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第3話 冷たい水の中で

玄関に座り込んでいた。


膝を抱え、まだ震える手を両手で握りしめる。


呼吸が浅い。喉の奥でかすかに空気が擦れる音がする。


湊が心配そうにこちらを見ていた。


母は息を整えながら、美桜にそっと声をかける。


「大丈夫? 美桜」


その言葉に、美桜は頷こうとした。


だが、首が思うように動かない。


「うん……大丈夫……」


出てきた声は、自分のものとは思えないほどか細かった。


いつもの元気な声ではなく、震えが混じっている。


母はしゃがみ込み、そっと肩に手を置く。


温かいはずの手が、わずかに震えていた。


「無理しなくていいのよ」


その言葉に、美桜はかすかに笑った。


頬が引きつる。涙が出そうになるのを、歯を食いしばって押しとどめる。


「うん……でも、もう大丈夫。ちょっと……服が汚れちゃったから……お風呂、入ってくるね」


ゆっくりと立ち上がる。


足がまだふらついていた。


それでも一歩ずつ歩き、浴室のドアを開ける。


蛇口を捻る。


水が勢いよく流れ出す――が、ぬるくならない。


「……お湯、出ない……」


ガスが止まっているのか。


美桜は一瞬だけ逡巡し、それでも蛇口を開いたまま、冷たいシャワーを浴びた。


氷のような水が頭から降り注ぐ。


全身が小刻みに震えた。


皮膚の下を、冷たさがゆっくりと這い上がっていく。


目を閉じると、さっきの光景がフラッシュバックする。


――赤い飛沫。


――倒れたおじさんの体。


――鉄の匂い。


「ッ……!」


声が漏れそうになり、口を押さえる。


喉の奥が痛い。胸の奥で、何かが軋む。


だめだ……泣いたら……崩れる……。


それでも、涙は勝手に溢れてきた。


冷たい水と混ざり、頬を伝って落ちる。


「……こわいよ……お父さん……なんで、いないの……」


声に出した瞬間、胸の奥の何かがひび割れた。


浴室の中に、嗚咽が小さく響く。


二年前の病室。


薄いカーテンの向こうで、冬の日差しが白く揺れていた。


痩せ細った父がベッドに横たわり、酸素マスクの下で微笑んでいる。


その手は冷たかったが、力強く美桜の指を握り返してくれた。


『美桜……お前は強い子だ』


掠れた声だった。


それでも、どんな言葉よりも温かかった。


『お母さんと……湊を、頼んだぞ』


あの時の父の手の感触が、まだ掌に残っている気がした。


どれくらい時間が経ったのか分からない。


やがて、美桜は大きく息を吸い込み、顔を上げた。


「――よしっ」


震える声で、自分に言い聞かせる。


「怖い時間は……もう終わり。私は負けない。私が、守るんだから」


そう呟いた声は、まだ震えていた。


それでも、目だけはしっかりと前を向いていた。


蛇口を止める手が、まだわずかに震えている。


水が止まり、浴室に静寂が戻る。


扉を開けると、母と湊が立っていた。


ふたりとも、安堵と不安が入り混じった表情で彼女を見つめている。


「美桜……?」


「お母さん、ごめんね。もう大丈夫。心配かけて」


笑おうとするが、唇が少しだけ震えた。


母は言いかけた。


「でも、あなた……まだ手が――」


美桜は両手を胸に抱えた。


指先がまだ冷たく震えている。


「確かにまだ怖いけど……このまま震えてても、何もできない。外がどうなってるかもわからないし……お父さんなら、絶対、動いてたと思う」


母は言葉を失い、ただ娘を見つめた。


その瞳の奥で、少しだけ涙が光った。


「……美桜」


湊が口を開く。


「姉ちゃん、本当に大丈夫なの?」


美桜は一拍置いて、力なく笑った。


「もち!」


指でグッと親指を立てる。


湊は呆れたように笑って、肩をすくめた。


「そ。ならいいけど……お母さん、姉ちゃんがそう言うなら信じよ。俺、リビングに行ってる」


母はまだ心配そうだったが、美桜に押し出されるように脱衣所の外へ出ていった。


「早く拭いてね。風邪ひくわよ」


「うん……」


仕切りのカーテンを閉める。


静かな空間に、自分の息遣いだけが響く。


「……私は大丈夫。私は大丈夫……」


震える手で髪を拭きながら、何度も呟く。


まるで、言葉そのものにすがるように。


シャワーの名残が、まだ肌の上で冷たかった。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

静かに崩れていく日常の中で、美桜と湊がどう成長していくのか。

そんな物語を、これからもじっくりと描いていければと思っています。


もし、この世界に少しでも惹かれるものがあったら、

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