第7話 夜明けの決意
リビングには、3人分の布団が横一列に敷かれている。
母は「今日はここで寝ましょう」と言い、安心感を作るように懐中電灯の明かりを落とした。
エアコンの低い稼働音。
冷蔵庫のコンプレッサーの唸り。
壁掛け時計の秒針が刻むリズム。
文明の音は確かにそこにある。
なのに、
(……なんでだろ。こんなに怖い)
美桜の鼓動は落ち着かないまま、目を閉じても眠気は来なかった。
湊は早々に寝息を立て、母も静かに横になっている。
それを確認して、美桜は天井に視線を向けた。
――ピシ……。
壁のどこかで木が小さく鳴る。
築年数の古さも理由だが、今夜はその音が必要以上に鋭く響く。
(風のせいかな……)
そう思った矢先、外から森を渡る風が“ゴォ……”と低く唸るように吹きつけた。
葉のざわめきはいつもの優しい音ではなく、“獣の呼吸”のように聞こえる。
喉がひゅっと縮まり、美桜は毛布を握る手に力を込めた。
――カタン。
今度はキッチンの方で、グラスがわずかに揺れた。
エアコンの風で揺れただけ、そう思おうとするのに、耳の奥がざわついて落ち着かない。
(……人……いるの? 上の階……)
朝の騒ぎが脳裏に浮かぶ。
あの鳥。
男の悲鳴。
ガラスの砕ける音。
薄暗い部屋に天井の影が広がるのを見ているだけで、胸が冷たくなっていった。
――トン……。
不意に、上の階のどこかで“ひとつだけ”足音がした。
たった一度の“トン”なのに、心臓が跳ね上がる。
(……誰か、起きてるの?)
次の音は来ない。
それが余計に怖かった。
エアコンの風が布団の端をわずかに揺らし、冷たい空気が腕を撫でる。
美桜は自分の身体が小刻みに震えているのに気づいた。
(やだ……寝れない……)
母のほうへそっと身を寄せる。
その瞬間、母が寝返りを打ち、美桜の肩に優しく腕を伸ばす。
寝ぼけているような、無意識の動き。
だけどそのぬくもりは、胸の奥の恐怖を少しだけ溶かした。
「……大丈夫よ……」
母が夢の中でつぶやく。
その声に、ようやく美桜の呼吸が深くなる。
(……大丈夫……朝になれば……)
天井を見つめる視界がじわりと滲み、意識は少しずつ沈んでいった。
家電の低い音が一定のリズムで鳴り続ける中、美桜はようやく、浅く、眠りへと落ちていった。
翌朝。
薄オレンジの光がレースカーテンを透かし、リビングに並べられた三枚の布団を静かに照らしていた。
空気はやけに冷たく、夜の恐怖がまだ床下に残っているような気配がある。
美桜はゆっくりと目を開け、寝ぼけた頭のままカーテンの向こうへ視線を向けた。
重いまぶたをこすり、立ち上がってベランダ側へ歩く。
窓の向こうには――
昨日と同じ、見慣れない濃い緑の海。
本来なら街並みが広がっているはずの場所に、背の高い樹木が風に揺れ、ざわ……と葉音だけが曖昧に響いた。
「……やっぱり……夢じゃないんだ」
喉の奥がひりつくような落胆が胸を満たす。
その背後から、ゆったりとした声が降ってきた。
「――あら、美桜、起きたのね。おはよう」
優しい母の声に続いて、
「姉ちゃん、おはよ~……」
湊が目をこすりながら布団から出てきた。寝癖が盛大に跳ねている。
美桜の隣に立ち、同じ角度で外を見る。
まるで鏡写しのように。
「……うわ、やっぱ森じゃん。今日も終わってんな……」
呟きながら湊はトイレへ向かう。
しばらくして――
ジャ……ッ ポコポコ……ッ
完全に水が出ず、風呂に貯めた水を流し込みながら、
「もうタンクの水、マジでギリギリだわ」
とぼやく湊の声が聞こえた。
朝食は、買い置きのパンと非常食のスープ。
テーブルにほのかに香る湯気がまだ救いだった。
三人が食べ始めて間もなく――
コン、コン……
玄関から音が響いた。
三人同時に手が止まり、空気が瞬時に凝固する。
「……今の、ノックだよね?」
美桜の声は、息の抜けたようなささやきだった。
湊も目を丸くして、
「聞こえた……誰だよ……こんな時に……」
すると、再び。
コン、コン……
さっきよりもわずかに強い。
母も椅子から立とうとするが、美桜が先に立ち上がった。
「私、見てくる」
湊も何故か無言で後ろにつく。
二人で足音を殺しながら玄関へ向かった。
覗き穴をそっと覗くと――
そこには近所のおばちゃん、伊原さんが立っていた。
髪が乱れ、肩で息をしている。
「湊……おばちゃん、だと思う……」
「本当かよ……」
美桜は一瞬ためらった。
“違うもの”に化けていたら――そんな想像が脳裏をかすめる。
恐怖で指が震えながらも、チェーンをかけたまま、ほんの数センチ扉を開けた。
「……あ、開いた……!」
伊原さんの声が間違いなく“人間の疲れた声”だったことで、美桜の肩がわずかに緩む。
「どうしたんですか、おばちゃん……?」
伊原さんは周囲を落ち着きなく見回しながら、小さく声を潜めた。
「ちょっと……お願いがあってね……。中に……入れてくれない?」
その表情は不安と疲労が混ざっており、普段のおしゃべり好きな顔ではない。
美桜は慎重にチェーンを外し、扉を開いた。
「伊原さん、どうしたんです?」
奥から母の声が飛ぶ。
伊原さんは胸に手を当て、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね……本当にごめんなさいね。
飲み物が朝で全部なくなっちゃって……
昨日買いに行くつもりだったのに……こんなことになって……
少しでいいから、水……分けてくれないかしら……?」
語尾が震えていた。
普段なら気丈な人のはずなのに。
母は数秒だけ悩むように眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「……こういう時こそ助け合いですよね」
非常用の備蓄から一本の水を渡した。
「本当にありがとう……! 食べ物はまだあるの。
困ったら私も力になるから……。
美桜ちゃん、湊くんも……ありがとうね」
深々と頭を下げ、伊原さんは小走りで自宅へ戻っていった。
扉を閉め、美桜は鍵をかけながら母に問う。
「……水、渡しちゃってよかったの?」
母は少し疲れた笑顔で答えた。
「まだ二本あるし……きっと助けも来るわよ。
大丈夫、大丈夫」
不安を押し隠すような声だった。
昼近く。
窓の外の森は風が止まり、不気味なほど静かだった。
遠くの鳥の声も、動物の気配もない。
「……なんか、静かすぎない?」
湊が何度目かの外確認で呟く。
「静かなのは平和ってことよ」
母は鍋をかき混ぜながら笑った。
ミートソースの香りが部屋に広がる。
だが美桜は、胸の奥に重い石のような違和感を覚えていた。
夜の帳がすとんと落ちてきた。
窓の外は闇に沈み、森のシルエットすら見えない。
部屋は、湿った空気がじわりと肌に絡みついた。
ぽつ、とひとつだけ光が灯った。
湊が握る懐中電灯。心細いほど頼りない明かりだ。
「ねー、お母さん。電池ってまだあるの?」
湊の声は、暗闇が吸い込むように小さく響いた。
母は食器を片付けながら振り向く。
「え? もう切れちゃったの? まだあったと思うけど……」
「いや、切れたわけじゃない。変えがあるのかなって思っただけ」
湊は懐中電灯を手の中でくるくる回し、どこか不安げに天井を見上げた。
闇が近い。照らさなければ触れられそうなほどに。
そんな時、ソファ脇を探っていた美桜が「あ、これじゃない?」と言って小さな箱を取り出した。
「ほら、前に買ったロウソク。非常用の」
「それ! 探してたのよ!」
母の声に少し明るさが戻る。
「マッチは? 一緒に入ってた?」
「うん、あった」
「なら良かった……。美桜、火つけてくれる?」
「はーい」
美桜は慎重にロウソクを立て、マッチを擦った。
――シュッ……パチッ。
火の粉が弾け、オレンジ色の炎が静かに揺れた。
湊は懐中電灯をそっと消す。
ロウソクの炎は、まるで息をしているかのように、揺らぎながら3人の影を壁に伸ばした。
影が、揺れる。
母は二人を見渡し、少し真剣な声で言った。
「美桜、湊……ちょっと座って」
二人は顔を見合わせ、小さく頷いて椅子に座る。
ロウソクの炎が母の顔を照らし、影のラインを深くしていた。
そのせいか、母がいつもより疲れて見えた。
「……あなたたち、ごめんね」
第一声から重い。
「水が、もう残り少ないの。節約して使いましょう。
助けが今日来ると思ってたけど、来なかった……。
明日来るかもって思いたいけど、その保証もないし……」
美桜の心がずきりと痛んだ。
「……あと、どれくらいあるの?」
母は台所から持ってきた袋を机に置いた。
中には新品の水1本と、残りわずかの半分以下になったペットボトル。
少ない。
あまりにも、少ない。
「これだけ……」
湊はそれを見て、ため息をひとつ落としてから、自分の掌を見つめ始めた。
「お前……なにしてんの?」
美桜が呆れたように言う。
「水を出そうとしてるんだよ!」
湊は眉間にしわを寄せ、両手にぐっと力を込める。
「は?? バカじゃないの?」
美桜は鼻で笑った。
「よく漫画であるだろ! 魔法で水作って飲み水には困らないってやつ!」
「魔法なんてあるわけないでしょ」
「あるかもだろ!」
湊が声を上げる。
ロウソクの炎がその勢いに揺れた。
「街が森になってんだぞ!? こんな“魔法みたいなこと”起きてんだから、ひょっとしたら俺らも魔法使えるとか……!」
美桜は一瞬だけ言葉に詰まった。
可能性の話なら、否定できない部分もあった。
でも。
「……じゃあ、あんたは魔法を頑張ってなさい」
そう言いながらも、心の奥では
“水……どうしよう……”
という不安が膨らんでいた。
結局、どうにもならないまま夜は更けた。
ロウソクの小さな炎が朝方に消え、薄明かりがカーテン越しに差し込む頃、美桜は目を覚ました。
そして真っ先に、昨日と同じように外を見る。
森。
濃い緑。
変わらない異常世界。
「本当に……どうしよう……」
ため息が漏れたその時――
視界の端に、馴染みの看板が映った。
“いつものスーパー”。
昨日も見えた、あの建物。
水がほしい。
ここにいても減るだけ。
選択肢は少ない。
美桜は唇を噛みしめた。
「……そうするしか、ないか」
意を決して、二人を呼んだ。
「湊、お母さん……」
朝食を囲みながら、二人は美桜の顔を見つめた。
美桜は深呼吸し、まっすぐ言った。
「私――」
その先の言葉で、3人の日常はさらに深く変わっていくことになる。




