第32話 歪んだ常識
「わかりました」
カイは、短くそう答えた。
逡巡はあったはずなのに、声に迷いは残っていない。
ハンスは小さく息を吐き、頷く。
「ありがとう。じゃあ、案内しよう」
「……はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
美桜たちは、ハンスとリーネの後について歩き出す。
舗装の甘い道路を進むにつれ、街の景色が少しずつ歪んでいく。
建物の高さは現代日本のそれに近い。
だが、使われている素材や装飾、立ち並び方がどこか噛み合っていない。
見慣れたはずの風景なのに、
知らない街を歩いている感覚が拭えなかった。
やがてハンスが足を止める。
「ここだ」
振り向いた先に立っていたのは、
年季の入った工場施設だった。
錆びた鉄骨。
割れたコンクリート。
そして――
**佐久間製紙工場**
そう書かれた、日本語の看板。
美桜は、思わず視線を凝らした。
ここが「別の世界」ではないことを、無言で突きつけられる。
紙と機械油の混じった匂いが、確かに鼻を刺した。
ハンスが口を開く。
「本来は、新しく住宅を建てる予定地だった」
「だが……ある日、君たち日本人の建物が、ここに現れた」
“現れた”という言い方に、誰も突っ込まなかった。
「中に人はいなかったし、広さも十分だった」
「だから、しばらく使わせてもらっている」
そう言って、彼は工場の奥へ歩き出す。
「……何人くらいいるんですか?」
カイが、静かに尋ねた。
「三十六名」
「その中に、子どももいる」
「……え、子どもも?」
美桜の声が、思わず漏れた。
ハンスは振り返らずに答える。
「ああ」
「だが、年齢で安全を判断できる状況じゃない」
美桜は足を止めた。
「でも……子どもは、そんな――」
言葉が途切れたところで、カイが横から声をかける。
「美桜ちゃん」
責めるでも、遮るでもない声。
「今回の判断を正しいと言うつもりはない」
「でも……僕たちの世界でも、子どもが武器を持つ場所はある」
美桜は、唇を噛む。
「日本では考えられなくても」
「“この世界”では、もう珍しい話じゃない」
「……でも……」
美桜は、それ以上言えなかった。
ひときわ大きな建物――工場の正面に近づくと、
そこには**衛兵らしき人物が二人**、無言で立っていた。
鎧の金属音が、微かに鳴る。
視線が、こちらを値踏みするように走った。
ハンスは少し手前で足を止める。
「悪いが……少し、ここで待っていてくれないか」
そう言って、兵士の方へ歩いていく。
低い声で短い会話を交わし、やがて――
「こっちに来てくれ」
ハンスが、手を挙げて合図した。
美桜は、工場を見上げる。
日本の建物。
異世界の兵士。
そして、自分たち。
ここは異世界ではない。
**現実が歪み、混ざり、まだ名前のついていない世界**だ。
その中心に、今、自分たちは立っている。
「この先に、君たちと同じ日本人がいる」
ハンスは、そう告げた。
指し示された先は、どこにでもありそうな工場の入口だった。
無機質なコンクリートの壁、色あせたシャッター。
特別なものは何もない。ただ、そこに“人が集められている”という気配だけが漂っている。
「……早く、皆さんに説明してあげましょう」
美桜が、少し急ぐように言った。
カイは小さく頷く。
「そうだね。でも、まずは僕が行くよ」
「君たちは外で待ってて」
それは、判断というより配慮だった。
「あ……はい」
美桜は、それだけを返した。
「ハンスさん、中に入りましょう」
カイの声を合図に、ハンス、そしてグロスが続く。
三人は階段を上がり、工場の中へと姿を消した。
扉が閉まる。
――直後、内側から声が聞こえてきた。
言葉は断片的で、内容までは掴めない。
だが、穏やかな話し合いではないことだけは、はっきりと伝わってくる。
「……中、どうなってんだろ」
湊が階段に腰を下ろし、ぽつりと呟いた。
「さあ……」
美桜は視線を落とす。
「何もなく、終わってくれればいいけど」
母は「きっと皆さん納得してくれるわ」
そう言って、無理に笑った。
――数分後。
**ガチャリ**と、工場の扉が開いた。
美桜たちは一斉に振り返る。
姿を現したのは、カイたちだった。
「どうでした?」
美桜が尋ねる。
カイは、首を横に振りながら答えた。
「……全然ダメだ」
「聞く耳を持ってもらえない」
苦笑いを浮かべる。
「騙されてるとか、ギルドの犬だとか……色々言われたよ」
「……そうですか」
美桜は、残念そうに目を伏せた。
「また明日、再チャレンジだ」
カイはそう言って、明るく笑ってみせる。
「すまない」
ハンスが、申し訳なさそうに言った。
「嫌な思いをさせてしまったね」
「いえ、大丈夫ですよ」
「みんなのためですから。頑張ります」
カイがそう返した、その時――
**ドンッ!!**
続けて、**ガラガラガラッ**という大きな音。
「うわぁぁぁぁ!!」
悲鳴が、工場の中から響き渡った。
「……何?」
美桜が、息を詰めて言う。
その瞬間、カイが駆け出した。
「――っ!」
美桜たちも、反射的に後を追う。
カイが勢いよく扉を開ける。
開かれた先には――
**積み上げられていたパレットが崩れ、人が下敷きになっていた。**
呻き声。
傍らでは、母親が子どもを抱きしめ、子どもは声を上げて泣いている。
数人の男たちが、必死にパレットを持ち上げようとしていた。
「エナを呼んできてくれ!」
グロスが声を張り上げる。
「俺が行ってくる!」
それに応えるように、湊が走り出した。
「グロス、あれを退けよう!」
「ハンスさんたちも、手伝ってください!」
カイは事故現場に駆け寄る。
「お前たちの手は借りん!」
壮年の男性が、怒鳴り声を上げた。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
カイは言い放ち、その言葉を無視して動いた。
カイとグロスで、パレットを押し退ける。
――露わになったのは、凄惨な現実だった。
脚は、かろうじて形を保っている。
だが、折れた骨が皮膚を突き破り、白く露出していた。
美桜は、込み上げる吐き気を必死に押し殺す。
「早く病院に連れて行かねぇと!」
誰かの声を皮切りに、周囲が一気に騒がしくなる。
その時。
「エナさん、連れてきたよ!」
湊の声が響いた。
肩で息をしながら、湊とエナが駆け寄ってくる。
「……まじかよ」
湊は、その光景に目を逸らした。
「なんじゃ、そいつは。医者か?」
先ほどの男性が、荒い声で問う。
「医者みたいなもんですよ」
カイが答える。
「なら、早く見てくれ!」
エナは、黙って傷口に手をかざした。
「――慈悲深き光よ、苦痛を洗い流し
命の巡りを正し給え」
静かな詠唱。
「……ヒール」
淡い緑の粒子が、彼女の手元から降り注ぐ。
「損傷が大きいです」
「少し時間がかかるかもしれません」
「そうか……仕方ない」
「可能な限り、続けてくれ」
「……はい」
エナは、ただそう答え、治療を続けた。
数分が経つ。
――血は止まっている。
だが、傷は思ったほど塞がらない。
(……治りきらない)
(それに……エナさん、すごい汗……)
その時。
「さっきから何をしてるんだ!」
男性が怒鳴った。
「手をかざしてるだけじゃないか!病院に行くか、ちゃんと手当をしてくれ!」
「今、治療してます。少し待ってください」
「治療だと?」
嘲るような声。
「そんなもので傷が治るわけがないだろ!」
「おい、運ぶぞ!車で十分だ!あそこの大きな病院に行く!」
数人が、エナたちに近づこうとする。
それを遮るように、**カイと美桜が前に出た。**
「……はぁ」
男性が吐き捨てる。
「お前らみたいな詐欺師に任せてたら、死んじまう!退け」
「退きません」
カイは、静かに言った。
「治療の邪魔をしないでください」
「何が治療だ!手をかざしてるだけで助かると思ってるのか?」
「それは殺人と同じだぞ?……いいのか?」
男は、挑発するように言い放った。
工場の中に、張り詰めた沈黙が落ちる。




