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第5話 静寂を破るもの

「少し休憩しましょ。……色々あったし、疲れたでしょう?」


母が柔らかく言うと、美桜はこくりと頷き、ダイニングの椅子に腰を下ろした。


力が抜けるように背もたれへ体を預ける。


「確かに疲れたー」


湊はそう言って、その場でソファにバタッと倒れ込んだ。


「……あんた、なんもしてないでしょ」


美桜は小さく笑いながら呆れたように言う。


笑い声とは裏腹に、胸の奥の張りつめていた何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。


母はキッチンで3人分の飲み物を用意し始める。


湯気が上がる音が、ほんの少しだけ安らぎを連れてきた。


その瞬間だった。


ドン……ドン……。


天井から、誰かが歩くような重い足音が落ちてきた。


美桜はゆっくりと視線を上へ向ける。


(上の人……起きたのかな)


そう思いながら湯呑みに口をつけた時──


ガラ……ガラガラ……。


今度は、明らかにベランダの戸を横に引く音。


金属レールを擦る、あの独特の嫌な響き。


美桜の手から湯呑みが少しだけ揺れた。


「……今、上の人……ベランダ開けなかった?」


母に問いかける。


「え? そんな音した?」


母は気づいていないようだ。


「開けたと思うの……! 危ないって教えてあげないと──」


美桜は思わず立ち上がり、ベランダ側へ歩き出す。


戸に手をかけ、開けかけ──


その瞬間、脳裏に“あの鳥”の姿が鮮明によみがえった。


嘴、羽音、赤い目。


首の後ろの皮膚がひやりと冷たくなる。


(見てしまったら……また襲われたら……でも──


もし助けられるなら……)


葛藤が胸の中で渦を巻いた、その時。


ドンドンドンッ!!


さっきとは桁違いの勢いで、上の階が走り始めた。


床板が震え、美桜の膝がほんの僅かに揺れる。


3人の視線が、一斉に天井へ吸い寄せられた。


続いて──


バタバタバタッ!!


ドォンッ!!


家具が倒れる音と、何か重いものが床に叩きつけられる衝撃音。


石膏がカタリと落ち、空気の粒子が一瞬震える。


そして──


耳を裂くような破壊音が上階から響いた。


ガシャァァン!!


砕けたガラスが散る“細かな雨”の音が、わずかな空気の振動を伴って、床下からまで伝わってくるようだった。


一拍置いて、


ズドンッ!!!!!


床を“思い切り殴りつけた”ような衝撃音が落ちてきた。


天井の電灯がビリッと震え、キッチンの乾いたグラスがカタカタと揺れる。


それは家具が倒れた音ではない。


もっと“重い”“柔らかい”“肉の詰まった何か”が


床に叩きつけられた時の、鈍い破砕音だった。


美桜の喉がひゅっと狭まる。


(……倒れた……?


いや……違う……押し倒された……?)


湊が息を飲んだまま、肩をこわばらせる。


「い、今の……絶対ヤバい音だろ……」


母は、言葉を失ったように天井を見つめている。


そして続けざまに、


バタバタッ!!


何かが暴れるような音、


倒れた家具が転がる音、


そして──音が止まる。


湊が青ざめた顔で吐き出す。


「……どうなってんだよ……?」


部屋の空気が一瞬で冷えたように感じる。


呼吸が浅くなる。


心臓の鼓動だけが、静寂の中で嫌に大きく響いた。


しばらく、世界が息を潜めたように、音が止む。


美桜はぽつりとつぶやいた。


「……大丈夫、なの……かな」


母は無理に笑みを作りながら、美桜の肩にそっと手を置く。


「きっと大丈夫よ。急ぎの用事があっただけよ……ね?」


その“作り笑い”は、震えていた。


その時だった。


カチ……カチ……カチカチカチ。


硬い何かが床を叩くような、細かく、異様に一定のリズム。


まるで金属の爪がフローリングを歩いていくような。


その音は、ゆっくりと──


確実に──


ベランダの方向へ進んでいく。


3人は息を止める。


喉が勝手に締まり、声が出ない。


音だけが、家の中の空気を切り裂くように進んでいく。


そして、その足音がベランダに近づいたところで──


ふっと、途切れた。


世界がまた、音を失くした。


静寂が、皮膚の下まで深く入り込んでくるようだった。


美桜はハッとして、吸い寄せられるようにベランダへ向かった。


震える指先でカーテンをつまみ、ほんの数センチだけ開く。


その隙間から見えたのは──


真っ黒な羽を広げ、森の上空へと滑るように飛び去る“あの鳥”の後ろ姿。


「っ……!」


一瞬で、心臓が跳ね上がった。


胸の中心を掴まれるような圧迫感。


耳の奥でドク、ドク、と血の音だけが膨らんでいく。


あの朝の光景が、断片的なフラッシュのように脳裏を駆け抜け──声が漏れそうになるのを、美桜は両手で必死に覆い隠した。


脚に力が入らない。


膝がカクンと折れ、美桜はその場に崩れ落ちた。


「美桜!?」


母が慌てて駆け寄り、肩を抱く。


その手の温度がじんわりと伝わり、震えている身体をどうにか現実へと繋ぎとめた。


湊も、不安そうに唇を噛んでいる。


美桜は震える息を吐きながら、深く、深く呼吸を繰り返した。


肺がうまく膨らまない。胸が痛い。


それでも何度も呼吸し、ようやく波が引くように落ち着いていく。


そして湊の方を向き──無言で、かすかに親指を立てた。


湊はホッとしたように目を細め、静かにカーテンを閉じた。


数分後、美桜はようやく声を出せた。


「……大丈夫。ありがとう、お母さん。落ち着いたよ」


母は優しく微笑むと、「少しソファで休みなさい」と促した。


湊は何も言わず、いつもの椅子へと腰を下ろす。


携帯をいじっては眉をひそめ、また操作し……画面に変化がないことに小さな舌打ちをした。


しばらくそれぞれが持ち場で時間を過ごした。


母は食料や水の残りを確認し、


湊は黙々と電波の回復を待つかのようにスマホをいじり、


美桜はソファに身を預け、目を閉じて呼吸を整える。


部屋の中の静けさが、かえって重くのしかかってくる。


その時──


「ん?なんか聞こえない?」


湊が首をかしげ、耳を澄ませた。


風の音でも、機械音でもない。


窓を締め切っているせいで聞き取りづらいが、確かに外から声のような……。


『……ださい……んぜ……に……な……。……くにん……』


断続的に、人の声が届いた。


「湊、静かに」


寝転んだままの美桜が言う。


しかし、何を言っているのか判別できない。


湊は立ち上がり、ベランダへ向かった。


「2人とも来て。少しだけ開けるから、なんて言ってるか聞いてくれ」


美桜は目を開き、湊の側へ寄った。母も同じように近づいてくる。


「じゃあ……開けるよ」


湊がゆっくりと扉を引く。


わずかに出来た隙間から、外気がすっと流れ込む。


夏の湿った匂い。木々のざわめき。


3人は顔を寄せ、耳を向けた。


『こちらは──警視庁です。現在、異常事態が発生しており──


非常に危険で攻撃的な生物が確認されております。


住民の皆さんは家や安全な場所から出ず──鍵を──』


声は途切れながらも、なんとか聞こえる。


美桜は思った。


(……あんな大きな音、外に響いてる。大丈夫なの?)


母は小声で「とにかく今は家にいましょう」と言い、美桜も小さく頷く。


その時──


『こちらは──警視庁です。現在、異常事態が発生して──』


ブツッ。


と、突然音が切れた。


直後。


ズガァァァン!!!


何かが激突する凄まじい衝撃音が、森の奥から響き渡った。


木が折れるような音、金属がひしゃげるような破砕音が連続する。


湊は息を呑み、ゆっくりと扉を閉めた。


「……やっぱり、外は危険みたいね」


美桜が小さな声で言う。


「うん……あの人、無事だといいけど」


湊は不安を隠しきれないまま答えた。


閉ざされた家の中で、3人はただ息を潜めた。


外では、何かが確実に“変わり始めている”。

読んでいただきありがとうございました。

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