T-017
一歩、足を踏み出す。
背後で自動ドアが閉まり、外の喧騒がふっつりと途絶えた。
代わりに耳に届いたのは、鼓膜に圧をかけるような、しんと静まり返った空気の音だ。
壊れてはいないし、電気も通っている。
なのに地図には載っておらず、看板も、表札も、郵便受けすらない。
存在しているのに、社会的な記録から徹底的に消去されている。
私は今、その異質な内側に立っている。
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床は曇り一つないグレーのタイル貼りだった。
想像していたよりもずっと清潔で、管理の行き届いたオフィスのロビーのようだ。
埃っぽさは微塵もなく、天井の通気口からは、かすかに一定のリズムで空調の動作音が聞こえる。
誰かが、今もこの場所を維持している。
それだけは、肌に触れる冷ややかな空気の動きでわかった。
正面には奥へと続く一本の廊下。
手前には、重厚な金属の光沢を放つエレベーターの扉。
そして、突き当たりには左右に二つの扉が並んでいる。
まずはエレベーターに近づいてみる。
呼び出しボタンを押そうとしたが、その横に埋め込まれたシリンダーが目に留まった。
専用のキーを差し込んで回さない限り、ボタンすら反応しないタイプだ。
部外者の上下の移動を、システムが端から拒絶している。
ならば、と廊下を進み、右側の扉の取っ手に手をかけた。
……動かない。
続けて左側の扉も試すが、やはり指先に伝わってきたのは、冷たい金属の拒絶反応だけだった。
「両方、か……」
独り言が、遮るもののない空間に思ったよりも鋭く響いた。
静かすぎる。
自分の吐息や服が擦れる音さえ、場違いなノイズのように感じられて少し恥ずかしくなる。
地図に載っていない。看板がない。表札がない。
一階の部屋はすべて施錠され、エレベーターは徹底的にガードされている。
普通なら、ここで立入禁止だと判断して引き返すべきだろう。
だが、廊下の突き当りに非常口を示す光が淡く点灯していた。
外へと続く扉なのだろうか。
吸い寄せられるように近づき、その取っ手に手をかける。
――軽い。
手前に引いた瞬間、重厚なはずの防火扉が、まるで使用者の意図を先読みしたかのように滑らかに開いた。
だが、開いた先に広がっていたのは、期待していた屋外の景色ではなかった。
「……階段?」
そこは、コンクリートの壁に囲まれた無機質な階段室だった。
建物の深部――あるいは上層へと誘うための垂直な空洞。
逃げ道を確認するように背後の廊下を振り返る。
遠くエントランスの自動ドア越しに、日常の街並みが額縁の中の絵のように小さく見えた。
私は一度だけ深呼吸をすると、逃げ場を失ったような圧迫感を感じながら、薄暗い階段室へと足を踏み入れた。
密閉された空間特有の、自分の心音さえ反響しそうな静寂が立ち込めた。




