第6話 灯りを消す夜
時間が過ぎ、太陽は空の頂に差しかかろうとしていた。
「お母さん。……腹減った」
ソファにだらしなく寝転がっていた湊が、天井を見上げたままぼやく。
「そうね。もうお昼の時間だもんね」
母は壁の時計にちらりと目をやり、食器棚を開けた。
カサカサと袋を探る音のあと、棚の奥から袋ラーメンを三つ取り出す。
ビリ、と小気味いい音を立てて袋を破り、鍋に水を入れてガスコンロの上に置く。
つまみを回す。
カチッ。
小さな点火音だけが虚しく響き、火はつかなかった。
「あ……そうだった。ガス、止まってるんだったわ」
母は額に手を当て、苦笑する。
「えーっ、じゃあ飯食えないの?」
湊が露骨に不満そうな声を上げた。腹の虫が、ぐう、とタイミングよく鳴る。
「ちょっと待ってね」
母は別の棚を開け、ゴソゴソと中を探る。
しばらくして、「あったあった」と明るい声を上げ、小さなカセットコンロを取り出した。
テーブルの上に置き、カチッとつまみを回す。
ボッ。
青い炎が立ち上がる。
ガスの匂いと一緒に、ほんの少しだけ“いつもの昼”が戻ってきたような気がした。
「……これでいけるわね」
母の言葉に、湊の表情がぱっと明るくなる。
***
食事は、驚くほど“ふつう”に終わった。
塩気の強いスープの味、麺の柔らかさ、湯気の温度。
それらが、さっきまでの異常事態をほんの少しだけ遠ざけてくれる。
母が流しで食器を洗っているときだった。
蛇口から流れていた水が、急に様子を変える。
ゴポ、ゴポッ……ボッ、ボッ。
空気が混じるような濁った音のあと、水の勢いが弱まり──そして、ぴたりと止まった。
「え……どうしたの?」
母は蛇口に向かって思わず話しかける。
リビングの椅子に座っていた美桜は、その音にハッとして立ち上がり、母のもとへ歩いていった。
「お母さん、もしかして……水、止まった?」
蛇口をひねり直しても、水は出ない。
母は小さく息を吐き、「そうみたい」と肩を落とした。
「どうしよう……」
「もしかして、お風呂場に溜めた水で終わり?」
浴室のバスタブに溜めた水の量を、頭の中でざっと計算する。
「うん。飲み水は、災害用に買っておいたペットボトルがあるから、数日はもつと思うけど……」
「数日経ったら、さすがに誰か助けに来てくれるでしょ」
そう言いながら、美桜は自分に言い聞かせるように笑い、再び椅子に戻って腰を下ろした。
心の奥では、不安がじわりとにじんでいた。
***
その後もしばらく、三人はそれぞれの時間を過ごした。
「暇だなー……」
湊はソファの上でだらだらと転がり、天井を見たり、伸びをしたりしている。
さっきまで握りしめていた携帯は、電波がつながらない現実に根負けしたのか、ソファの上に投げ出されたままだ。
窓の外の光は次第に傾き、部屋の中の影が長く伸びる。
西日がカーテン越しにオレンジ色の薄い幕をつくり、家具の輪郭をぼんやりと縁取っていた。
「夜ご飯にして、今日は早めに休みましょう」
母はそう言って、限られた食材の中から使えそうなものを選び、夕食の準備を始めた。
そんなときだった。
ドンッ──。
外から、何かが爆発したような低い衝撃音が響いた。
窓ガラスがかすかに震え、コップの水面が揺れる。
美桜と湊は、思わず顔を見合わせる。
次の瞬間にはもう、二人ともベランダ側のカーテンへ向かっていた。
隙間を少しだけ開け、外を覗き込む。
すでに空は暗くなり始めており、森の輪郭が黒い塊のように沈んでいる。視界は悪い。
「湊、なんか見える?」
「んー、なんも見え──あ。今の……」
湊の言葉が途中で途切れた。
森の中腹あたりから、火の玉が斜め上へと打ち上がったのだ。
それは一瞬、真横に走る光の尾を引きながら上昇し、
上空で ボンッ と膨らみ、花のように弾けた。
しかし、花火のような華やかさや美しさとは明らかに違う。
色は濁ったオレンジと赤の中間で、輪郭は不安定に揺れている。
「なんだ? 花火……?」
湊が半ば冗談、半ば本気でつぶやく。
「花火にしては……あんまり綺麗じゃないね」
美桜は眉をひそめた。
胸の奥に、得体の知れないざわつきが広がる。
そうしている間にも、森の中では爆発が立て続けに起こっていた。
今度は上空ではなく、水平方向に火の玉が走る。
木々が視界を遮っているため、何がどう動いているのかは見えない。
それでも、たしかに 光の軌跡が“何かの戦い”を描いているように思えた。
数分その光景が続き──
やがて、先ほどまでの騒がしさが嘘のように消え、森は再び闇に沈んだ。
静寂が戻る。
「……誰か、あの鳥と戦ってたのかな」
湊がぽつりと言う。
その声には、期待と不安が半分ずつ混ざっていた。
「わからないけど……きっと、何かあったんだと思う」
美桜はそう答え、カーテンから身を引いた。
そのときだった。
パチッ。
軽いスイッチ音とともに、天井の照明がふっと点った。
さっきまで夕暮れに支配されていた部屋が、一瞬で白い光に満たされる。
「やっとついたわね。やっぱり、これくらい明るくないと」
湊は少し安心したように笑い、何も考えず美桜の隣の椅子に座った。
だが、美桜の心臓が、嫌な形で跳ねた。
(……待って。これ、やばいんじゃ──)
「お母さん、電気消して!!」
思わず声が上ずる。
「えっ、なによ、急に」
母が驚いて振り返る。
「自分でやる!」
美桜は立ち上がり、ほとんど駆けるようにして壁のスイッチへ向かった。
手のひらで叩きつけるようにスイッチを押す。
パチン。
再び、部屋が薄暗さに包まれた。
「姉ちゃん、なんで電気消すんだよー」
湊が不満そうに言う。
「よく考えてみなさいよ。あの鳥が少しでも賢かったら、
電気のついてる部屋に“人がいる”ってバレちゃうでしょ」
言いながら、自分でもその考えに背筋が冷たくなる。
「……そんな賢いかなぁ……」
湊は口を尖らせながらも、それ以上文句は言わなかった。
代わりに部屋の隅に置いてあった懐中電灯を手に取る。
そのタイミングで、母が「ご飯出来たわよ」と声をかけ、
テーブルに簡素な夕食を並べた。
まだ完全には日は沈みきっておらず、カーテン越しにかすかな夕陽が差し込んでいる。
しかし、その明るさは心もとない。
懐中電灯のスイッチを入れると、白い光がテーブルと皿の輪郭を浮かび上がらせた。
懐中電灯の光を頼りに、三人は黙々と夕食をとる。
ゆっくりと、窓の外の色が沈んでいき、やがて部屋の中から自然光が完全に消えた。
食事を終えると、湊は再びやることをなくし、懐中電灯を片手にベランダへ向かった。
カーテンの隙間から外を覗き、何をするでもなく光を外へ向ける。
しばらくすると、思いついたようにレンズ部分を手で覆ったり離したりして、
カチ、カチ、カチ…… とモールス信号の真似事を始めた。
森の向こうに見えるマンションや家々からは、ぽつぽつと明かりが漏れている。
誰かがそこにも“まだ暮らしている”ことを示す、小さな光の点。
湊はそれをぼんやりと眺めていた。
そのときだった。
そのうちの一つ──
明かりの灯っていた窓の一つが、内側から弾け飛んだ。
ドゴォンッ!!
鈍く重い爆発音。
ガラスが砕け、炎のような光が一瞬だけ窓枠から噴き出す。
湊は反射的に懐中電灯のスイッチを切った。
手の中の光が消え、部屋の中が再び闇に近づく。
彼はゆっくりと、懐中電灯を床に置き、
カーテンからそっと離れた。
何も言えなかった。
言葉にした瞬間、今見た出来事が“現実”として固まってしまいそうで。
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