第五話
剣を持ち上げた瞬間、ゲオルグにはわかった。
軽いのではない。
重さはある。
右肩には剣身の重量がかかり、焼けた掌には不格好な柄の硬さが食い込んでいる。
それなのに、重さが邪魔をしない。
切っ先を動かせば、遅れてついてくる感覚がなかった。
握った手から刃の先まで、自分の腕がそのまま伸びたようだった。
とくん。
柄から脈が伝わる。
続いて、刃から。
とくん。
二つが重なった。
ゲオルグは剣を構えた。
『収穫者』は動かなかった。
血鉄の仮面の奥から、完成した剣を見ていた。
「……何だ、それは」
初めて聞く声だった。
嘲りも、命令する響きもない。
ゲオルグは答えなかった。
一歩踏み出す。
左腕を失った身体が傾く。
足元には血が溜まっていた。
自分のものか、殺した男たちのものか、もう区別はつかない。
滑る。
それでも倒れなかった。
右手の剣を金床へ触れさせ、身体を支える。
刃が金床の角へ当たり、硬い音がした。
ゲオルグは眉を動かした。
金床に傷がついている。
刃を振ったわけではない。
軽く触れただけだった。
『収穫者』も見ていた。
男が剣を構える。
若い戦士だったという血鉄の剣。
その刃先が、わずかに下がった。
「それを置け」
ゲオルグは歩く。
「聞こえなかったか」
また一歩。
「置け」
ゲオルグは剣を握り直した。
「断る」
『収穫者』が踏み込む。
先ほどと同じだった。やはり速い。
だが、今度は見えた。
剣が右上から来る。
ゲオルグは受けなかった。
右腕を動かす。
自分で振った感覚がほとんどなかった。
緋色が走った。
がきん、と何かが弾ける。
『収穫者』の剣が途中から消えていた。
切断された刃先が回転しながら飛び、床へ突き刺さる。
二人とも動きを止めた。
『収穫者』が残った剣を見る。
半ばから先がない。
「…………」
ゲオルグも自分の剣を見た。
刃こぼれ一つなかった。
緋色の表面を血管のような筋が走っている。
とくん。
脈が打つ。
ゲオルグは息を吐いた。
「そうか」
声が掠れた。
「お前も……怒っているのか」
返事などない。
それでよかった。
『収穫者』が折れた剣を投げ捨てた。
腰へ手を伸ばす。
短剣を抜いた。
今度は待たなかった。
ゲオルグが前へ出る。
身体は遅い。
足が動かない。
視界も揺れている。
それでも剣だけが走った。
『収穫者』が短剣で受ける。
刃が切れた。
そのまま右手の指が二本飛んだ。
血が仮面へ散る。
『収穫者』は声を上げなかった。
後退する。
ゲオルグは追った。
右腕を横へ振る。
『収穫者』が身体を沈めた。
緋色の刃が頭上を抜ける。
避けられた。
そう思った直後、仮面の上半分がずれた。
金属片が床へ落ちる。
血鉄の仮面が斜めに断ち切られていた。
その下から男の顔が初めて現れる。
中年の男だった。
額に汗が浮いている。
どこにでもいそうな顔。
ゲオルグは、それを見て妙な気分になった。
怪物の顔ではない。
ただの人間だ。
ヘルマとも、自分とも変わらない。
その人間が井戸へ毒を入れ、娘を錆びさせた。
『収穫者』は残った仮面を自分で外し、投げ捨てた。
「それほどのものを……」
視線はゲオルグではなく、剣へ向いていた。
「一人の鍛冶師が持っていていいと思うのか」
ゲオルグの呼吸が止まった。
まだ言うのか。
ここまで来ても。
「こちらへ渡せ」
『収穫者』は言った。
「お前が死ねば、いずれ誰かが持っていく。ならば今渡せ。相応しい者が使う」
ゲオルグは剣を見た。
緋色の刃、黒赤い柄。
娘と、自分。
それをこの男は、まだ「もの」としか見ていない。
「……お前は」
喉が乾いていた。
血の味がする。
「何人、持っていった」
『収穫者』は答えなかった。
「何人、錆びさせた」
沈黙。
「何人、炉へ入れさせた」
「数えていない」
すぐに返ってきた。
ゲオルグは目を閉じた。
一瞬だけだった。
怒りは湧かなかった。
もう、そんなものを燃やす力さえ残っていない。
代わりに、何百回と唱えてきた宣誓の言葉を思い出した。
意味を考えることなど、いつしかなくなっていた。
『汝の血、肉、骨、爪の先に至るまで』
『命を象る身体のすべてを――我らは受け取る』
あの言葉の続き。
『剣あるいは鋏、門か屋根か』
『聖なる炎をもって作り変え』
『我ら罪人が《《責任を持って使い切る》》』
ゲオルグは剣を握った。
柄が温かい。
「奪うだけで……」
『収穫者』を見る。
「命の重みも知らん貴様らに、この剣を触らせはしない」
男の顔から表情が消えた。
ゲオルグは右足を前へ出した。
「誓い通り、俺が責任を持って――」
一度、息を吸った。
「この命を使い切ってやる!」
踏み込んだ。
『収穫者』が動く。
床へ落ちていた部下の剣を拾った。
両手で構える。
ゲオルグは剣を振り上げた。
身体中から血が抜けている。
筋肉に力が入らない。
右腕さえ、自分のものではないように重い。
なのに、剣だけは違った。
温かい。
とくん。
掌へ伝わる。
振り下ろす。
『収穫者』が剣を合わせた。
刃と刃がぶつかる。
相手の剣が折れた。
緋色の刃は止まらない。
『収穫者』が身体を捻る。
肩へ入った。
衣服の下に硬いものがある。
鎧。
刃が食い込む。
血鉄同士が擦れる嫌な音がした。
『収穫者』の身体が沈む。
ゲオルグは押した。
刃が鎧を割る。
その下の肉へ入る。
鎖骨を断つ。
胸へ。
『収穫者』の口が開いた。
声は出ない。
緋色の刃が胸を斜めに走った。
鎧が裂けた。
血が噴き出す。
それでも男は倒れなかった。
後退し、金床へぶつかる。
ゲオルグもよろめいた。
剣を床へ突き、どうにか立つ。
『収穫者』が胸元を押さえていた。
指の間から血が溢れている。
「……見事だ」
男が言った。
ゲオルグは顔を上げた。
「やはり……極上だな」
最後まで、この男にはわからない。
ゲオルグは剣を抜いた。
床を擦った切っ先が、煤の中へ細い線を引く。
『収穫者』は逃げなかった。
命乞いもしない。
ただ剣を見ていた。
その目にはもう、先ほどまでの怯えすらなかった。
血鉄を見る目。
品定めをする目。
自分の胸を割った刃を、それでも素材として眺めている。
ゲオルグは剣を構えた。
『収穫者』が口を開く。
「持ち主が死ねば――」
ゲオルグは振った。
それより先は聞かなかった。
緋色の刃が首へ入った。
抵抗はほとんどなかった。
肉を断つ。
骨を断つ。
仮面を被っていた男の頭が、床へ落ち、転がる。
残った身体が金床にもたれたまま、しばらく立っていた。
首の断面から血が噴き出し、やがて膝が折れた。
それだけだった。
ゲオルグは死体を見下ろした。
名前を知らない。
知る必要もないと思った。
若い戦士を「いい鉄だった」と語った男。
人を錆びさせ、炉へ送り、出来上がった血鉄を持ち去っていた男。
今は肉と血と骨の塊になっている。
まだ温かい。
炉へ入れれば、血鉄になるかもしれない。
だが、ゲオルグは何もしなかった。
その価値を確かめようとも思わなかった。
◇
剣が床へ落ちた。
ゲオルグは拾おうとしたが、右手が動かない。
「……くそ」
膝をつく。
右手を床へつき、もう一度剣へ伸ばす。
指先が柄に触れた。
掴む。
身体を起こそうとした。
無理だった。
そのまま横へ倒れると、頬が血溜まりへ沈む。
冷たいと感じたが、すぐにわからなくなった。
身体から熱が消えていく。
自分から血が流れているのかさえ、もう感じない。
痛みが遠かった。
耳鳴りがする。
目を開ける。
ぼやけていた。
炉の炎が二つに見える。
三つに滲み、また一つになる。
瞬きをした。
暗くなった。
しばらくして、また見える。
死体。
血。
煤。
金床。
そして剣。
ゲオルグは右手を伸ばした。
指を柄へかける。
引き寄せる。
剣身が血の中を滑った。
緋色の表面へ血がまとわりつく。
胸元まで引き寄せた。
残った右腕で抱く。
刃が身体へ触れている。
普通なら危ない。
そんなことはどうでもよかった。
「……ヘル、マ」
声はほとんど出ない。
剣を抱きしめる。
雨の音がした。
ゲオルグは目を動かした。
いつから降っていたのかわからない。
工房の屋根を叩いている。
激しい雨だった。
朝から空は曇っていたはずだ。
それだけは覚えている。
ざあああ、と雨が鳴っている。
炉の音さえ遠ざけるほど強い。
屋根のどこかから水が落ち始めた。
水が血溜まりへ落ち、赤い水面に小さな輪を作る。
寒い。
身体の芯から震えが上がってくる。
歯が鳴った。
「……寒いな」
誰に言ったのかわからない。
剣をさらに胸へ引き寄せた。
そこでようやく気づいた。
温かい。
右手で柄を握る。
温かかった。
自分の左腕だった、黒赤い柄。
そこから、かすかな熱が掌へ入ってくる。
刃にも頬を寄せた。
冷たいはずの血鉄が、やはり温かい。
あの夜。
寝床の脇。
冷えた娘の頬を掌で包んだ。
――お父さんの手、熱いね。
声が蘇った。
――炉の前にいたからな。
――いいな。
――何がだ。
――温かくて。
ゲオルグの口元が、わずかに動いた。
「……ああ」
雨が屋根を叩いている。
「温かいな、ヘルマ」
とくん。
胸元で剣が脈打った。
ゲオルグは目を閉じた。
開く。
また暗くなる。
今度は、なかなか視界が戻らなかった。
それでも剣の温度だけはわかる。
とくん。
とくん。
鼓動がある。
自分の胸にもあるのか、確かめようとしたがわからなかった。
剣から伝わる震えと、自分の心臓が混ざっている。
昔のことを思い出す。
妻の手にも熱があった。
肺を病み、呼吸も満足にできなくなった妻が、炉へ入れてくれと頼んだ夜。
ゲオルグは、その手を握っていた。
明日にしよう。
そう言った。
翌日も。
その次の日も。
最後には、握っていた手から熱が消えた。
あの冷たさだけは、何年経っても忘れられなかった。
何にもできなかった手。
妻を抱き上げられなかった腕。
今、その片方はもうない。
ゲオルグは柄を撫でた。
ざらついている。
綺麗ではない。
ヘルマの刃とは似ても似つかない。
けれど、繋がっている。
父親だったものと、娘だったものが。
もう離れない。
ゲオルグは剣を抱く右腕に、残った力を込めた。
「……約束は」
息を吸う。
浅い。
「守ったぞ」
返事はない。
それでも温かかった。
ゲオルグはほんの少しだけ笑った。
「……俺は」
言葉が途切れる。
息を整えようとしたが、うまく吸えない。
「ちゃんと……使い切れた、だろうか」
剣を抱き寄せる。
「ヘルマ」
とくん。
掌の下で脈打った。
偶然なのかもしれない。
血鉄の残響。
それだけだ。
ゲオルグには、もうどちらでもよかった。
瞼を閉じる。
雨の音が遠くなった。
炉の音も聞こえなくなっていく。
最後まで残ったのは、胸元の温度だった。
娘を抱いていた頃と同じ。
小さな身体を胸へ乗せて眠らせた夜。
頬を押しつけられた服が、吐息で湿っていたあの温かさ。
ゲオルグの右手から力が抜けた。
それでも剣は胸元にあった。
もう一度だけ。
とくん。
父親の胸に抱かれた血鉄が、もう一度脈を打った。
◇
やがて炉の炎は消え、血も煤も、降り続いた雨に冷やされた。
それでも父と娘から打たれた一振りの血鉄だけは、いつまでも人肌の温もりを失わなかった。
血鉄の贄 -完-




