔を上げると、その弾んだ声につられるように、直生の口元にもおのずと笑みが浮かんだ。
「よかった。どんな結果だったの?」
「うん、あのね……」
ところが、そこまで言ったところで、占奈さんの眼差しがふと宙を彷徨った。直生と水晶のあいだを幾度か行き来したのち、今度は所在なげに机の端へ落ち着く。
口元には先ほどの笑みを残しているのに、どうやら言葉の方は、なかなか見つからないらしい。何かを告げようと薄く開いた唇も、結局は何も言わぬまま、そっと結ばれてしまった。
「……占奈さん?」
「あっ、ご、ごめんね! ちゃんと見えたんだよ?」
占奈さんは弾かれたように顔を上げ、胸元で両手を小さく振ったものの、結局は困ったように頷くばかりだった
「うん、わかってるよ」
その返事に占奈さんはようやく手を下ろし、ようやく零れたのは、たった一言。
「……帰り道」
「帰り道?」
「う、うん。今日はね、帰り道で……いいことがあるみたいなの」
言い終えると、占奈さんはようやく肩の力を抜いた。ところが、ふと何かを思い浮かべたのか、今度は自分から目を伏せてしまう。それでも口元には微笑みが残り、隠そうとするほどに、かえって嬉しさが滲むのだった。
まるで、まだ訪れぬ幸福を、ひとり胸の内で愛でているかのようだった。
帰り道。
幾度となく辿った道である。曲がり角も、道端の草花も、昨日と変わらぬ佇まいで、今日もそこにあるのだろう。今さら目新しいものなど、そうそう見つかるはずもない。
けれど、占奈さんがあんなふうに微笑むものだから、何の変哲もなかったはずの道のりにさえ、まだ名も知らぬ幸いが、ひそやかに息づいているような気がしてくる。
「でも、帰り道か」
ぽつりと零れた言葉に、占奈さんが小首を傾げた。
「……どうしたの?」
「いや、占奈さんとは帰る方向が違うからさ」
何気なく答えたものの、思えば、二人の帰る方角が違うのは今に始まったことではない。昨日までは何の不都合もなく、それぞれの道を辿っていたはずなのに、今日に限って、その当たり前が、何とも名残惜しく思われるのだった。
せっかく幸いが訪れるというのなら、それを告げてくれた占奈さんにも、傍らで見届けてもらいたかった。まだ見ぬ幸福がどんな姿で現れるのか、二人で確かめられたなら、それだけでも随分と嬉しいことに思われた。
「一緒に帰れたら、占いの結果も確かめられるかもしれないのに」
「……えっ?」
占奈さんは思いがけない言葉に目を見開いた。けれど、その驚きも束の間、瞳にはふっと明るい色が差し、口元には笑みが綻んだ。
つい先ほどまで言葉を選びあぐねていたのが嘘のように、彼女はおずおずと身を乗り出した。
「それって……」
弾むようなその声に、直生はふと、先ほどの言葉を思い返した。何気なく口にしたつもりだったが、考えてみれば、好きな女の子に一緒に帰りたいと告げたも同然ではないか。
……まずい。
口を離れた言葉は、もはや取り戻しようがない。まして、そこに偽りがないとなれば、なおさら始末が悪かった。
「あっ、いや、その……!」
小説の主人公なら、こんなとき、気の利いた台詞の一つでも口にするのだろう。あるいは、飾らぬ一言で想いを伝え、めでたく物語を次の頁へと進めるのかもしれない。
ところが、いざ我が身となれば、頁をめくることも、都合よく場面を飛ばすことも叶わず、目の前にはただ、言葉の続きを待つ少女がいるばかりだった。
物語の恋は、読むに易く、語るに難しい。
「……あ、ごめん。急にそんなこと言われても、困るよね」
「う、ううん。そんなこと……!」
「でも、帰る方向も違うし……やっぱり無理だよね。気にしないで」
「……そっか」
占奈さんは小さく頷くと、そっと目を伏せた。先ほどまであんなに嬉しそうにしていたのに、今はどことなく不服そうで、唇をほんの少し尖らせている。
「……占奈さん?」
「……別に、困ってないもん」
「え?」
「……何でもないのっ」
占奈さんはぷいと顔を背けた。
けれど、頬には薄紅が差したままで、先ほど身を乗り出した分だけ、今度はそっと身を引いた。
華やいだ面差しには、いつしか拗ねたような翳りが宿り、何かを言いかけた唇も、とうとう言葉を結ばない。そうして一度、未練を残すように直生を見やると、彼女は水晶へと目を伏せた。
直生もそれに倣い、二人して机の上の水晶を見つめた。
つい先ほどまでは、目を逸らす理由が見つからなかったというのに。
今度は、顔を上げるきっかけが見つからなかった。
やがて占奈さんは、ふと思い出したように鞄へ手を伸ばし、いつも水晶の手入れに使っている柔らかな布を取り出した。掌に収めた水晶をそっと包み、向きを変えては丹念に磨いてゆく。
生は黙って、その手元を眺めていた。布の擦れるかそけき音が、二人のあいだに落ちた沈黙を少しずつ和らげてゆく。先ほどまでどこか居心地の悪かった静けさも、今では不思議と苦にならなかった。
それに、こうして水晶を眺めているかぎり、少なくとも目のやり場には困らない。
つくづく、便利な水晶である。
廊下の向こうから、幾人もの話し声が近づいてきた。足音が重なり、笑い声が交じり、まだ二人きりの教室へ、いつもの朝が少しずつ押し寄せてくる。あと幾許もなく、この静けさもまた、賑わいの底へと沈んでゆくのだろう。
「今日は占ってくれてありがとう」
占奈さんは水晶を磨く手を止め、ふと顔を上げた。思いがけない言葉に目を丸くしたのも束の間、ぱっと面差しが華やいで、まるで花が一時に綻ぶような笑みを見せた。先ほどまでの気恥ずかしさも、わずかな翳りも、その笑顔のうちに跡形なく消えてしまい、直生も思わず頬を緩めた。
「ううん。私の方こそ、付き合ってくれてありがとうね」
声までが笑みを含んで、いかにも嬉しそうだった。占奈さんは水晶をもうひと拭き、名残を惜しむように磨くと、柔らかな布袋へ大事そうに収め、鞄を手に自分の席へと戻っていった。
その後ろ姿を見送り、直生はようやく椅子の背に身を預けた。
水晶のあった陽だまりには、朝の光がなお満ちて、いまだ来ぬ夕映えの俤さえ仄めいていた。
帰り道。
つい先ほどまでは、この朝がいつまでも続くことを願っていたというのに、まだ一時間目も始まらぬうちから、もう放課後が待ち遠しかった。




